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聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/12 マタイ伝26章36~46節「霊は燃えていても」

2021-12-11 12:41:46 | マタイの福音書講解
2021/12/12 マタイ伝26章36~46節「霊は燃えていても」

 今日の箇所は、十字架の直前のイエス・キリストの「ゲツセマネの祈り」です。イエスは、私たちの罪を赦すため、残酷な十字架に掛かり、神からの裁きを私たちの代わりに受けてくださいました。十字架の拷問の苦しさや、神の怒りを一身に受けることは、想像を絶する恐ろしい事です。それは身悶えするほどの事でした。加えてここでは「悲しみ」が言われます。

37…イエスは悲しみもだえ始められた。38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

 私たちの罪を引き受けて、神の裁きを一心に背負う時を前にして、イエスは悲しみにもだえ、死ぬほどの思いでいられ、立っていることさえ出来ずに「ひれ伏して」祈られるのですね。

39…「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。…

 ここまでずっと十字架への道を予告していました。少し前の最後の晩餐でも、パンと杯がご自分の体と血のことだと仰っていました。このゲツセマネに来たのも、ここに裏切り者の弟子が群衆を連れてくると分かっての事だったでしょう。それでも、イエスはここで「出来る事なら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と地面に突っ伏して祈るのです。

 イエスは人として、悲しみや喜ぶ心を持っておられました[1]。そして、愛である神やイエスにとって、罪がもたらすのは何よりも、計り知れない悲しみです。主イエスは、罪がもたらす悲惨をご覧になって深くあわれむ方です。そして、それを父なる神にそのままに告げる、深い信頼の関係に生きるお方です[2]。イエスは「悲しみの人」でした[3]。特にヘブル書は言います。

ヘブル人への手紙5:7~10
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、9完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、10…神によって大祭司と呼ばれました。

 肉体を持ち、叫びや涙、悲しみや苦しみを味わわれた方、本当の人となられたからこそ、全ての人の救いの源、私たちの大祭司となってくださるのです。イエスこそは誰よりも罪の悲しみを受け止めたお方です。そしてこれほど率直に、悲しみや躊躇もそのままに捧げつつ、尚、

…しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。

とこれもまた、父なる神への全幅の信頼によって祈る。十字架を堂々と悲しみ、率直な嘆願も祈り、なお神の御心を信頼する。そういう深い関係にイエスは生きておられます。そしてそういうお方だからこそ、この時もイエスは弟子を案じています。ご自分が悲しみの余り死ぬほどだと言いつつ、弟子たちに心を向けています。一息ついて見ると弟子たちは眠っていました。

40…「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

 イエスは彼らの弱さも、この後、弟子たちが皆散り散りになり、ペテロが三度イエスを知らないということもご存じでした。これは失望の台詞ではないでしょう[4]。むしろ、もう自分の弱さ、限界に気づいて、神に頼りなさい、謙ってわたしの言葉を受け入れなさい、という招きでしょう[5]。この「肉」は、神に頼るよりも自分に頼るあり方、「霊」は自分よりも神に頼るあり方を指すのでしょう[6]。自分の力で頑張ろうとしてもそれは弱い。誘惑に流されてしまう。だから、弱い自分など頼めないと知っているから、人は神に祈るのです。祈らずにおれないのです。その祈る神は、私たちの天の父として、私たちを深く愛してくださる神です。その天の父に、自分の悲しみや恐れも、蓋をせずに差し出しつつ、なお「御心がなりますように」と祈る。その時、「霊は燃え」、私たちは進んで行くことが出来るのです[7]。

 この後もイエスは、父に激しく率直に祈られては[8]、弟子たちを案じて、戻ってこられます。最後の45節の言葉
「まだ眠って休んでいるのですか。」
は欄外にあるように
「もう眠って休みなさい」
とも訳せる、弟子たちを受け止める言葉です[9]。そして眠っていた弟子たちにも
「立ちなさい(よみがえりなさい[10])。さあ、行こう。」
と言ってくださるお方。それがイエスです。

 主イエスの十字架がどれほど深い悲しみ、葛藤だったか、その一端をゲツセマネの祈りに見るのです。その十字架により私たちは完全な赦しに与りました。それでも尚、罪の深い影響は残っていて、私たちは日々悩まされます。その悲しみや思いを、率直に天の父に祈って良いのです。天の父は、私たちの吐き出すような祈りをも聞いておられます。イエスも人としての思いを深くご存じで、私たちの祈りをともになさるのです。

