聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

2020-10-10 12:36:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

 前回「私たちは何を祈るべきですか?」という問いに「イエスご自身が私たちに教えた祈りを含めて、神のみことば全体がどう祈るべきか導き、祈りの言葉を示し導きます」と学びました。「イエスご自身が私たちに教えた祈り」それが「主の祈り」です。その事を確認するのが、今日の「ニューシティカテキズム」第四十一問です。

第四十一問 主の祈りとは何ですか?
答 天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 「ニューシティカテキズム」では「主の祈り」についてはこう確認するだけです。一つ一つの項目を詳しく見ていくことはせず、次の42問からは「御言葉」のテーマになります。ですから、今日も、主の祈りの丁寧な解説はしません。一つ一つ丁寧に見ていけば、きりが無いぐらい、これは素晴らしい祈りです。そして、その祈りを私たちが味わって祈れることは、本当に素晴らしい幸いです。「主の祈り」は主イエス・キリストが私たちに下さった祈りのプレゼントです。
 そうです。今でも世界中の教会が、世界中のキリスト者が、それぞれの言葉で、毎週、毎日、「主の祈り」を祈っています。私たちが「主の祈り」を祈る時、それは世界中の人々の祈りの輪に加わっている。数え切れない多くの人たちの祈りの伝統に、私たちも入ったのです。そう思うだけでもワクワクしませんか。「天にいます私たちの父よ」と祈る時、この「私たち」はこの会堂にいる人たちや、ここには見えない、でも、ここで「主の祈り」を祈っている方々とも、そして、日本や世界や、歴史上の何億というキリスト者とともに「私たちの父よ」と祈っているのです。その人たちとともに「私たち」と祈る特権が与えられたのです。一つの神を「私たちの父」と呼ぶ、強いつながりに入れられました。世界には、言葉や肌の色や国籍で違いがあります。
 文化や伝統で衝突したり戦争さえしたりしています。「あいつと俺たちは違う」っていう言葉が強く当たり前にあります。「主の祈り」は、そんな世界で、バラバラだった人たちを「私たち」と一つにするのです。言葉も通じない、肌の色も違う、好きな食べ物や、音楽の趣味も全然合わない、そういう人たちを、イエス・キリストは、神を「私たちの父」と呼ぶ、一つの家族としてくださいました。ですから、私たちは「自分だけ」の祈りはしません。自分さえよければ、という祈りではなく、周りの人、違う人、敵や知らない人も含めて祈ります。勿論、自分のために祈っていいのです。私のためにも、多くの人が祈ってくれているのです。私のために、「私たちの」と、一緒に祈ってくれている大勢の人を覚えて遠慮無く自分のためにも祈り、周りの人やすべての人のためにも祈るのです。

 しかし、その「私たち」のための祈りの前に「主の祈り」は
「私たちの父」
のために祈ります。

御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 この「御名」とは、天の父、あなたのお名前ということです。「御国」とは、天の父、あなたが王である国、ということです。「御心」とは、天の父、あなたの願い、お考え、あなたの喜ばれることが、ということです。この世界を作られたのは神です。それなのに、この世界の中に生かされている人間が、神様を忘れ、自分が王になろうとして、神様を礼拝するのも、自分の願いを叶えてもらうため、というちぐはぐなことが起きているとしたら、それは一番の問題です。
 主イエスは「主の祈り」を教えるに先立って、自分を見せびらかしたり、長々と祈ってやっと聞いてくれるような神だと思ったりするような勘違いをしないように教えられました。神を小さく、自分の方が大きく考えたままでは、祈りは始まりません。だから、「主の祈り」は、私たちの名前や思いよりも、まず天の父の「御名が聖なるものとされますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈るのです。その事で、私たちは自分が神様に成り代わってしまう愚かさから救い出されるのです。
 そして、後半は「私たちの」と繰り返します。
私たちの日毎の糧…
私たちの負い目…
私たちに負い目のある人たち…
私たちを試みにあわせないで…
 私たちが生きるのに必要なこと、食べ物やすべての必要、また、赦し、誘惑や悪からの守りを祈ります。ここに、私たちにとって本当に必要なことのエッセンスが詰め込まれています。「主の祈り」がなければ、私たちは自分の中に、どんな期待を持っているでしょう。どんな願いを祈ろうとしているでしょう。その願いは正直なもので、大事な願いだとしても、だからこそ、「主の祈り」の大きな願いの中に、自分の願いを置く時に、その願いさえも、新しい目で見ることが出来るようになります。

