聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問44「最も激しい試みの時にも」詩篇一三九1-12

2016-12-12 16:09:08 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/12/11 ハイデルベルグ信仰問答44「最も激しい試みの時にも」詩篇一三九1-12

 

 イエスのお誕生を祝う、嬉しく明るいクリスマスには、暗く悲しい十字架の死をお話しすることは不釣り合いなのでしょうか。いいえ、少し前、夕拝で先にイエスの誕生についてお話ししたように、神である主イエスが人としてお生まれになった事自体、限りない謙りでした。イエスがこの世に降られたのは、十字架の死という恥辱にまで降るためでした。そして「使徒信条」では「死にて葬られ、陰府に降り」と言うのです。

問44 なぜ「陰府にくだり」と続くのですか。

答 それは、わたしが最も激しい試みの時にもこのように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで御自身の魂に受けてこられた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを救い出してくださったのだ、と。

 この「陰府」とは英語では「hell」という言葉ですが、「ヘル」だと「地獄」という意味もありますね。地獄とは、聖書の原語では

「ゲヘナ」

と言います。それは、神様が世界の歴史の最後にすべてを裁かれた時、神に逆らう人々を追いやる「永遠の滅び」の場所です。いつまでも燃える火で表現されるような、完全に神様から捨てられた、永遠の状態です。けれども、hellにはもう一つの意味があります。それが「よみ」です。こちらは「ゲヘナ」ではなく、ギリシャ語で

「ハデス」

ヘブル語で

「シェオル」

と言います。それは、死んだ後、すぐに人の魂が行って、復活の日までを過ごす、一時的な状態です。それは、永遠の苦しみの地獄(ゲヘナ)とは違います。「死者の国」とも違います。そこは、いわば終わりの日までの待合所です。永遠でもなければ、火や苦しみとも結びつけられていません。まずこの言葉を整理しておきましょう。

 主は

「陰府に降り」

ました。「地獄に行かれた」のではありません。イエスが地獄に行かれたと考えてしまうと大違いになります。死者の国に行ったと考えても、可笑しくなってしまいます。今日のハイデルベルグ信仰問答は、そういう誤解がないように、本当に死に至るまでの苦しみを味わわれたのだ、ということに集中するような解説をしてくれていますね。「陰府に降られたとはどういうことだろう?」とあれこれ想像を逞しくするよりも、本当に死んでくださって、死の後の人間の魂が陰府に行くように、キリストも徹底して人間として死んでくださったのです、ということに絞っています。

 …それは、わたしが最も激しい試みの時にもこのように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで御自身の魂に受けてこられた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを救い出してくださったのだ、と。

 陰府とはどこか、どんな場所か、という詮索をしなくて良いのです。むしろ、イエスの御生涯で

「言い難い不安と苦痛と恐れと」

を受けて下さったのです。それは

「地獄のような不安と痛みから私を救い出してくださった」

御生涯でした。だから、私たちが

「最も激しい試みの時にも」

確信をもって、慰めを戴いて、歩むことが出来るのです。そして、死においても、イエスが先立って死んでくださったのだからと、私たちは魂をイエスにお委ねすることが出来るのです。そう考えると「陰府にくだり」という言葉がとても親しく、すばらしく、私の心に響いてくるようになります。

 今日の詩篇一三八篇にはこんな言葉がありましたね。

たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。…

11たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、

12あなたにとっては、やみも暗くなく夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです。

 私が天に昇っても陰府に降っても、どちらにも神は私とともにおられる、というのです。私たちは、もうすっかり生きていくのが嫌になったりやけくそになったりして「闇よ、私を覆え」と叫ぶ時があるかもしれません。でも、そこでも神は私とともにいてくださいます。

 イエスの御生涯で有名な言葉の一つは、十字架上で

「我が神、我が神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

と叫ばれた言葉です。あの意味もまた深いのですけれども、今日一つだけ言いたいのは、イエスは神に見捨てられてくださいました。それは、すでに陰府や地獄にも等しい、恐ろしい体験でした。神に見捨てられることがどれほど暗く、所在なく、ゾッとすることか、私たちの想像を遙かに超えています。イエスは私たちのために神に見捨てられました。それゆえ、私たちは自分が神に見捨てられたように思う時にも、その自分の孤独や絶望を、イエスが私たちに先立って味わって下さったことを知らされています。イエスは、神から見捨てられたような時にも私たちとともにいてくださいます。つまり、イエスが私のために神に見捨てられる体験をしてくださったので、私たちは神に見捨てられることは決してないのです。

