聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/10/11 マタイ伝12章1~8節「真実の愛、安息の主」

2020-10-10 12:53:04 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/11 マタイ伝12章1~8節「真実の愛、安息の主」

招  詞  ヨハネの黙示録19章5~7節
祈  祷
賛  美  讃美歌79「褒め称えよ造り主を」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇130篇(31)
賛  美  讃美歌54「喜びの日よ」 ①②
聖  書  マタイの福音書12章1~8節
説  教  「真実の愛、安息の主」古川和男牧師
賛  美  讃美歌54 ③④
応答祈祷
報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌544「天つ御民も」
*祝  祷

 前回は、マタイ11章28~30節、
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
を読みました。それに続いて12章
「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。」
と今日の出来事が紡がれて、イエスが下さる「休み」、またイエスが「心が柔和でへりくだっている」方として豊かに現されていきます。
 「安息日」とは当時の土曜日で、聖書の律法では、一切の労働を止めて、神を聖とする日でした。現在、日曜日が休日のカレンダーがあるのも、私たちが日曜日に礼拝に集まるのも、この規定の延長でのことです。しかしここで弟子たちが
「穂を摘んで食べ始めた」
事が、
「安息日にしてはならないこと」
と非難されています。当時「安息日にしてはならない」項目が二三四も造られていて[1]、穂を摘むのは収穫行為、それを揉んで籾殻を取るのは脱穀として禁じられていたそうです[2]。仕事を止めて礼拝する、より、仕事とは何か、にずれてしまったのです。
 3しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、4どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。
 これは、旧約聖書のⅠサムエル21章の記事です。後に王となるダビデは、逃亡中、神の前に備えられていた「臨在のパン」、一週間ごとに交換した後は祭司だけが食べる事を許されていたパンを、祭司からもらいました[3]。祭司以外は食べてはならない、という規定より、ダビデと供の者たちの空腹を、祭司は考慮してくれたのですね。また、5節では、
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる…
 神殿で仕える祭司は、安息日にも働いているわけですから、労働を禁じる律法は適用されないのです[4]。この事を持ち出して、イエスはパリサイ人の批判に応えました。この後、
 6あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。
 以前の聖書の訳では「宮よりも大いなる者」でした[5]。者、つまりイエスが宮よりも偉大だ、という理解です。新しい訳、また他のほとんどの翻訳聖書も「もの」、つまり、誰かのことではなく、何かの事としています。ではその「宮よりも大いなるもの」は何かというと、
 7『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
 「宮よりも大いなるもの」、いけにえよりも主が喜びとするのは、
「真実の愛」
です。神が喜ぶのは、安息日の規定や様々な義務を死守することだ、空腹でも我慢して神に従うのだ、という犠牲的な信仰かと思いきや、主は
「わたしが喜ぶのは真実の愛」
と仰有るのです[6]。
 欄外に「あるいは「あわれみ」」とある通り、「憐れみ」という言葉なのですが[7]、元々の旧約聖書ホセア書6章6節の言葉が「真実の愛」、変わらない恵み、強い誠実さ、神の本質を現す強い言葉なのです[8]。私たちは、この「真実の愛」の神が、世界を造り、私たちを救い、回復してくださることを信じます。そして、神がこの世界を創造された事と、その神である主が奴隷であった民を解放して贖ってくださった事を覚えるのが安息日でした[9]。真実の愛を喜ばれる主が、この世界を作って、今も支え、人を奴隷生活から解放してくださった。それを覚えるために人は、週に一日、仕事や雑用を離れて主を見上げるのです。仕事に追われて、重荷を負うて、何かしら「生け贄」(犠牲)や非難が当然な社会で疲れていても、一週間に一日は主の前に行き、安息をいただく。そして、私たちに犠牲を求めるのでなく、喜んで変わらない愛を注いでくださる神、私たちのためにひとり子イエス・キリストが犠牲となってくださり、そして、死から日曜日の朝、よみがえってくださった主イエスを覚えるのです。その主の言葉に生かされて、残りの六日に送り出される。何があっても私を変わらず愛して安息を与えてくださる神の言葉に生かされて、「~しなければ」という言葉だらけの生活に出て行くのです[10]。
 なのに、腹ぺこで麦の穂を摘んで食べずにおれない人を見て、「安息日を破った」と鬼の首を取ったように責めるのでは全く逆です。むしろそういう杓子定規な信仰、神が喜ぶのは真実の愛よりも犠牲や規則の遵守であると振りかざして、咎のない者たちを不義に定めている、そっちの罪の方が重い。あなたがたは聖書を読んではいても、その意味を分かっていない、と指摘されたのです。主が喜ばれるのは、まず私たちが主の真実の愛を受け取ること、そして、私たちも互いに、規則や犠牲を要求するのでなく、真実の愛の中に見ていくようになることです。
 最後8節
「人の子は安息日の主です」。
 イエスは「安息の主」です[i]。私たちに命を与えて、安息を与えて、ご自身を「臨在のパン」として与えてくださったお方です。人の空腹や疲れ、重荷を負い、咎を負わされている辛さを深く憐れみ、
「わたしのもとに来なさい」
と招いて、休ませてくださる主。私たちを非難や、犠牲や規則から解放してくださった方。そのために命を捨て、そして日曜の朝に復活して、今も生きて働いておられるます。
 「安息の主」と仰有った主イエスが、この復活の日曜に、私たちの重荷を下ろさせ、色々な柵からも解放して、安らがせてくださいますように。

