西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

エクトール・ベルリオーズ

2007-12-11 10:06:34 | ロマン派
今日は、フランスの作曲家エクトール・ベルリオーズの生誕日です(1803年)。
ベルリオーズについては、これまで何回か述べましたが、フランス・ロマン主義を音楽の面で象徴する人物というのが私の感想です。そして1830年、フランス「7月革命」の年に発表された「幻想交響曲」はまさにそのロマン主義運動を宣言する傑作でした。その後も多方面の作品を書き、数こそ多くはないですが、400人の合唱隊を要する「葬送と勝利の交響曲」や200~600人の合唱を要する「死者のための大ミサ曲」など、演奏者の大規模化はまさにこのベルリオーズで始まったと言ってよいのではないかと思います。
私はベルリオーズの全貌を知りたいと思い、その多くの作品のCDなどを見つけては購入しましたが、作品表を見て、まだ所持していない興味のある作品名を見つけていつかはCD店で求められればと思っているものがあります。例えば、「民の声」(作品20)、「東方の三博士の四重唱と合唱」、「知られざるケルト語の402の声の合唱」、「万人の聖堂」などです。特に、「民の声」は「1.フランク族の脅威、2.フランス讃歌」の2曲からなり、タイトルが歴史に興味のある私には気になります。それぞれ48年と44年に作曲されています。何か時代の動きが書かせたのだろうか。ベルリオーズは68年になくなりましたが、71年の普仏戦争でのフランス敗北を知ったならば、愛国者の彼はどのような曲を書いただろうかなどと思ってしまいます。「エレミア哀歌」によったグノーの「ガリア」のような曲を書いたのだろうか。



セザール・フランク

2007-12-10 07:34:22 | ロマン派
今日は、フランスの作曲家セザール・フランクの生誕日です(1822年)。
フランクは、生まれたのはベルギーのリエージュで、12歳の時にパリに出ました。その後ほとんどをフランスで過ごしましたので、フランスの作曲家と言われることが多いようです。
フランクの作品数は、その生涯が短命だったというわけではありませんが、ずいぶんと限られています。パリの聖堂のオルガニストを勤めたこともあり、優れたオルガン作品を遺していますが、これも以前に記したとおりLPわずか3枚分だけです。代表作は、交響曲・弦楽四重奏曲・バイオリンソナタが取り上げられますが、それぞれ1曲ずつです。教会に仕えたこともあり教会音楽をいくつか書いていますが、これも10には満たない数のようです。その中の一つに「天使の糧」があります。カレーラスの歌うクリスマス曲集のLD、(これはザルツブルクで撮影されたものです)、この中にこの曲が入っていて初めて知りました。どこかできいたことがあるような曲で、これはフランクが作曲したものだったのかなどと思いました。美しい清澄な曲です。この時期になるとこのLDを取り出しよく聴きます。フランクにはオラトリオ「バベルの塔」や「至福」というのもあり、これらの曲名を見ると、フランクは一生を教会に捧げた作曲家だったのだということがわかります。

R.シュトラウス・歌劇「サロメ」

2007-12-09 08:08:44 | ロマン派
今日は、R.シュトラウスの歌劇「サロメ」が初演された日です(1905年、ドレスデン)。
歌劇「サロメ」は新約聖書に題材を取っています。聖書自体には、サロメの名は出てこず、ユダヤ王ヘロデの娘と出ているだけです。R.シュトラウスはイギリスの劇作家ワイルドの「サロメ」のドイツ語訳を読み、作曲を思い立ったということです。ワイルドというと、世紀末芸術を代表する作家と言われることが多いですが、中でもこの「サロメ」はワイルドの耽美的な面をよく表しています。当然R.シュトラウスの歌劇もその傾向を持つものであり、初演当時教会などから大きな非難が起こり、ウィーン宮廷歌劇場では上演が禁止されたということです。R.シュトラウスはこの後、やはり「エレクトラ」というセンセーショナルな作品を書きましたが、その次にはモーツァルトの歌劇の時代設定を真似るような傑作「薔薇の騎士」を書きました。R.シュトラウスは生涯に15のオペラを書きましたが、後に行くほど、穏やかなものになっていったという感じを持ちます。
歌劇「サロメ」については、私はやはりカラヤンの演奏が断然素晴らしいように思います。カラヤンは、サロメを歌うに相応しいソプラノが現れるのを待っていたようで、ベーレンスはまさにうってつけの歌手だったのでしょう。ベーレンスについては、メトで歌ったブリュンヒルデがその歌唱、演技とも素晴らしいものであることを見ました。カラヤンのサロメがベーレンスのデビュー・レコードではなかったかと思いますが、これも優れているものと思います。