 …私たちは最も激しい試みの時にもこのように確信する…私の主キリストは、十字架上とそこに至るまで御自身の魂に受けてこられた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを救い出してくださったのだ、と。

「不安と痛みから…救い出してくださった」

とは言っても、不安や痛みを全く体験しないで済む、という事ではありません。また、不安や痛みが直ぐになくなる、ということでもありません。

「最も激しい試み」

が私たちを襲う時はあるのです。しかし、そのような時に地獄のような不安と痛みを味わいつつも、その中で、イエスが私のために陰府にまで降るほどの低い思いを既に味わってくださったのだから、私は決して独りではない。神に見捨てられたのではない。神は、私とともにおられ、不安と痛みをともにしていてくださる。だから必ず希望はあるという確信を持つことが出来るのです。

 クリスマスのイエスのお誕生は、既にその事の証しでした。私とともにいるためにイエスは貧しく低く生まれてくださいました。そして、人生の全ての不安や恐れや痛みも、死後の魂の状態までも全て私たちのために、味わい知っておられるのです。イエスは私たちとともにおられます。たとえ、神に見捨てられたり、地獄のような苦しみや、死んだほうがましのような虚しさに襲われたとしても、そこにも主イエスはともにおられます。それゆえ、私たちはもう陰府や地獄の恐れから救い出されているのです。

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マタイ1章18~25節「私たちとともにおられる神」

2016-12-12 15:59:53 | クリスマス

2016/12/11 マタイ1章18~25節「私たちとともにおられる神」

 今週もクリスマスの聖書記事の、何度も何度も聴いているエピソードをもう一度開きました。特に今朝は、イエス・キリストの父親役を果たしたヨセフに目を向けましょう。

1.正しい人であったヨセフ

 ヨセフは父親役だと言いましたが、今日の18節にもあるように、ヨセフとマリヤが一緒になる前に、マリヤはイエスを聖霊によって身籠もりました。ヨセフとイエスとは血は繋がっていないのです。生物学的には父親ではなく、最初はマリヤとの婚約を解消しようとしたのです。

19夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 マリヤの妊娠を知った時、ヨセフは彼女を去らせよう、離縁をしようと決めました。一つには、もう妻と決まっていた、厳粛な婚約関係にありながら夫ならぬ者の子どもを宿すことは姦淫の罪に相当し、姦淫罪は石打の刑という厳罰に処するのが律法だったことが考えられます。ヨセフはマリヤを晒し者にして、公然と彼女を極刑に引き渡すことも出来ました。しかし、ヨセフはそうすることを望まず、内密に去らせようとした、というのです。

 もう一つの読み方は、ヨセフはマリヤの胎内の子が自分の子ではないけれども、誰か他の男性の子でもなく、マリヤが姦通を働いたのでもなく、聖霊によって身重になったと分かった、という考えです。ヨセフはマリヤの妊娠が、聖霊による奇蹟以外にないと信じました。でも、だからこそヨセフは、マリヤを去らせよう、婚約を解消しよう、しかし、さらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた、という読み方です。20節でも、夢で主の使いはヨセフに言います。

20…「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。…」

 御使いが言うには、ヨセフがマリヤを妻に迎えなかった理由は

「恐れ」

です。裁きや怒り、正義感や潔癖意識ではなく、恐れでした。正しい人ヨセフは正しさ故に恐れました。聖書が示す

「正しさ」

は、四角四面の真面目さや冷たい几帳面さ、間違いを許せない杓子定規な

「正しさ」

ではありません。それは、真の正義の神との関係が正しくある、という意味での「正しさ」です。ヨセフも罪がなかったのではなく、神との関係を大事にしていたから正しい人と言われるのです。そして逆説的ですが、彼が自分の罪を十分に自覚していたことであるでしょう。