 主イエスは、私たちにこの祈りをプレゼントしてくださいました。私たちがどう祈れば分からない時も、主の祈りを祈ることが出来ます。とても、祈る言葉が出てこないほど疲れて、気持ちが萎えている時も、主の祈りがあることで、祈りの言葉を唱えることが出来ます。それを味わいながら、ゆっくりと祈りながら、時には言い換えたり、自分の言葉で言い直したり、繰り返したり、思いを挟みながら、祈って良いのです。イギリスの教会の礼拝で、司祭がみんなの前で「御国が来ますように」と祈った後、「主よ、私たちはもうこの祈りを二千年も祈っているのですよ」と言ったそうです。私たちも、主の祈りを祈りながら、そんな言葉を挟んでもいいのです。

 「主の祈り」は、主イエスが私たちに教えてくださった祈りです。神のひとり子イエスが、私たちに「天にいます私たちの父よ」と祈るよう教えてくださったことは計り知れない恵みです。毎日、この祈りを祈りましょう。毎日、沢山の願いや問題や痛みがあります。この世界で、神に向かって「天にいます私たちの父よ」と呼べることの幸せを、そして一緒に祈る大勢の家族がいる喜びを、主の祈りは与えてくれるのです。

「天におられる私たちの父よ、あなたが教えてくださった祈りを祈るとき、どうかその言葉が口先だけの言葉になりませんように。この祈りの願いが、私たちの心からの叫びでありますように。あなたの偉大なる御名のために、主の御国が地上に、また私たちのうちに、来ますように。アーメン」
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2020/10/4 エペソ書3章14~21節「祈り方を教えて」ニューシティカテキズム40

2020-10-03 12:26:06 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/4 エペソ書3章14~21節「祈り方を教えて」ニューシティカテキズム40
 
 イエス・キリストは、私たちに祈る特権を下さいました。私たちは天の神に向かって、「天にいます私たちの父よ」と祈る事が出来ます。「イエス様のお名前によって」と祈ることが出来ます。この、親しく祈る特権で、私たちは何を祈ればよいのでしょうか。
第四十問 私たちは何を祈るべきですか?
答 イエスご自身が私たちに教えた祈りを含めて、神のみことば全体がどう祈るべきか導き、祈りの言葉を示し導きます。
 ここでは、神の御言葉全体が、私たちに、何を祈るべきかを導き、具体的にどういう言葉で祈るかも教えて、私たちの祈りを手引きしてくれている、と言っています。聖書を読むのは、ただ私たちが神について頭の知識を増やすためというより、私たちが神にもっと親しく祈り、神との豊かな祈りの関係を味わい、喜び、祝うようになるためです。聖書は、私たちが祈るために、神が与えてくださった手引き、ガイドブックです。

