[1] 厳密には、この言葉は、出エジプト記23章20節の言葉でもあります。そこでは、出エジプトとシナイ契約の後に始まるイスラエルの民のために、主が「わたしの使い」を遣わして、律法に従って生きる道を備えさせてくださる、という意味合いが明確です。ですから、マラキ書の預言にしても、メシア(キリスト)の先触れ、というだけでなく、主の民が主を迎えるに相応しく、律法に従って生きる道を歩ませて下さる、という意味は見落とされてはなりません。
[2] 山口勝政「マラキ書」、クリスチャン新聞編『聖書66巻がわかる 創世記からヨハネ黙示録まで』(いのちのことば社、2001年)、262~264頁。
[3] 一例として、1:2「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。」、1:6「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の主は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。」、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。」、1:13「また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。──万軍の主は言われる──あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。──主は言われる──」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、2:17 あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。」、3:13「あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──主は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。」
[4] ここから、現代のキリスト者にとっても「十分の一献金」は義務だ、という考えが演繹されることがあります。この「十分の一運動」は、十九世紀後半にアメリカで強まりました。(榊原康夫『知恵ある生活』、151頁)。しかし、旧約時代の「十分の一税」は、今日の教会への「献金」とは異なります。日本長老教会の『礼拝指針』では「十分の一にまさる献金」という表現を選びました。「十分の一献金」をしなくて良いのではありません。むしろ、「十分の十」、すなわち私たちのすべては、すでに主のものなのだ、という自覚を持って、献げてくださればと願います。その意味でも、マラキ書3章10節の乱用は注意したいものです。
[5] 一例として、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。8あなたがたは、盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督にそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。――万軍の主は言われる――」、10「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火をともせないようにする人が、一人でもいるであろうか。わたしはあなたがたを喜ばない。――万軍の主は言われる――わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」、12「しかし、あなたがたは『主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている』と言って、わたしの名を汚している。13また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。――万軍の主は言われる――あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。――主は言われる――14自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。――」、2:11「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中で忌まわしいことが行われた。まことにユダは、主が愛された主の聖所を汚し、異国の神の娘をめとった。」、14「…それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。…15あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。16「妻を憎んで離婚するなら、――イスラエルの神、主は言われる――暴虐がその者の衣をおおう。――万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。」、17「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:5「「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。――万軍の主は言われる――」、8「人は神のものを盗むことが出来ようか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。」、14「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」
[6] でも、振り返ると私たちも心当たりがあるでしょう。神を信じて沢山恵みを戴いたのに、慣れたり忘れたりして、礼拝に来てはいるものの、信仰生活が形骸化している。「神のさばきなんて、当てにならない」と思ったり、いつも主がおられる事を忘れた振る舞いや対人関係だったり…。マラキ書は、名ばかりのキリスト者への警告として聞くべき書だ、とも言われるゆえんです。前掲書。
[7] 契約(ベリース)。2:4「このときあなたがたは、わたしがレビとの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知る。──万軍の主は言われる──5 わたしの、彼との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。」、2:8「しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。──万軍の主は言われる──」、2:10「私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」
[8] 3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが臨んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。――万軍の主は言われる。2だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀のように純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。――万軍の主は言われる――」、3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は言われる――わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は言われる――12すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。――万軍の主は言われる。」、3:16「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は言われる――わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。18あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」
[9] 「旧約聖書最後の5節は希望に満ちている」Bible Navi。
[10] これは複数形ですから、父なる神との関係ではなく、人間の親子関係が癒やされる事でしょう。
[11] 多くの翻訳は「牛舎から外に出た子牛のように」の意味に理解しています。直訳は「牛舎の子牛」です。