ベートーベン「交響曲第7番」

2007-12-08 21:28:53 | 古典派
今日は、ベートーベンの「交響曲第7番」が公開初演された日です(1813年、ウィーン)。
この「交響曲第7番」が初演された時、「戦争交響曲」も一緒に初演されました。「戦争交響曲」は別名「ウェリントンの勝利」とも呼ばれています。初演に先立つ半年前の1813年6月、イギリスの将軍ウェリントンがスペインのビトーリアでフランス軍に勝利した戦いです。この戦いの4ヵ月後にはライプツィヒで諸国民戦争が闘われ、ナポレオンが敗れ、翌年の退位へと繋がった。勿論ウィーンにもすぐさまその知らせは届き、市民は熱狂に沸いた。当時生活に困っていたベートーベンは、勧められてこの作品を書き上げ、ウィーン大学講堂での戦傷兵救済音楽界で「交響曲第7番」と共に初演されたということだ。この時の演奏会には、サリエリ、フンメル、それに先にも記したがシュポーアなど豪華な一流音楽家が出演した。そして勿論総指揮にはベートーベン自身があたった。「戦争交響曲」はベートーベン唯一の「駄作」などと呼ばれることもあるが、この時は「第7」よりも人気が高かったそうである。ナポレオンに対する憎しみがそのようなことの背景にはあるのだろう。この時から翌年のウィーン会議のころが、ベートーベンが生涯で一番人気が高かったかも知れない。

ブラームス「ホルン三重奏曲」

2007-12-07 08:21:08 | ロマン派
今日は、ブラームスの「ホルン三重奏曲」が初演された日です(1865年、カールスルーエ)。
1865年の2月に、ブラームスは母を亡くし、ホルン三重奏曲の直前に完成されたチェロ・ソナタ第1番とともに、母の死がこれらの曲には歌われているという。またそれはこの頃作曲が進められていた大作「ドイツ・レクイエム」にも言えるだろう。
ブラームスは、管弦楽曲が割りと少ない代わりに、室内楽曲は様々なジャンルに富み、数多く遺されている。LPによるブラームス全集を購入した時、歌曲と共に室内楽集が一番枚数が多かった。その中で、ホルン三重奏曲はというと、この1曲だけである。
ホルンを用いた3~5重奏曲は、どんな作品があるのだろう。ブラームスは、他にない。モーツァルトには、ホルンを含む五重奏曲が2つあります(K.407、452)。ベートーベンにも、モーツァルトのK.452と同じ編成の五重奏曲が1曲あります。クラリネットと弦を組み合わせたものは、結構あるように思いますが、やはりホルンは少ないのだろうか。ピアノと組み合わせたホルン・ソナタには、ベートーベンの若いころの作が1曲あります。しかし、他の作曲家を見てもこれさえもあまりないようですね。多くの管楽器を取り上げたサン・サーンスにもないし。ただ「何でも屋」のヒンデミットにはやはり1曲ホルン・ソナタがありました。