「主よ、この日曜日、私たちはあなたの素晴らしい創造と、主イエスの復活と、聖霊の降ったペンテコステを祝って、ここに集められました。本当に、あなたは私たちに真実で、恵みを注いで止まないお方です。私たちを罪や咎、冷たい心から救い出し、あなたの愛の中に安らがせてください。安息の主が、私たちを休ませ、私たちをその安息を運び届ける器としてください」

脚注:

[1] 横浜指路教会礼拝説教 「日曜日は誰のものか」 伝道師 矢澤 励太 より。

[2] そして、パリサイ人がそれを指摘したのは、単なる杓子定規な適用という以上に、目障りになってきていたイエスをやり込める狙いだったのでしょう。

[3] 後のダビデ王が命を狙われて追われていて空腹だった時、神の箱が置かれていた幕屋に行った時の事です。サムエル記第一21章1~6節「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」2ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」4祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」5ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」6祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。」 このパンについては、レビ記24章に記されています。「2「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。3アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。5あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。6それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。7それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。8彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。9これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」 この言葉から、ダビデが「臨在のパン」を食べたのが、安息日だったことも推測できます。

[4] 民数記28章9-10節「安息日には、傷のない一歳の雄の子羊二匹と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それに添える注ぎのささげ物。10これは、安息日ごとの全焼のささげ物で、常供の全焼のささげ物とそれに添える注ぎのささげ物に加えられる。」

[5] 口語訳、新改訳、また英訳聖書のKJV、NKJVは「宮よりも偉大な者one (who is) greater than the temple」と理解しています。新共同訳、聖書協会共同訳、ESV、NASV、RSVは「物something greater than the temple」とします。旧来の「偉大な者」から、「偉大な物」への移行をうかがえます。

[6] この「喜ぶ」は「御心とする、意思する、願う」という意味のセローです。ホセア書の原語も、求める、願う、喜ぶというハファーツ。神を喜ばせるために、私たちが真実の愛があるかどうか、ではなく、神ご自身の御心の本質、方向性が「真実の愛」ということです。

[7] ギリシャ語「エレオス」。なお、こちらも参考に。「真実の愛」と訳された根拠について

[8] ホセア6章6節「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」 これは、マタイが9:13でも引用していた、旧約理解のキーワードです。

[9] 出エジプト記20章8~11節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」 一方、申命記5章12~15節では「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中の中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」と、エジプトの奴隷生活から導き出された事が安息日の根拠とされ、それが、奴隷の労働をも免除する義務と結びつけられています。

[10] その「真実の愛」を覚える礼拝のために、祭司は安息日でも仕えて働くのです。

[11] 「人の子」というのはメシア(キリスト)を指す聖書の用語の一つで、イエスはご自分がメシアであることを現すのに、この言葉を専(もっぱ)ら用いました。

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2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

2020-10-10 12:36:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

 前回「私たちは何を祈るべきですか?」という問いに「イエスご自身が私たちに教えた祈りを含めて、神のみことば全体がどう祈るべきか導き、祈りの言葉を示し導きます」と学びました。「イエスご自身が私たちに教えた祈り」それが「主の祈り」です。その事を確認するのが、今日の「ニューシティカテキズム」第四十一問です。

