対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「オイラーの公式と複合論」への案内

2009-02-01 | 案内

 オイラーの公式は、数学で最も美しい式といわれている。たんに美しいだけでなく、実用的にもすぐれている。それは、異なる種類の二つの関数、指数関数と三角関数を結びつけるもので、次のような式で表される。
 
  eix = cos x+i sin x

 ここの x に、π を代入して変形すると、起源がまったく異なる e (自然対数の底)と i (虚数単位)と π (円周率)と 1 (乗法の単位元)と 0 (加法の単位元)とが、次のような関係になっていることがわかり、感動する。

   e+1=0  

 遠山啓はオイラーの公式を、太平洋と大西洋を結ぶ「パナマ運河」と形容していた。また、吉田武は「虚」と「実」、「円」と「三角」を結ぶ「不思議の環」と形容した。ファインマンは「宝石」とよんでいる。

 この公式は、18世紀にオイラーが導びいたものである。ふつうの教科書では、この公式は、指数関数 eix ・三角関数 cos x と sin x のマクローリン展開を比較することによって、説明されている。しかし、これは、オイラーの発想とは違っている。

 志賀浩二は『無限のなかの数学』において、「オイラーは、円のn等分を極限まで追っていくことを、虚数の世界から眺めたのです」とオイラーの発想を特徴づけていた。

 わたしは志賀浩二の指摘を少しずらしたところにオイラーの発想を見るべきではないかと思った。というのは、志賀の指摘では、「極限」が主となり、「虚数」が従のような印象をもったからである。

 「極限」と「虚数」をともに主従の関係として見ること、「極限」と「虚数」を同等に扱うことによって、オイラーに近づけるのではないか。

 「極限」と「虚数」の複合である。

 オイラーが結びつける2つの「論理的なもの」。一つは、虚数単位が入った形でのn倍角の公式である。もう一つは、自然対数の底の極限による定義式である。前者には、虚数はあるが極限はない。後者には、極限はあるが虚数はない。

 オイラーはこの2つを混成する。一方で、n倍角の公式に極限が導入される(n→∞)。他方で、指数に虚数が導入される(e→eix)。混成されることによって2つとも「極限」と「虚数」の形を整えるのである。混成モメントの形成である。

 志賀浩二は次のように述べている。

そうすること(n倍角の公式を変形し、nをかぎりなく大きくすること――引用者注)により等分点を極限まで追いつめ、円弧の長さと半弦の長さの違いなど霧のなかに消えてしまうような究極の場所にオイラーははじめて立つことができたのです。その場所でそれまでだれも予想したことのなかった夢のような一つの公式を導いたのです。それがオイラーの公式でした。

 志賀が指摘する「究極の場所」は、わたしにとっては「混成モメント」が形成された場所である。

 指数関数と三角関数という異なった2つの関数を結びつけるオイラーの発想は複合論で把握できるのではないだろうか。

 以前の稿を少し改めたので、案内する。

    オイラーの公式と複合論


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2 コメント

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はじめまして。オイラーの公式に対する実に深い洞... (青春の弁証法)
2010-06-17 19:34:08
はじめまして。オイラーの公式に対する実に深い洞察を興味深く拝見いたしました。
今後とも、喜一郎氏のブログで勉強させていただきたいと願いつつも、一つだけ問いを呈することを許して下さい。

私も喜一郎氏の見解の多くに共感するもので、マルクス主義でいうところの「非敵対的矛盾」を矛盾と呼ぶことは正しくないと考えます。と同時に、喜一郎氏が弁証法を「対立物の統一」と規定している、その「対立物」という部分を今しばらく確認しておきたいのです。この場合の

「異なる指数関数と三角関数が結ばれているのですから、「オイラーの公式」の形成過程は、認識における対立物の統一の特殊な例といえると思います。それは、わたしが主張している弁証法の構造をもっていると考えられます。わたしは、オイラーの発想を複合論によって把握できるのではないかと考えました。」

における「異なるもの、異なる視点・観点、異なる起源 etc.」といった事柄は「対立物」なのでしょうか?「違う」ということが即ち「対立」だとは考えられません。私の俄か知識では弁証法を「対立物の統一」だと規定したのはレーニンだと聞いた覚えがありますが、ソクラテスの対話における弁証法はシバシバ「背理法、帰謬法」とも呼ばれています。「背理=アンチテーゼ」を提出して議論(対話)を深めていくことと、異なる視点からなる論述を複合していくこととは区別されるべき事柄では無いでしょうか?当然に、落下と前進という2力の合力として捉えられる楕円は「複合」ではあっても「背理、帰謬」ではありません。同時に、「異なるものによる複合、合成」は古代ギリシャ的意味での弁証法では無いように思います。

ヘーゲル弁証法から古代ギリシャへの回帰を提唱し、「複合論」を弁証法の核心に据えようとされる喜一郎氏の単なる発想法ならぬ「弁証法」へのコダワリとは、どこから来るのか教えていただけまいか?元々がマルクス思想に影響を受けた御仁なのでしょうか?
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前略。 (内田弘)
2013-03-25 19:27:38
前略。
 上記のコメントであげられている楕円を、マルクスは『資本論』の貨幣論「第2節 流通手段」の冒頭で、「取り除かれる矛盾」ではなく、「運動しうる形態を作り出す矛盾」の例をして挙げています。
 しかし、マルクスはその貨幣もいずれ消滅するだろうと展望したのでしょうから、極限では、この二つの矛盾は統一される、と考えたのではないでしょうか。
 ご参考までに。
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