 イエスが教えてくださった「主の祈り」は、神に
「天にいます私たちの父」
と呼びかけ、
「御心が…地で行われますように」
と祈る祈りです。私たちの小さな思いよりも大きく、確かな神に、「私たちの父よ…御心がなりますように」と祈る[11]。それは、弱い肉の自分を認めつつ、もっと深く、最善をしてくださる神に、小さな心で精一杯悲しみ思う惑う私たちを手放して預ける、幸いな告白です。そしてそう祈る時、イエスご自身が、このゲツセマネでなさった姿を思うことが出来ます。こう教えてくださった主イエスご自身が、ひれ伏して
「わが父よ」
と悲しみを注ぎだして祈り、
「御心がなりますように」
と告白されました。このイエスの祈りの中に私たちは包まれています。まだ自分に頼る肉の生き方をしてしまう私たちですが、だからこそ、その私たちをご存じのイエスに祈るのです。神を父と呼んで、心を注ぎだし
「御心がなりますように」
と祈るのです。

 今日特別なこの日曜日にも、一人一人が自分の心を主に注ぎ出しながら、ともに
「御心がなりますように」
と祈り、ここから立ち上がって進みたいのです。

「主よ、何と尊い救いを戴いて、何と飾り気のない交わりをいただいていることでしょうか。どうぞ、主よ、私たちにも悲しみを吐露させてください。この世界の破れ、肉に頼る心、誘惑があります。御国の完成を待ち望む途上で、傷み、悩む私たちをあわれみ、赦してください。あなたに祈らずには立ち上がれない私たちです。どうぞ祈らせてください。そして私たちの霊を燃やし、主イエスを中心とする教会として、ともに歩ませてください。」


画像はこちらより。

脚注

[1] 「古代、キリスト教会の伝道が進展し始めたころに、ギリシアの知識人たちは、このキリストのゲツセマネの祈りを嘲ったということが、しばしば記されております。慌てふためいているではないか。弱さをさらけ出しているではないか。われわれの哲学者ソクラテスは、毒を飲むことを求められた時に、従容として談論のうちに死についたではないか。それに比べても、このキリストの狼狽ぶりは、何たることかと言って嘲ったというのであります。ある人の伝えるところによりますと、教会の中でも、このゲツセマネの祈りをそのまま伝えることに、ためらいがあったのではないかと申します。主イエスが、ここで真実、苦しまれたその苦しみは、主イエスという方にふさわしくない。神の御子にふさわしくないと、なんとか、その姿を覆い隠そうとした人々が、あったというのであります。」加藤常昭、『マタイによる福音書4』、553頁。

[2] この「悲しみ」が示しているもう一つのことは、イエスを待つ十字架が、人間全ての罪を引き受ける、譬えようのない経験だからです。私たちは自分の罪のもたらす破綻や悲しみさえ、負い切るのは辛いことです。イエスはその全てを引き受けて下さり、また父なる神からもその間、見捨てられようとしていました。それは本当に堪え難いことです。このイエスの姿は、私たちのために十字架にかかることが、どれほど堪え難いことかを垣間見させてくれます。

[3] イザヤ書53章3節「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」。また、ここでの「悲しみルペオー」は、イエスに使われたのは初めてです。14:9(ヘロデ)、17:23(苦難予告に弟子たちが)、18:31(赦されたしもべが僕仲間の借金を赦さないのを見た家来たちが)、19:22(富める青年が)。その人間的な「深い悲しみ」をイエスもここで抱かれたのです。しかし、この「悲しみルペオー」以上に強い悲しみの言葉「かわいそうに思う・あわれむスプランクニゾマイ」は、イエスの激しい内面の痛みを告げていました(9:36、14:14、15:32、18:27、20:34)。悲しみの人イエスは、ご自分の十字架以上に、私たちの離反・離散、神を知らぬ心を悲しまれた方です。仏教用語の「慈悲」という漢字は、このイエス・神の深いあわれみを理解する上で、手がかりの一つになるでしょう。

