怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

再読太宰治「人間失格」「走れメロス・女生徒・富岳百景」

2020-04-03 20:33:34 | 
どうも世間では不要不急の外出は避けなければいけない雰囲気になってきた。
思うに年金暮らしの今となっては最低限の衣食住を除いた活動のほとんどは不要不急。どうすればいいのか。
交通機関を使っての外出も憚られるとなるとやることもなくて独りで近くの公園へ散歩に行って桜の開花状況をチェックするのが精いっぱい。公園には結構手持無沙汰の子どもたちが遊んでいるんですけどね。
こういう時には酒でも飲んで馬鹿話をするのが一番ですが、宴会などはもっての外で、もっぱら家で話し相手もいないまま独りさみしく飲むしかない。
図書館も臨時休館中で、その期間はどんどん伸びている。おかげで借りていた本は全部読んでしまい、予約してある本は準備できたら貸し出すというけど休館しているので予約の順番は進まない。当然ながら順番は来ないので借りられない。
暇を持て余しても読む本もなくなり、仕方ないから本棚に長く眠っていた本を再読してみることに。
手始めに久しぶりに太宰治を読んでみることにしましょうか。

太宰の本はたくさんあるけど、とりあえず講談社文庫で「人間失格」と「走れメロス・女生徒・富岳百景」にしました。
それにしても大学生のころに買った文庫本だと思うけど、値段を見てみると100円と160円。当時は値段と内容を見比べてどれにしようかと迷いに迷って買ったんだろうけどな。奨学金の月額が確か7~8千円で、バイトの時給がいくらだったんだろうか?
もう一つ改めて感じたのは活字の小ささ。高齢化が進んだ今は、五木寛之が自分の著書の文字ポイントを大きくしたらすごく評判が良くて売れたとか。学生時代は字が大きいとスカスカな気がして金返せと思ったのですが、今は昔。
さて「人間失格」ですが、学生時代に読んだ時は、道化の仮面をかぶり悩みつつも何故か女性が寄ってきて流されるままに堕ちていく大庭葉蔵は、ある種のあこがれの人生だったような。まっとうな大人社会に嫌悪感を抱きつつどこまでも堕ちていきたい願望は確かに自分の中にあった。
今齢66になり改めて読み返してみると、確かに自分の中にも大庭葉蔵的なものはあるのだが、そうやって堕ちることは自分にはできないし、できずに良かったといういたって平凡な市井人の感想。まあ、望んでも女性は誰もすり寄ってこなかったのは厳然たる事実として認めざるを得ないんですけど。
そう思うと「走れメロス」をはじめとした日本がまさに戦争に向かう世情の中で執筆された作品群の面白いこと。小説家としての太宰の才能に今更ながら感じ入ります。世の中こんなことを書いてる場合ではないでしょうという時に一人創作意欲満々で軽やかにこのような作品を発表してきた太宰のすごさというか反骨に感心します。
「富岳百景」の軽やかな文体の中に表現された世間の権威の象徴たる富士に対峙して凛と咲く月見草。「富士には、月見草がよく似合う。」それでいて富士に対しては畏敬に似た愛着がある。いかにも太宰らしいそのアンビバレントな感情。
「私には誇るべき何もない。学問もない。肉体もよごれて、心もまずしい。けれども苦悩だけは、その青年たちに、先生と言われて、黙ってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経てきた。たったそれだけ。わら一筋の自負である。」なんと正直な心情吐露。
「走れメロス」の「メロスは激怒した。」といういきなりの導入。たちまち物語の世界に引き込んでしまうこの才能。
「駆け込み訴え」の大胆な解釈。キリスト教徒ならば恐ろしくてとても発想できなかったでしょう。
「老ハイデルベルヒ」では齢60を超えて改めてその感情が心にしみこんできました。
内田樹がどこかで書いていたと思うけど太宰の小説を読むと読者は皆これは俺のことを小説にしたのではないかと思うと。読み返してみて初めて分かるところもあって、太宰よりも30年も長く生きていてもその人生の密度はまったく及ばないことを実感してしまいます。
まだまだ太宰の文庫本はたくさんあるので、奇貨として順次読んでみましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 3月28日瑞穂公園テニスコ... | トップ | 4月4日瑞穂公園テニスコート »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事