 聖書には、たくさんの祈りの言葉が出て来ます。でも、意外とそれは気づかれていません。私たちの頭は、神さまってこういう方のはずだ、神さまの要求ってすごく厳しく、難しいはずだ、神さまが喜ばれる祈りってきっとこうだろうと、いろいろと考えていることが多いのです。ですから、イエスが祈りについて教えた時も、最初に
マタイ6:5祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。…7また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。8…彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
と、神を小さく考える誤解を糺しています。私たちも、神を小さく考えて、沢山の誤解をしています。聖書に、祈り方が示されている、といっても、「きっと、自分には難しいだろうなぁ」と思ってしまっているかもしれません。安心してください。聖書は、私たちに、あなたや私が考えたこともないくらい、豊かな祈りで満ちています。
 先に読んだ、エペソ書の言葉を思い出してください。なんと豊かな祈りでしょう。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
 私たちは、このように祈って良いのです。父なる神よ、あなたの栄光の豊かさに従って、聖霊なる神さまによって、私たちを強めてください。私たちに信仰を与えて、心のうちにキリストを住まわせてください。「欲しい物を願っていい」と言われたら、私たちは何を願うでしょうね。私たちがどんなものを思いつくとしても、聖霊が私たちを強め、キリストが私たちの心に住んで下さる。これよりも頼もしく大胆な祈りは、到底重いも及びません。それほどの事が、聖書では無条件に願われているのですね。そればかりではありません。続く言葉は、もっともっと大胆です!
…そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 私たちは、神の「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」んですって。教会の周りには、夏にはゴーヤが、今は無花果が実を付けています。そのゴーヤの苗も、無花果の木も、植える前には土を耕したり、肥料を埋めたり、毎日水を蒔いたりしました。ゴーヤの苗も無花果の木も、知らないでしょうけれど、根ざしている土は、十分に準備された基礎です。私たちも、実は、豊かな神の愛に根ざし、神の愛に基礎を置いて、今ここにあるのです。その愛の、広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持ちますように。それが人知(人の知識)を遥かに超えたキリストの愛であるかを知ることが出来ますように、と祈っています。私たちは、自分が愛に根ざしていることが分からず、自分で頑張らなきゃ、神の愛っていってもよく分からないしなぁと思っていることが多いものです。神に対する愛や信頼よりも、不信とか恐怖とか、殺伐とした思いでいるかもしれません。でも、聖書の祈りは、そんな私たちが、神の大きな愛の中に生かされていることを知ることが出来るように、そして、私たちがその神の満ち溢れる豊かさにまで満たされますように、と祈るのです。これが聖書の祈りです。
 『聖書の祈りが私の祈りになる』という本もあります。また、聖書の特に「詩篇」は祈りの宝庫です。詩篇は、人間の感情のすべてがある、魂の解剖図鑑だとも言われるぐらいです。祈祷会では、詩篇を一つずつ読んでいますが、嘆きや願い、賛美や告白の大胆さに、私たちの祈りはお行儀良すぎて、聖書の祈りがなんと大胆かを思わされます。その「詩篇とともに祈る」という本もあります。また「イエスとともに祈る」という手引きもあります。聖書は、私たちの祈りの手引きです。特に、イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」は、毎日、世界中で祈られている、素晴らしいお手本です。

 聖書には祈りの手引きがあります。もっと言えば、実は、聖書を私たちが読むこと自体が祈りなのです。私たちが言葉を出すだけが祈りではありません。まず神が語られて、私たちがそれに耳を傾ける。そこに既に祈りは始まっています。神は私たちに語ってくださり、私たちに何を願うか、どんな豊かな祈りがあるのかを示してくださいます。私たちが思ってもいない祈りの言葉を心に教えてくださいます。それに私たちが聴き、それを自分の言葉で繰り返す。そして、それを神が受け取って下さる。神が語り、私たちが聴き、私たちが語り、神が聴かれる。この場がそのまま、祈りなのです。

「祈りを聞いてくださる神よ、私たちの願いと祈りが、あなたの生けるみことばによって正しいものとなりますように。みことばによって励まされ、不可能と思えることも祈る信仰を与えてください。みことばによってみこころを知り、あなたに愛される神の子として主に近づくことができますように。また、みことばによって私たちはひざまずき、あなたが必要であることを知ることが出来ますように」
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2020/10/4 マラキ書4章1-6節「子牛のように跳ね回る 一書説教 マラキ書」

2020-10-03 12:07:58 | 一書説教
2020/10/4 マラキ書4章1-6節「子牛のように跳ね回る 一書説教 マラキ書」

招  詞  イザヤ書57章15、18節
祈  祷
賛  美  讃美歌77「御神は力の」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇100篇(24)
 賛  美  讃美歌280「我が身の望みは」①②
聖  書  マラキ書4章1~6節
説  教  「子牛のように跳ね回る
一書説教 マラキ書」古川和男牧師
賛  美  讃美歌280 ③④
応答祈祷
 報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌543「主イエスの」
*祝  祷
*後  奏