[4] 「イエスは、この時、心が弱くなっていたため、弟子たちにご自分のために祈っていて欲しかったのだ」という解釈は多くあります。しかし、「私のために祈っていなさい」とは言われていません。イエスが求めたのは「ここに座っていなさい」「ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」という事でした。そして、一緒に目を覚ましているために「祈っていなさい」(41)と言われるのです。眠っていたことを嘆く以上、起きていては欲しかったとは言えるにしても、ご自身のための祈りより、イエスこそは弟子たちとともにいることを求め、弟子たちの存在を喜ばれたのです。イエスが私たちに求めるのは、私たちが主のために何かをすることではなく、私たちが主と共にいること、存在の喜びです。ここには、「一緒に/ともにメタ」というマタイのキーワードが、4回も繰り返されています。

[5] 最後の部分は、以前「心は燃えていても肉体は弱い」となっていました。気持ちはあっても体は眠かったり誘惑に弱かったり、限界があるのだという意味にもとれる言葉でした。しかし、弟子たちは、徹夜で漁をし、荒れ狂うガリラヤ湖を徹夜でこぎ続けた屈強な漁師たちです。体力には自信のあった人々には、「肉体は弱い」は当てはまらないでしょう。「肉体は弱い」という「霊肉二元論」は、キリストが肉を取られたことも薄くしてしまう、異端に近づきます。

[6] 「弱い」アスセネース 弱い、病んでいる、無能、無力。丁度、ペテロが直前に「たとえ皆がつまずいても、私は決して躓きません。…たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と豪語していながら、ここで一緒に目を覚ましているだけを求められても、それが出来ずに眠りこけていた姿。あれが「肉は弱い」です。「肉の誘惑は強力」とは言われません。

[7] 「燃えていてもプロスモス」は、準備が出来ているready、願っているwilling、進む・強いなどと訳される言葉です。マルコ14:38、ローマ1:15

[8] 42節の「イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。」は、一度目よりも腹を括った言葉のようにも読めますが、「~なければ~ないのであれば」は強い二重否定ですから、一度目よりも激しい思いで祈られたのかもしれません。先のヘブル書五章七節の言葉で言えば、ゲツセマネの祈りの「敬虔さ」は、平然としたものとは真逆の、激しく叫び訴えるものだったのです。

[9] Dan Carson, Matthew (The Expositor’s Bible Commentary), No. 18715/20462. また、「休んでいるアナパウオー」は11:28(すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。)とここのみの語。「休ませてあげる」と仰ったイエスは、休むことを責めたのだろうか、と疑問を持つことも自然です。

[10] 「立ちなさいエゲイレスセ」は、32節で「よみがえる」と訳されていたのと同じ、エゲイロー(よみがえる、立つ、起きる)の命令形です。

[11] 39節の「しかしプレーン」は、単なる逆説butではなく、「それにもまして」yet, neverthelessという意味での接続詞です。ちょうど「早く帰ってきて欲しい。でも、急がないで安全第一で帰って来てね」というようなものです。私の願いか、あなたの願いか、の二者択一ではなく、自分の願いを差し出しつつ、それよりも遙かに大きな御父の御心を願うのです。


2021/11/28 第一サムエル記9、10章「サウル王さま」こども聖書㊳

2021-12-04 12:48:15 | こども聖書
2021/11/28 第一サムエル記9、10章「サウル王さま」こども聖書㊳

 今から3千年ほど昔、聖書の中の歴史で、はじめて王が立てられました。エジプトの奴隷生活から救い出されて、新しい生活を始めたイスラエルの民は、神を忘れて、他の国のように自分たちにも王様が欲しい、と言い出したのです。そこで、神は王をお与えになることになりました。その時に神が立てられたのが、キシュの子サウルでした。

2キシュには一人の息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエルの中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。



 若いといっても、彼には既に青年の子供がいました。家族はあっても若々しく、イケメンで、民の中で一番の長身でした。神は、この人をイスラエルの最初の王として選ばれました。しかしサウルはそんなことは知りません。ただ、いなくなったロバを捜しに、出かけたのです。なかなか見つからず、やってきたのが、あの祭司サムエルの町でした。神は、ロバを捜すサウルたちの足を不思議にも、サムエルと出会うように導いておられました。そして、サムエルには、王となるサウルが来ることを告げていたのです。

九15主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。16「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」

 民が、主を差し置いて「王様が欲しい」と言い出したのは、大変神様に失礼なわがままでした。神を拒むことでした。それでも神は、民を拒んで見捨てはしません。隣のペリシテ人からの攻撃に苦しめられ、叫んでいる声を聞いておられました。神はこの苦しみに目を留めてくださり、サウルを君主としてペリシテ人から救うと決められたのです。そして、ロバを捜してやってきたサウルと出会った時、主はサムエルに告げられました。

17サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」

 サウルが捜していたロバは、実はもう家で見つかっていました。しかしサウルは、王を捜していたサムエルに見つけられ、捜してもいなかった大きな役割を見つけたのです。しかし、そのことをサムエルから仄めかされた時、サウルは尻込みをします。

21…「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 自分の部族は最も小さく、自分の家は更に小さいのです。自分はただ、ロバを探しに来ただけです、そう遠慮しました。でも神は、サウルを選んでくださったのです。翌朝、

十1サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。

 こう言って、この後のことを予告すると、すべては予告通りになりました。

9サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。

 サウルは、新しい心を与えられて、イスラエルを救う王となる準備を始めたのです。サムエルは、イスラエルの民を集めて、サウルを王として紹介する時、こう言います。

18…「イスラエルの神、主はこう言われる。『イスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手とあなたがたを圧迫していたすべての王国の手から救い出したのは、このわたしだ。』19しかし、あなたがたは今日、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った。…」

 こうは言いながらも、サムエルは神が立てられた王としてサウルを紹介します。

24サムエルは民全体に言った。「主がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで「王様万歳」と言った。

 こうしてサウル王が誕生しました。実はこの後、サウルはせっかく王になったのに、人の言葉や評判を恐れて、神に従いません。背の高いイケメンのサウルは、心の中には、自分は小さい、出身部族も最少で、失敗するんじゃないかと、不安を抱えていました。とても悲しい晩年を迎えます。



 でも、そのサウルを主は王にしました。その神の選びに、サウルは自信を持てば良かったのです。その恵みを、人々も喜んで良かったのです。

26サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。27しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持ってこなかった。しかし彼は黙っていた。

 ここでは、サウルについて行った人が「神に心を動かされた勇者たち」、サウルを軽蔑して悪口を叩いた人は「邪な者たち」と言われます。後に失脚するにしろ、この最初の所では、そんな不吉な予兆はありません。王を求めた動機が悪くても、神は人々を愛してくださり、サウルを王として選んでくださって、民を治めようとされたのですから。

 私たちがロバや小さなものを捜していて、自分のことを小さい、つまらないと思っていても、神様は私たちを捜して、私たちに大切な仕事を任せてくださいます。人があなたのことを、背が高いとか低いとか、誉めたり、けなしたり、何を言おうとも、私たちの内側を神様はご覧になって、私たちを愛し、大切な仕事を果たさせてくださいます。

 そして、有り難い事に、私たちは王になろう、救い主になろうとする必要はありません。サウルが失敗し、その後の人間の王様も決して完璧な王にはなれませんでした。それは本当の王であるキリストがやがて来られるからでした。そして、キリストとしてイエスが来られました。最後は十字架にかけられましたが、そこから甦ったキリストこそ、私たちの王であり、救い主です。私たちが自分を小さく、弱いと思う時も、人の言葉に一喜一憂して不安になる時も、イエスが私を治めてくださっています。今、ロバならぬ何かを捜している道でも、その道にも主の導きがあることを信じるのです。



「王なる主よ。サウルを通して、私たちを拒まず、救いたもうあなたの御支配を覚えて、ありがとうございます。私たちが捜しているよりも、遙かに大きく素晴らしい、思いがけないことを、あなたが備えてくださっています。いじけた心から救い出し、勇気と信頼をもって生きる恵みを与えて、あなたの大きな御支配の一部を担わせてください」

2021/12/5 マタイ伝26章31~35節「つまずきの先で待つ主」

2021-12-04 00:55:30 | マタイの福音書講解
2021/12/5 マタイ伝26章31~35節「つまずきの先で待つ主」[1]

 30節まで「最後の晩餐」があって、そこからエルサレムから1kmほどのオリーブ山に向かいました。ちょうど満月の頃ですから、月明かりに照らされた夜道だったかもしれません。

31そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。
32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 この後もう半日もせずに十字架にかけられる時です。その迫る出来事を見通した上で、イエスは弟子たちもまもなくそのご自分の逮捕や有罪宣告を見て、躓くことを予告されたのです。
 これは決して恨みがましく、非難して言われた台詞ではありません。また、こうは言っても、躓かず、出来れば頑張って、イエスへの忠誠を貫くよう期待された警告でもありません。そんな頑張りなど通用しない出来事が、まもなく起こるのです。イエスが捕らえられて、十字架に殺される。神の子、救い主、愛するキリストと信じて従って来た方が、神を冒涜する者として捉えられて、最悪の呪わしい処刑方法の十字架に殺される。それは弟子たちにとって、到底受け入れがたい出来事です。そこには弟子たちが躓いて、散らされる事、弟子たちが自分のプライドとか自信を砕かれる事も含まれているのです。だからこそ、ここでイエスは、
32しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。
と一息に仰ったのですね。あなたがたは躓くけれど、わたしはよみがえらされて[2]、あなたがたより先にガリラヤに行く。あなたがたの故郷、一緒に過ごしたガリラヤに先に行っている。

33すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」

 聞き捨てなりません、私は躓かない、あなたから離れたりあなたに失望したりしない、そうでしょう。こう言う私を誇りに思ってほしい。あなたを見捨てるような弱い人間だなんて見損なわないでください、私もそんな自分だなんて嫌です、と言わんばかりです。すると、

34イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」

 鶏は夜明け前に鳴きますから、ホントに今夜、暗いうちにということです。これだって、ペテロの自信を挫(くじ)くために冷たく言ったのではなく、温かく諭すお言葉だったでしょう。でも、

35ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。[3]

 ペテロだけでなく、弟子たち全員が自分は躓きません、一緒に殺されてもあなたを知らないなんて言いません、と言い張ったのです。でも、実際はやはり、この後、弟子たちは皆躓いて散り散りになり、ペテロは鶏が鳴く前に三度、イエスを知らないと言います。しかし、それで終わりではないのです。その後、イエスは葬れた後よみがえり、弟子たちより先にガリラヤへ行って、弟子たちを待っておられた。そこで弟子たちがイエスにお会いする。そして、その弟子たちをイエスが派遣される。その派遣の言葉をもってこのマタイの福音書は結ばれるのです。

 ペテロも弟子たちも、そして私たちも、自分の弱さや限界は認めたくないものです。躓きという言葉はスキャンダルの元になった言葉です[4]。「自分の人生にスキャンダルはあってはならない。イエス様だって私の生活に傷や汚点が少しでもあれば失望されるだろう」と考えているものでしょう。しかしイエスは、私たちの限界や現実をご存じです。神は、私たちには絶えきれない禍を時にお許しになります。堪えきれず、躓いたり離れたりする時もある。私たちの心にある闇、人生の夜をご存じです。マタイはこの会話をエルサレムからオリーブ山に出かける月夜の途中に置きます[5]。夜は、私たちが、昼間には隠れて気づかない自分が現れる時間です。イエスはそこにこそ触れられます。私たちの隠れた闇をこそイエスは知っておられ、そここそ、私たちと神との出会う場となります。自分では認めたくない、死んでもそんな自分では嫌だった自分を、イエスは知っておられ、受け止めておられ、その私たちの躓きの先で待っておられる。そう知って初めて、私たちのために死んでよみがえられたイエスに出会うのです。

 クリスマスは光のお祭りでもありますが、夜の祭りでもありますね。燭火礼拝やキャロリングは、夜に集まって、キャンドルを点すのが嬉しいのです。この世界の夜にキリストの星が現れた。夜番をしている羊飼いに、御使いが輝いてキリストの誕生を告げた。弟子たちの威勢の良さが尽きて、躓こうとしていた夜に、キリストは将来、先に待っていることを告げられた。教会が夜の思いをする時も、そこでこそ私たちのために死なれて甦った主が出会ってくださる。そこで私たちは、何度でも主に強められて、弱さや躓きを認めながら歩むことが出来るのです。

 31節の引用は、ゼカリヤ書13章7節です[6]。ゼカリヤ書当時の、民の問題を非難しながら、指導者(羊飼い)を打ち、民も散らされると預言していました[7]。しかし、その後に続くのは、残された人々のことを主が

9…銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。

と仰った約束です[8]。躓きを通しても民の心を練り清め、深く取り扱って、心から主を「私の神」と呼ぶように導いてくださる。そういう約束をするゼカリヤ書には「夕暮れ時に光がある」(14:7)という言葉があります。夕暮れて暗くなる一方の時にも、なお主の光がある。それもまた、クリスマスと復活を通して、私たちが確信できる言葉です。[9]