第四十一問 主の祈りとは何ですか?
答 天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 「ニューシティカテキズム」では「主の祈り」についてはこう確認するだけです。一つ一つの項目を詳しく見ていくことはせず、次の42問からは「御言葉」のテーマになります。ですから、今日も、主の祈りの丁寧な解説はしません。一つ一つ丁寧に見ていけば、きりが無いぐらい、これは素晴らしい祈りです。そして、その祈りを私たちが味わって祈れることは、本当に素晴らしい幸いです。「主の祈り」は主イエス・キリストが私たちに下さった祈りのプレゼントです。
 そうです。今でも世界中の教会が、世界中のキリスト者が、それぞれの言葉で、毎週、毎日、「主の祈り」を祈っています。私たちが「主の祈り」を祈る時、それは世界中の人々の祈りの輪に加わっている。数え切れない多くの人たちの祈りの伝統に、私たちも入ったのです。そう思うだけでもワクワクしませんか。「天にいます私たちの父よ」と祈る時、この「私たち」はこの会堂にいる人たちや、ここには見えない、でも、ここで「主の祈り」を祈っている方々とも、そして、日本や世界や、歴史上の何億というキリスト者とともに「私たちの父よ」と祈っているのです。その人たちとともに「私たち」と祈る特権が与えられたのです。一つの神を「私たちの父」と呼ぶ、強いつながりに入れられました。世界には、言葉や肌の色や国籍で違いがあります。
 文化や伝統で衝突したり戦争さえしたりしています。「あいつと俺たちは違う」っていう言葉が強く当たり前にあります。「主の祈り」は、そんな世界で、バラバラだった人たちを「私たち」と一つにするのです。言葉も通じない、肌の色も違う、好きな食べ物や、音楽の趣味も全然合わない、そういう人たちを、イエス・キリストは、神を「私たちの父」と呼ぶ、一つの家族としてくださいました。ですから、私たちは「自分だけ」の祈りはしません。自分さえよければ、という祈りではなく、周りの人、違う人、敵や知らない人も含めて祈ります。勿論、自分のために祈っていいのです。私のためにも、多くの人が祈ってくれているのです。私のために、「私たちの」と、一緒に祈ってくれている大勢の人を覚えて遠慮無く自分のためにも祈り、周りの人やすべての人のためにも祈るのです。

 しかし、その「私たち」のための祈りの前に「主の祈り」は
「私たちの父」
のために祈ります。

御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 この「御名」とは、天の父、あなたのお名前ということです。「御国」とは、天の父、あなたが王である国、ということです。「御心」とは、天の父、あなたの願い、お考え、あなたの喜ばれることが、ということです。この世界を作られたのは神です。それなのに、この世界の中に生かされている人間が、神様を忘れ、自分が王になろうとして、神様を礼拝するのも、自分の願いを叶えてもらうため、というちぐはぐなことが起きているとしたら、それは一番の問題です。
 主イエスは「主の祈り」を教えるに先立って、自分を見せびらかしたり、長々と祈ってやっと聞いてくれるような神だと思ったりするような勘違いをしないように教えられました。神を小さく、自分の方が大きく考えたままでは、祈りは始まりません。だから、「主の祈り」は、私たちの名前や思いよりも、まず天の父の「御名が聖なるものとされますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈るのです。その事で、私たちは自分が神様に成り代わってしまう愚かさから救い出されるのです。
 そして、後半は「私たちの」と繰り返します。
私たちの日毎の糧…
私たちの負い目…
私たちに負い目のある人たち…
私たちを試みにあわせないで…
 私たちが生きるのに必要なこと、食べ物やすべての必要、また、赦し、誘惑や悪からの守りを祈ります。ここに、私たちにとって本当に必要なことのエッセンスが詰め込まれています。「主の祈り」がなければ、私たちは自分の中に、どんな期待を持っているでしょう。どんな願いを祈ろうとしているでしょう。その願いは正直なもので、大事な願いだとしても、だからこそ、「主の祈り」の大きな願いの中に、自分の願いを置く時に、その願いさえも、新しい目で見ることが出来るようになります。

 主イエスは、私たちにこの祈りをプレゼントしてくださいました。私たちがどう祈れば分からない時も、主の祈りを祈ることが出来ます。とても、祈る言葉が出てこないほど疲れて、気持ちが萎えている時も、主の祈りがあることで、祈りの言葉を唱えることが出来ます。それを味わいながら、ゆっくりと祈りながら、時には言い換えたり、自分の言葉で言い直したり、繰り返したり、思いを挟みながら、祈って良いのです。イギリスの教会の礼拝で、司祭がみんなの前で「御国が来ますように」と祈った後、「主よ、私たちはもうこの祈りを二千年も祈っているのですよ」と言ったそうです。私たちも、主の祈りを祈りながら、そんな言葉を挟んでもいいのです。

 「主の祈り」は、主イエスが私たちに教えてくださった祈りです。神のひとり子イエスが、私たちに「天にいます私たちの父よ」と祈るよう教えてくださったことは計り知れない恵みです。毎日、この祈りを祈りましょう。毎日、沢山の願いや問題や痛みがあります。この世界で、神に向かって「天にいます私たちの父よ」と呼べることの幸せを、そして一緒に祈る大勢の家族がいる喜びを、主の祈りは与えてくれるのです。

「天におられる私たちの父よ、あなたが教えてくださった祈りを祈るとき、どうかその言葉が口先だけの言葉になりませんように。この祈りの願いが、私たちの心からの叫びでありますように。あなたの偉大なる御名のために、主の御国が地上に、また私たちのうちに、来ますように。アーメン」
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