 今月の一書説教は、聖書通読表では3月に読んだマラキ書を取り上げます。先々週、マタイの福音書11章の前半を読みました時、その10節がマラキ書の引用でした。主イエスの先駆けとして活躍した洗礼者ヨハネのことが、マラキ書3章1節を引用して、紹介されていました。
「この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。」[1]
 このマラキ書の預言通りに、洗礼者ヨハネが遣わされたのですが、その間には四百年の時間が流れていました。マラキ書は、私たちの聖書では旧約聖書の一番終わりにあります。頁をめくれば新約聖書で、もう透けて見えますが、旧約と新約の間には「中間時代」と呼ばれる四百年があります。その最後に書かれた預言書がマラキ書なのです。では、その最後のマラキ書はどんなメッセージがあるのでしょうか。
 その特徴はなんと言っても、主の熱い愛です。一章は、
1宣告。マラキを通してイスラエルに臨んだ主のことば。2「わたしはあなたがたを愛している。――主は言われる――
 こんな始まりの書は他にありません。そしてマラキ書はずっと、主と民の会話で綴られます。全55節中、46節が「わたし」と「あなた(がた)」の対話なのです。これも他に見られない特徴で、神である主が人と語り、応答を求める、対話を求めて止まない方である証しです[2]。
 ところがその
「わたしはあなたがたを愛している」
に対して民は何と応えたのでしょうか。
一2…あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。
 なんとガッカリな応答でしょう。こんなやりとりがマラキ書ではずっと続くのです[3]。主の言葉に
「それはどういうことですか、
私たちがどのようにあなたを汚しましたか、
どのようにして主を私たちが疲れさせたのですか。」
 そんなつれない言葉が続くのです。
 マラキ書の時代、イスラエルの民は、遠くバビロンでの捕囚から奇蹟的にエルサレムに戻り、神殿もやっと再建して大喜びした後です。歳月とともに民の信仰も生活も形骸化してしまう。礼拝には傷物の生け贄が捧げられ、十分の一税は納められず[4]、庶民の間では離婚と雑婚、賃金の不払いと在留外国人への差別が蔓延(はびこ)っていました。その本音を言い表したのが3章14節。
「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」[5]
 こんな言葉にドキッとします[6]。捕囚の帰還や神殿再建、神の約束や祝福を見える形で戴くことがゴールではない。私たちは神の民といっても、内側が造り替えられなければ、豊かな主の愛も蔑ろにして、互いに踏みつけてしまいます。心に抱えている不遜を扱っていただかなければ、神の御国は嬉しい訪れどころか、忌避するでしょう。だから主は熱く語られるのです。
 主の愛から語り出されたマラキ書には短い四章に
「契約」
が六回も出て来ます[7]。主の契約は恵みの関係そのものです。主は人を愛して、ご自身の民として結び合わされた。だから主の民は、愛されている民としてふさわしく生きる。しかし、民がその道に背いても、契約の主は決して民を見捨てず、真剣に向き合い、本来の歩みに引き戻されます。厳しい言葉の合間にそれを上回る力強い、祝福の将来像を思い描かせます[8]。それが旧約聖書の結びなのです[9]。
 4章4節では
「律法を覚えよ」
と命じますが、5節では
「エリヤを遣わして」
と約束し、
「父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる[10]。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
 主は世界を滅ぼさないように、人に応答を求めるだけでなく、ご自身から心に働いて下さる。そのように私たちを変えるのは、主のわざです。
4:2しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
 「牛舎の子牛」は元気一杯、牛舎を所狭しと跳ね回り、門を開けば外に飛び出してはしゃぐ[11]。そんな子牛に準えて、あなたがたには義の太陽が昇る。その義の太陽から癒やしを戴く、そして踊り回る将来が約束されます。その約束通りにやがて洗礼者ヨハネが、そして、その後、主イエスご自身が来てくださり、私たちもやがて癒やされて、子牛のように跳ね回るのです。