 人や教会や神への願い以上に、自分がこうありたい姿が砕かれる体験はとても辛いものです。けれども主は、そういう私たちの全てをもご存じです。神は私たちの願うよりももっと深く、もっと大きく、私の神です。クリスマスも十字架もその事をはっきり見せてくれ、今もこの主が私の主、教会の主でいてくださる[10]。その主に立ち戻る度に、私たちの心は鎧を脱がされて、深く変えられます。そしてこの私たちを待っていてくださる主に導かれて、歩み出せるのです。

「闇に来られた光なる主。あなたは私たちの闇も現実もご存じです。光や力も、あなたからのものに他なりません。躓き、打ちのめされて恥じ入る時も、あなたは私たちを決して恥じることなく、力づけて再び立ち上がらせたまいます。その恵みこそ、教会の原点です。小さな私たちを先立って受け止め、慰めてくださる主を、素直な喜びをもって証しさせてください。闇の中にそっと来られた主が、そのあなたの光の子として今日も私たちを派遣してください。」

[1] アドベントの今週と来週も、マタイの福音書の続きをともに読みます。クリスマスと受難週、飼葉桶と十字架は切り離せない繋がりがあります。この十字架に向かうイエスと弟子たちの姿を読みながら、クリスマスに向かう私たちの心に、主の光を点して戴きたいのです。

[2] この「よみがえる」は受動態です。イエスの復活は、動詞の場合、常に受動態で表現され、イエス自らの力によって「よみがえった」のではなく、神が「よみがえらせた」御業です。それゆえ、私たちも、神が「よみがえらせてくださる」と信じることが出来るのです。

[3] イエスの言葉は、責めたり辱めたりする口調ではなかったけれども、ペテロはそれを屈辱と受け止めたのでしょう。「そんな自分ではありたくない」のです。しかし、そんな自分の認めたくない大失敗を晒した時、それでも主は私を愛し、私を支え、私とともに歩んでくださいます。私を恥じることなく、何度でも立たせてくださることをペテロも知り、この記事や自分の体験を通して、私たちもそれを知るのです。まさにルカの福音書でイエスがペテロに仰った通りです。ルカ22章32節「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

[4] ギリシア語スカンダリゾー(動詞)。

[5] ルカの平行記事では、この会話は最後の晩餐の席で(22:31-38)。マタイとマルコ(14:27-31)は、これをゲッセマネへの道中に置きます。どちらが事実かは諸説ありますが、それぞれの意図を汲みたいと思います。

[6] ゼカリヤ書13章7~9節の一段落は以下の通り:「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の主のことば──。羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。8全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。9わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」

[7] その「羊飼い」は文脈からは唐突な登場ですし、10:2-3(テラフィムは不法を語り、占い師は偽りを見る。夢見る者は意味のないことを語り、空しい慰めを与える。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので苦しむ。3「わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰する。」万軍の主は、ご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場の威厳ある馬とされる。)からして、メシア預言というよりも、民の指導者を打つ、と取るのが自然の流れでしょう。その言葉をイエスは引用しながら、その打たれる指導者(羊飼い)と自らがなって打たれて下さり、そこから先の希望を語っておられるのでしょう。神は、語られた言葉の厳しさを、自らに引き受けてくださり、その痛みをともにしつつ、その先の回復を先導してくださいます。

[8] これに続いて、ゼカリヤ書14:4「その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。5「山々の谷がアツァルにまで達するので、あなたがたはわたしの山々の谷に逃げる。ユダの王ウジヤの時に地震を避けて逃げたように、あなたがたは逃げる。」私の神、主が来られる。すべての聖なる者たちも、主とともに来る。6その日には、光も、寒さも、霜もなくなる。7これはただ一つの日であり、その日は主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に光がある。8その日には、エルサレムからいのちの水が流れ出る。その半分は東の海に、残りの半分は西の海に向かい、夏にも冬にも、それは流れる。9主は地のすべてを治める王となられる。その日には、主は唯一となられ、御名も唯一となる。」

[9] 詳しくは、以前の一書説教、「ゼカリヤ書 夕暮れ時に光がある」ゼカリヤ書14章4-11節をご参考ください。聖書プロジェクトのゼカリヤ書 Zechariahもぜひ。

[10] つまずき倒れても、まだ先がある 日本キリスト改革派関キリスト教会 橋谷英徳氏説教