対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

正しく推測する本能的能力

2024-05-08 | ノート
分離された「推論(演繹・帰納)」と「発見(仮説設定)」を「推論(演繹・帰納・仮説設定)」として結合して、脳のモデルに位置づけた。

〔W・R〕⇆〔W・S〕+〔I・S〕←〔S→O〕

この位置づけは、中山正和の位置づけを排除するものではなく、止揚するものである。

中山は発見(仮説設定)〔S→O〕→〔I・S〕は、コトバによらない「仏の知恵」(いのちの知恵)として現れるという見解を示していた。
(引用はじめ)
「仏」というのは、本当は「佛」という字を書くので、これは「イ」(人)に「弗」(あらず)という意味である。自然システムに組み込まれているすべてのものや出来事のうち、人間を除いたものをいうのである。これらのものは自然システムに素直に組み込まれている故に知恵をもっているが、人間だけがコトバを操っていろいろ悪いことを考える。コトバが知恵を阻止するのである。
(引用おわり)
仏ということばを使わなければ「自然システムに素直に組み込まれているすべてのものがもっている知恵」である。これはパースがアブダクションの基礎に想定しているものと同じである。

米盛裕二『アブダクション』(第3章、アブダクションの推論の形式と特質、3節、閃きと熟慮からなるアブダクション)から引用する。
(引用はじめ)
「アブダクティブな示唆は閃光のようにわれわれに現われる」ということについてですが、パースはこの洞察の働きについて、それは何か説明不可能な「非合理的要素」とか不可解な神秘的能力というようなものではなく、それは自然に適用するために人間に本来備わっている本能的能力である、といいます。それはつまり、人類進化の過程のなかで自然の諸法則との絶えざる相互作用を通して、それらの自然の諸法則の影響のもとで育まれ発展してきた人間の精神に備わる「自然について正しく推測する本能的能力」である、というのです。そしてパースによると人間の精神には本来この「自然について正しく推測する本能的能力」が備わっているという進化論的事実を認めることが、あらゆるアブダクティブな探究の根底にある(ひいてはあらゆる科学的探究の根底にある)もっとも基本的な前提です。
(引用おわり)
米盛裕二は「正しく推測する本能的能力」を「本能的アブダクション」と形容している。

パースはアブダクションをいのちの知恵として捉えている。しかし、中山のようにそれを「発見」として「推論」から区別して、切り離すのではなく、「発見」を「洞察」として第1段階に置き(閃き)、第2段階として「洞察」を補完する「推論」(熟慮)の過程をアブダクションに含めている。