 今日の箇所に先立つマタイ一章の前半には、系図がずっと書かれています。ここで躓いてしまうような、読む気がそがれる一ページ目ですが、これは言わば旧約聖書のダイジェストなのですね。この系図に、新約聖書に至る、創世記からの歴史が凝縮されているのです。それは、アブラハムから始まる神の民の歴史です。約束を与えられて来た歴史であるとともに、神に背き続けてきた罪の歴史です。ダビデの王位から転落して、バビロン捕囚の裁きに遭い、その末裔に当たるのがヨセフです。ヨセフはそのことを正しく受け止めていました。だからこそ、婚約者が聖霊によって身重になった時、恐れて、秘かに離縁しようとしたのです。

2.恐れないで迎えなさい

 神の民の罪を、身にしみて理解していたヨセフは、神の奇蹟に選ばれたマリヤから身を引こうとしました。しかし、御使いは夢でヨセフに妻としてマリヤを迎えるように言います。ヨセフは生まれる子に名前を付ける責任が、つまり父親となってマリヤとその子を養う使命が与えられます。その名は「イエス」です。御使いがこう言います。

21…この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

 「イエス」には「主は救い」という意味が込められています。旧約聖書に「ヨシュア記」がありますが、ヨシュアとイエスとは同じ名前をヘブル語とギリシャ語で言い換えただけです[1]。ヨシュアはイスラエルの指揮官であり、軍事的な役割を果たしましたが、御使いは、生まれる子イエス(ヨシュア)がご自分の民を、その罪から救って下さる、というのです。ヨセフはその正しさ故に、自分が聖霊によって身籠もったマリヤを娶ることを恐れました。自分の罪を自覚していたからです。自分には罪があるから、聖霊によって身籠もったマリヤの夫には相応しくないとヨセフは考えたのに、御使いの告げたのは、その罪から救ってくださる方が生まれようとしているのだ、という知らせでした。御使いはヨセフに、相応しくないからこそ、マリヤを妻に娶り、生まれて来る子を救って下さる方として呼び、その救いを受け入れるよう命じたのです。自分をその方が救ってくださる民の筆頭に考えて、聞いたのではないでしょうか。自分の心にあった恐れを汲み取り、その恐れの根っこにある罪から救ってくださる方が来られると告げられたのです。それは、ヨセフにとって、どれほど慰めに満ちた言葉だったでしょうか。これはただの命令ではなく、ヨセフにとって思いもしなかった希望でした。力強く、素晴らしく厳かな知らせでした。そしてこれこそ、私たちにも告げられているクリスマスの言葉です。

3.神は私たちとともにおられる

22このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。

23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)。

 イエスの誕生は神が私たちとともにおられる、という事の体現でした。神は私たちとともにおられます。イエスはやがて十字架に死なれ、復活して後、天に昇られましたが、そのメッセージは今も変わりません。神は私たちとともにおられます。でも、神が私たちとともにおられると聞いても、遠慮したくなり恐れる思いも人間の中には当然出て来ますね。その人が本当の意味で正しく、良い心であればあるほど、恐縮して居心地の悪い思いがするでしょう。クリスマスにイエスのお誕生をお祝いしながら、おつきあいで明るい顔や楽しくしていても、頭の片隅には何か重いもの、暗いものが引っかかって、心から楽しめない思いがしたりします。

 しかし、この御使いの言葉で言えば、そういう暗く重い罪、疎外感を抱えた人間のためにこそ、イエスは来て下さったのです[2]。ヨセフは、イエスの父親となるほど身近に救い主を迎えました。そのヨセフの体験に託して、こういうクリスマスのメッセージが私たちに語られているのです。