 旧約の最後は惨憺(さんたん)たる有様でした。その民に、主は強い言葉で語ります。不誠実や裏切りを放っておきはしません。でも、その語りかけも預言者たちの派遣も含めて、それは主ご自身の、民の心を癒やされる働きなのです。主は将来、牛舎の子牛が跳ね回るような喜びの朝を、必ず迎えさせてくださる。心を癒やされ、父と子から始まるあらゆるもつれもほぐされる。旧約時代が四百年の沈黙に入る前の言葉がそれでした。
 主は私たちを愛し、私たちに「愛されている者」として、真実な礼拝を捧げ、誠実で信頼のおける人間関係を築かせてくださるお方です。



「私たちを愛したもう主よ。あなたの一方的な恵みにより私たちもこの契約の民に加えられました。あなたは歴史を支配なさり、世界を恵みの御国として完成させます。マラキ書の約束は確かに、ヨハネと主イエスに実現しました。私たちはその恵みに預かりつつ、なおその完成を待ち望んでいます。どうぞ私たちの心をきよめ、罪に気づいて悔い改め、それ以上に赦しと癒やしと喜びに溢れさせてください。私たちを憐れみ、慰めを注いで、約束を果たしてください」

脚注:

[1] 厳密には、この言葉は、出エジプト記23章20節の言葉でもあります。そこでは、出エジプトとシナイ契約の後に始まるイスラエルの民のために、主が「わたしの使い」を遣わして、律法に従って生きる道を備えさせてくださる、という意味合いが明確です。ですから、マラキ書の預言にしても、メシア(キリスト)の先触れ、というだけでなく、主の民が主を迎えるに相応しく、律法に従って生きる道を歩ませて下さる、という意味は見落とされてはなりません。

[2] 山口勝政「マラキ書」、クリスチャン新聞編『聖書66巻がわかる 創世記からヨハネ黙示録まで』(いのちのことば社、2001年)、262~264頁。

[3] 一例として、1:2「わたしはあなたがたを愛している。──主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのように、あなたは私たちを愛してくださったのですか』と。エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主のことば──しかし、わたしはヤコブを愛した。」、1:6「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の主は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。」、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。」、1:13「また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。──万軍の主は言われる──あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。──主は言われる──」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、2:17 あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。──万軍の主は言われる──しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちは帰ろうか』と。8人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。」、3:13「あなたがたのことばは、わたしに対して度を越している。──主は言われる──あなたがたは言う。『私たちが何と言ったというのですか』と。」

[4] ここから、現代のキリスト者にとっても「十分の一献金」は義務だ、という考えが演繹されることがあります。この「十分の一運動」は、十九世紀後半にアメリカで強まりました。(榊原康夫『知恵ある生活』、151頁)。しかし、旧約時代の「十分の一税」は、今日の教会への「献金」とは異なります。日本長老教会の『礼拝指針』では「十分の一にまさる献金」という表現を選びました。「十分の一献金」をしなくて良いのではありません。むしろ、「十分の十」、すなわち私たちのすべては、すでに主のものなのだ、という自覚を持って、献げてくださればと願います。その意味でも、マラキ書3章10節の乱用は注意したいものです。

