対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

無限小について

2021-03-02 | 微分
高瀬正仁から読みとったオイラー微分論の特徴は、無限小は0そのものであること、0/0の比は有限の値をもつことがあり、オイラーの関心はその有限値であったことである。記号で示せば、0/0=dy/dx(有限値)である。このような微分の考えはマルクスにも受け継がれていて、さらに強調されている。

(引用はじめ)『数学手稿』菅原仰訳
合理主義でことをわりきる若干の数学者たちのすがりついている気やすめは、量的にはdyやdxは実際は限りなく小さくなるだけで、〔その比は〕ただ近似的に0/0となるにすぎないということであるが、(中略)この気やすめは幻想である。
(引用おわり)
気休めというのは、微分は設定した有限の差(2点)を1点で求めるからである。微分は0/0で成立するからである。

マルクスは微分の歴史を3つに区分した。1.神秘的微分学(ニュートン、ライプニッツ)、2.合理的微分学(ダランベール、オイラー)、3.純粋な代数的微分学(ラグランジュ)である。オイラーは2、マルクスは3に位置づく。この後に現在の4.極限的微分学(コーシーなど)がくる(これにマルクスはまったくふれていない)。

1から3の時代は「無限小の亡霊」(バークレイの批判)がさまよっていた。これを取り除いたのは志賀浩二によればコーシーである。4の時代のはじめにコーシーは「無限小を、あるいは無限に小さい量という概念を、0を極限としてもつ変数として定義した」(志賀浩二『数学という学問』)。コーシー以降、実数の連続性や稠密性について理解が深まったが、しかし、微分に関しては「気やすめ」ということになるのではないだろうか。

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