怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

野口悠紀雄 「超」リタイア術

2014-07-18 07:41:23 | 
人生80年時代、60歳で定年退職しても、まだ20年ある。それとともに高齢社会に突入して周りを見れば年寄りばかり。「リタイア後人生」を一体どうすればいいのだろう。
リタイア後生活は人生の果実を手に入れる期間、今までは耐えがたきを耐え、身を削り、家族のため、仕事のためと消耗していた(喜んで仕事をしていたという人もいるのでしょうが、そういう人は一生働きアリでいなさい)のですが、旅行だろうが趣味だろうが読書だろうがごろごろするだけかもしれませんが、やりたいことができるのです。
有り余る時間とそこそこの財力とそれなりの経験による知識や理解力。素晴らしいじゃないですか。
この本でも紹介されていますが江戸時代の隠居は本当のやりたいことを楽しんだ人が結構いたみたいです。それは江戸時代に花卉園芸、生け花、俳句などの文化が大きく花開いたことでもわかります。それらを支えていたのは隠居した上層農民や商人などです。
隠居してから一念発起して50歳過ぎてから全国を測量して地図を作った伊能忠敬は典型ですが、松尾芭蕉も井原西鶴もともに30代で隠居して名作を残している。落語に出てくる「ご隠居さん」は道楽に生き、地域社会の中でも世話役としてそれなりに尊敬されつつ人生を楽しんでいる。
ちなみに江戸時代の農民生活は結構自由で女性も気ままに暮らしているみたい。建前重視の武士の生活はともかく農民や商人はしきたりや因習に縛られてばかりではなかったのです。
それに対して武士はというと隠居しても現役時代の殻を引きづり世間から隔絶された生活を送るしかない。そもそもが戦国時代が終わり組織を維持するだけの停滞社会の中では、実質必要もない仕事を分け合うしかなく儒教的なモラルが強調することによって武家社会体制を維持していた。そうした中では仕事を離れた中での趣味に生きる隠居生活は享楽的でしかなくネガティブにとらえられる。藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」のように隠居しても趣味に打ち込む子もできず寂寥感を覚え、かつて自分が携わったことに口を出せることしか喜びを見いだせない。
とは言っても私もそうですがサラリーマンはすっかり組織の中で洗脳されているので、なかなか切り替えが難しい…強いて言えば上達は全くしなくてもテニスがあってよかった。
ところでここからが現実的な話になるのですが、近未来に訪れる高齢社会は日本社会の当たり前と思っていた在り方を根本的に変更を迫るものです。65歳人口一人当たりの生産年齢人口は2050年には1.50(1970年では9.76、2000年では3.91)になります。高齢者を支える人が減るのですから世代間の所得移転は困難になります。労働力不足にも直面するでしょう。組織に依存して退職金と年金だけを当てにして生活していくことは難しくなるのです。まあ団塊の世代は逃げ切れる…本当に腹立たしいのですが逃げ切れない私たちはそれならどうすると言われても困ってしまうんですけど…
それなら年金はどうなるというところから、現在の年金制度の問題点に論が進むのですが、日本の年金制度が制度の齟齬を被用者保険にぶつけて破たんを糊塗していることがわかります。国民年金は保険料の納付率が60%などと言っていますが、まともな制度としては破たんしています。そもそも60%しか保険料を納めていないのに給付は滞りなくできるわけがありません。それでは未納分は誰が補てんしているのでしょう。基礎年金制度では各制度で拠出金を負担するのですが、国民年金の算定対象者数は保険料未納者および免除者を除いたもの、厚生年金や共済年金では被保険者数に3号被保険者を加えた数が算定対象者数となる。サラリーマは実質的に国民年金の未納者の保険料を負担しているのです。さらに言えば、旧法適用者の基礎年金相当額まで補てんしている。農業、自営業への支援を知らない間にしているのです。
そもそも年金制度が発足するときの保険料を算定する際に政治的必要もあったのだろうが、利子率と成長率の仮定を現実性のない算定をして、必要保険料を著しく低くしてしまったのです。過大な給付を約束している年金制度をどう持続可能にするのかというむつかしさを最初から抱えてしまっているのです。
今となっては現実に適応させようとすると制度を見直すたびに苦い現実を受け入れるしかなくなるのですが、それでもいつまで持つのやら。
この他にも日本の年金制度のおかしなところをいろいろと指摘しているのですが、著者が指摘しても厚生労働省はほとんど無視、不誠実な対応だったとか。せっかく提言してもほとんど無視された憤りがあるのかどうか、この本「超リタイア術」という題になっているのですが後半3分の2は日本の年金制度について辛口のぶった切りというか滅多切り。政策など関係ない一市民としては、だからどうすればいいんかというと「サラリーマン事業者」になればというのですが、そういう能力とチャンスがある人はいるのでしょうが、これはメジャーにはなりません。
制度について言うと一旦できてしまった制度を維持しながらなんとか修正するというのは継ぎはぎだらけになってしまい余計いびつなものにならざるを得ないのですが、政治的にも実務的にもなかなかクリアーにならないのが実感です。
本論に戻ればリタイア後は「すべての時間を自己実現のために使い隠居生活を楽しむ」ことができるように、結構意識改革が必要と思いますが、これも日々研鑽!ボーっとして寝ていればいいというものではありません。でも3か月隠居生活していたのですが、残念ながらほとんどボーっとしていました。

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