ベルリオーズ・劇的交響曲「ファウストの劫罰」

2007-12-06 10:56:18 | ロマン派
今日は、ベルリオーズの劇的交響曲「ファウストの劫罰」が初演された日です(1846年、パリ)。
1803年に生まれたベルリオーズは、1869年66歳で生涯を閉じます。この間、フランスのみならず、ヨーロッパは一つの激動の時代にあったといっても過言ではないでしょう。彼の代表作「幻想交響曲」は1830年、28歳の時にパリで初演されましたが、この年の7月、いわゆる「7月革命」が起こり、それはフランス・ロマン派の運動と軌を一にするものと言ってよいでしょう。ルイ18世、シャルル10世のブルボン朝復古王政は、国民の不満の高まった世情を見て、アルジェリア遠征を行った。国民の不満の捌け口を外に求めた最も分かりやすい例である。議会は議会政治の停止・言論出版の取締りなどの令を出してこれに反発した労働者・学生・知識人などが武装蜂起したのがこの革命である。3日間市街戦が行われ、その結果「フランス人民の王」ルイ・フィリップの「7月王政」が打ち立てられた。ベルリオーズは、この時ちょうどローマ賞を目指し、課題作品を書いていた。カンタータ「サルダナパールの最後の夜」がそれである(この作品名は、同じくフランス・ロマン派の絵画の代表者と言ってよいドラクロアの「サルダナパールの死」を思い起こさせます)。5回目のチャレンジとなった今回、念願の一等賞を受賞した。ベルリオーズは、この作品を書き上げた時に革命が始まったと、「回想録」で書いている。そして、革命の「輝かしい3日間」を興奮した群衆の一人として過ごしたということだ。ベルリオーズは、革命10周年に当たる1840年に「葬送と勝利の交響曲」を政府から依頼され完成し、国王ルイ・フィリップに献呈した。
ベルリオーズは、生涯でもう一度「革命」に遭遇する。1848年の「2月革命」(「フランス人民の王」ルイ・フィリップが廃位され、ロンドンに亡命する。)である。英国でその知らせを聞き、制度機構が破壊されていったとの知らせに、自身の年金が大いに気になったようだ。やはり「回想録」で「一家の生計すら立てられない・・・」とこの頃書いている。パリでの2度目の暴動(「6月蜂起」)を聞き、ベルリオーズはいてもたってもいられず、パリに向かう。新聞紙上の評論担当の地位とコンセルバトワール図書館主事補としての年金を確保するためである。周囲の人の働きかけでこれは功を奏したということである。このような自身の体験もあり、「2月革命」はベルリオーズにとって批判の対象でしかなかったようだ。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

2007-12-05 09:07:23 | 古典派
今日は、オーストリアの作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが亡くなった日です(1791年)。
音楽史上最も多くの人々に愛され、人々を癒やす力を持った作曲家はおそらくモーツァルトをおいていないだろう。スタンダールやバルトなどモーツァルトを愛しやまなかった人たちはたくさんいます。流麗でしかもどこか悲しみを秘めた旋律、それらが相俟って彼の生み出す音楽が多くの人の慰みになるのだと思います。モーツァルトの音楽がなかったならば、何かぽっかり穴があいたような気さえすることでしょう。そのような芸術家は決してモーツァルトに限りませんが、この現代の乾燥した世相にはなくてはならない芸術家の一人だと思います。私は、このような芸術家を見ると、何か大きな力があってこの世に送り出されたのでは、などと思うことがあります。わずか36年足らずの生涯に600曲以上の遺産を私たち後世の人間に遺してくれました。感謝の気持ちを素直に持ちたいと思います。36年と言うと、現代の人間の半分にもその寿命は満ちてないですが、人間の寿命を春夏秋冬の四季に準える考えがありますが、モーツァルトの短い人生には四季が悉く入っているように思います。長い短いは関係無いのですね。モーツァルトを1曲だけで代表するなどということは所詮無理ですが、私は、晩年の傑作「アヴェ・ヴェルム・コルプス」はモーツァルトの奥深い精神が凝縮した作品と思い、聴いてみたくなりました。自然、曲名を書いていると頭の中にその旋律が流れてきますが、何か高揚した気分になります。音楽の力は本当に不思議です。