[5] 一例として、1:7「あなたがたは、わたしの祭壇に汚れたパンを献げていながら、『どのようにして、私たちがあなたを汚しましたか』と言う。『主の食卓は蔑まれてもよい』とあなたがたは思っている。8あなたがたは、盲目の動物を献げるが、それは悪いことではないのか。足の萎えたものや病気のものを献げるのは、悪いことではないのか。さあ、あなたの総督にそれを差し出してみよ。彼はあなたを受け入れるだろうか。あなたに好意を示すだろうか。――万軍の主は言われる――」、10「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火をともせないようにする人が、一人でもいるであろうか。わたしはあなたがたを喜ばない。――万軍の主は言われる――わたしは、あなたがたの手からのささげ物を受け入れない。」、12「しかし、あなたがたは『主の食卓は汚れている。その果実も食物も蔑まれている』と言って、わたしの名を汚している。13また、『見よ、なんと煩わしいことか』と言って、それに蔑みのことばを吐いている。――万軍の主は言われる――あなたがたは、かすめたもの、足の萎えたもの、病気のものを連れて来て、ささげ物として献げている。わたしが、それをあなたがたの手から取って、受け入れるだろうか。――主は言われる――14自分の群れのうちに雄がいて、これを献げると誓いながら、損傷のあるものを主に献げるような、ずるい者はのろわれる。――」、2:11「ユダは裏切り、イスラエルとエルサレムの中で忌まわしいことが行われた。まことにユダは、主が愛された主の聖所を汚し、異国の神の娘をめとった。」、14「…それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。…15あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。16「妻を憎んで離婚するなら、――イスラエルの神、主は言われる――暴虐がその者の衣をおおう。――万軍の主は言われる。」あなたがたは自分の霊に注意せよ。裏切ってはならない。」、17「あなたがたは、自分のことばで主を疲れさせた。あなたがたは言う。「どのようにして、私たちが疲れさせたのか。」それは、あなたがたが「悪を行う者もみな主の目にかなっている。主は彼らを喜ばれる。いったい、さばきの神はどこにいるのか」と言うことによってだ。」、3:5「「わたしは、さばきのためにあなたがたのところに近づく。わたしは、ためらわずに証人となって敵対する。呪術を行う者、姦淫をする者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人を虐げてやもめやみなしごを苦しめる者、寄留者を押しのけてわたしを恐れない者に。――万軍の主は言われる――」、8「人は神のものを盗むことが出来ようか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだのでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。9あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。」、14「あなたがたは言う。『神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の得になろう。15今、私たちは高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる』と。」

[6] でも、振り返ると私たちも心当たりがあるでしょう。神を信じて沢山恵みを戴いたのに、慣れたり忘れたりして、礼拝に来てはいるものの、信仰生活が形骸化している。「神のさばきなんて、当てにならない」と思ったり、いつも主がおられる事を忘れた振る舞いや対人関係だったり…。マラキ書は、名ばかりのキリスト者への警告として聞くべき書だ、とも言われるゆえんです。前掲書。

[7] 契約(ベリース)。2:4「このときあなたがたは、わたしがレビとの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知る。──万軍の主は言われる──5 わたしの、彼との契約は、いのちと平安であった。わたしはそれらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼はわたしを恐れ、わたしの名の前に、おののいた。」、2:8「しかし、あなたがたは道から外れ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約を損なった。──万軍の主は言われる──」、2:10「私たちすべてには、唯一の父がいるではないか。唯一の神が、私たちを創造されたではないか。なぜ私たちは、互いに裏切り、私たちの先祖の契約を汚すのか。」、2:14「「それはなぜなのか」とあなたがたは言う。それは主が、あなたとあなたの若いときの妻との証人であり、あなたがその妻を裏切ったからだ。彼女はあなたの伴侶であり、あなたの契約の妻であるのに。」、3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。──万軍の主は言われる。」

[8] 3:1「「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。彼は、わたしの前に道を備える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが臨んでいる契約の使者が、見よ、彼が来る。――万軍の主は言われる。2だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現れるとき立っていられよう。まことに、この方は、精錬する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。3この方は、銀を精錬する者、きよめる者として座に着き、レビの子らをきよめて、金や銀のように純粋にする。彼らは主にとって、義によるささげ物を献げる者となる。ユダとエルサレムのささげ物は、昔の日々のように、ずっと以前の年々のように主を喜ばせる。」、3:7「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたはわたしの掟を離れ、それを守らなかった。わたしに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたに帰る。――万軍の主は言われる――」、3:10「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は言われる――わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。11わたしはあなたがたのために、食い荒らすものを叱って、あなたがたの大地の実りを滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。――万軍の主は言われる――12すべての国々は、あなたがたを幸せ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。――万軍の主は言われる。」、3:16「そのとき、主を恐れる者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書が記された。17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は言われる――わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。18あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、神に仕える者と仕えない者の違いを見るようになる。」

[9] 「旧約聖書最後の5節は希望に満ちている」Bible Navi。

[10] これは複数形ですから、父なる神との関係ではなく、人間の親子関係が癒やされる事でしょう。

[11] 多くの翻訳は「牛舎から外に出た子牛のように」の意味に理解しています。直訳は「牛舎の子牛」です。

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