チャイコフスキー「バイオリン協奏曲」

2007-12-04 13:27:35 | 国民楽派
今日は、チャイコフスキーの「バイオリン協奏曲」が初演された日です(1881年、ウィーン)。
バイオリン協奏曲の名曲を特に、「3大」あるいは「4大」バイオリン協奏曲といって、ベートーベン、メンデルスゾーン、ブラームス、それにチャイコフスキーをさしますが(「3大」のときはどれがはずれるのだろう?)、いずれも作曲者の1曲だけの作品ということで言うのかも知れない(メンデルスゾーンはもう一つ発見されたそうですが)。いずれも確かに名曲で、やはりこの場合は「3大」は使いづらいかもしれません。
チャイコフスキーのこの作品は、作曲者の叙情的な味わいが読み取れる、心から名曲と言っていいものだと思います。私は、クラシック音楽入門間もないころ、これを聴いてその第1楽章がとても印象的で心に残っていたのを思い出します。旋律は浮かぶのだけれども何という曲だったのかとしばらくそんな時期がありました。この名曲は自分ではとても弾けないような彼方にあるものと思っていましたが、バイオリン名曲集にこの第二楽章が取り上げられていて、「カンツォネッタ」として出ているのですね。どのくらいかかったのか、一応弾き遂げました。勿論その演奏は拙劣なものだったでしょうが、兎に角この最高の作品と思っていた一部でもその曲を自分で弾けた時は本当に嬉しかったですね。その前にだったか、バッハのバイオリン協奏曲の1番も曲集に出てきて、これは全楽章弾きました。その後、音符がたくさん並んでいるその楽譜を見て、よくこれが弾けたなと今では思うばかりです。いつかまた習ったことを思い出しながらこれらの曲を弾いてみたいと思います。

ラフマニノフ「ピアノ・ソナタ第2番」

2007-12-03 09:50:48 | ロマン派
今日は、ラフマニノフの「ピアノ・ソナタ第2番」が初演された日です(1913年、モスクワ)。
ラフマニノフと言えば、その「ピアノ協奏曲第2番」が圧倒的に有名で、代表作というべきでしょう。ピアニストとしても名を馳せた人だけに、その技術が最高度に発揮された作品と言う気がします。この「ピアノ・ソナタ第2番」はその10年以上のちに作曲された作品です。優れた作品と聴いていますが、またVOXから出されたラフマニノフのピアノ曲全集を購入しているので、1度は聴いたことがあるはずですが、記憶にありません。そういえば、今日からTVの「ぴあのぴあ」でラフマニノフが始まりました。1週間くらい続くと聞いています。ラフマニノフは、貴族の家に生まれた根っからのロマン派に属する音楽家です。時代はすでに新しさを求める時代へと移り変わりましたが。ちょうどドイツにおけるR.シュトラウスの置かれた状況と似ているように思います。
今、歌劇「アレコ」を聴きました。モスクワ音楽院の卒業作品で、チャイコフスキーが褒めたと言うものです。

ブラームス「第3交響曲」

2007-12-02 09:00:47 | ロマン派
今日は、ブラームスの「第3交響曲」が初演された日です(1883年、ウィーン)。
ブラームスは、第1交響曲を約20年かけて43歳の時に書き上げ、その後結局64年の生涯で交響曲を4曲書いただけでした。その数を見ると、どうしても少ないと感じざるを得ないですが、ベートーベンの交響曲を知り、そしてブラームスは第1しか知らなかった後、交響曲の全集を買い求め聴いた時、この4曲はその数以上の価値内容を持っていると何度も頷いたものでした。その一つ一つが、それぞれ4つの楽章すべて、その長さのみならず内容も素晴らしいと思いました。
この第3交響曲は、演奏が難しく、アマチュア・オケではなかなか手を出せないのではないかと想像しています。この第3楽章は素晴らしく印象的な旋律です。もし私がホルンをするのであれば、まず吹いてみたい楽章です。映画音楽にも使われています。
交響曲は4曲だけといいましたが、実は第4を書いた後、第5を書くつもりであったらしい。しかしそれは結局「二重協奏曲」(作品102)になったということだ。協奏曲も結局は、ピアノが2つ、バイオリンが1つ、それにこの「バイオリンとチェロのための二重協奏曲」の4つだけで重厚な管弦楽を特徴とするブラームスが、それを発揮する場は数が限られているが、協奏曲もやはり一つ一つの楽章が素晴らしく、印象的な旋律で満ちている。
ブラームスは、あと室内楽と歌曲に力を向けるのであった。