 神は私たちとともにおられることが、イエスの誕生を通して、私たちに告げられています。それは本当に驚くべき事です。でも、同時にここでヨセフが体験したことは、驚くような奇蹟のドラマではありませんでした。勿論、マリヤが身籠もったことは衝撃だったでしょうが、それさえ奇蹟の光や聖霊のわざを、映画のワンシーンのように見たわけではありませんね。御使いが現れたのも夢であり、目が覚めた時には儚く思えたかもしれません。その後も、ヨセフの生涯はマリヤとイエスを守るために翻弄され、エジプトまでの逃避行をし、田舎のナザレで生活をしてと苦労続きだったと思います。そして、ヨセフはどうやらイエスが公生涯に出る前に死んだようで、いつの間にか舞台から姿を消します。神がともにおられるからといって、ヨセフの人生は華やかでもドラマチックでもありませんでした。苦労や困難がありました。恐れや迷いや躊躇いがありました[3]。でも、そのような事を通して、人は自分の心の闇を知ります。痛みを通して、私たちは化けの皮や表面的なものがはぎ取られた後に見える、本当のもの、ありのままの世界、正直な自分に気づくのです。そして、そのような上辺がはがされた素の自分と、神はともにおられる。揺れ動くものが全部揺れ動いて、崩れ去った後にも、神だけは揺れ動く事なく、変わる事なく、私たちとともにいてくださることを私たちは知らせて戴くのです。

 ヨセフの人生が深く変えられ、導かれたこの出来事のように、私たちも「恐れるな」と言われ、罪から救い、ともにおられる方との出会いを通して、深く変えられ、導かれています。

「主がご自分の民を罪から救うために自らこの世に来られ、私たちとともにおられることを感謝します。私たち一人一人の生涯を通して、この恵みを明らかにしてください。私たちの願いも、自己中心を重ねる表面的な願いから、私たちの心と人生に主を迎え入れ、主に明け渡す心にしてください。そうして主がともにいる恵みを生涯味わい、喜び、感謝させてください」



[1] 「救う」には宗教的な意味合い以上に、王権、支配、服従の意味がある。禍から救い出すだけでなく、良き支配の中に移す。それは、まさしく王のわざである。まさしく「罪」からであるとすれば、禍や苦しみや自己を基準とした悪理解ではないのだから、正しい支配、生き方への回復であり、神を王としない生き方からの救出に他ならない。

[2] それは、神が私たちとともにおられるお方であることの成就であると言われる。神が私たちとともにおられることが、私たちを罪の支配から救われた生き方へと回復するのである。

[3] 25節の「子どもが生まれるまで妻を知る(夫婦として身体を交わらせる)ことをしなかった」も慎み深さだけでなく、恐れや遠慮のようにも思えるのです。

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問43「はかないけれども尊い」ローマ6章5-11節

2016-12-04 17:06:04 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/12/04 ハイデルベルグ信仰問答43「はかないけれども尊い」ローマ6章5-11節

 夕拝でのお話しは、私たちの先輩が16世紀に書いたハイデルベルグ信仰問答を手がかりにしています。そして、今しばらく使徒信条の

「キリストは死にて葬られ」

という件(くだり)を詳しく味わっています。キリストが死なれたのは、私たちが自分の罪の代償を払う代わりであったこと、そのキリストの死のゆえに、私たちに永遠のいのちの完全な希望が与えられたことをまず見ました。それから、私たちが今も死ななければならない事実でさえ、呪いや罰ではなく、罪からの解放だとみるように変えられたことを見ました。しかし、そこでも終わりません。今日の問43は、もう一歩を踏み込むのです。

問43 十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちは他にどのような益を受けますか。

答 この方の御力によって、わたしたちの古い自分が、この方と共に十字架につけられ、殺され、葬られる、ということです。それによって、肉の悪い欲望はもはやわたしたちを支配することなく、わたしたちは自分自身をこの方への感謝のいけにえとして献げるようになるのです。

 「他にどのような益を受けますか」。これはとても大切な問いです。キリストの死は、神との関係が解決したとか、自分の死や死後の悩みが解決したとか、そういうことだけだと考える傾向が、教会の中にさえあるからです。勿論それだけでも素晴らしいことです。けれども聖書を読んでいくとそれだけではないことに気づくはずです。キリストの死、もっと言えば、聖書のメッセージそのものが、死後の宗教的な問題を扱うだけではなく、今の私たちの人生、生活、生き方を生き生きと力づけてくれるものなのです。罪の赦しや死後への希望だけではない、他にもまだ肝心な益を受けることがあるのです。

 特に今日の問いは今読みましたローマ人への手紙六章の言葉から生み出された告白であることはよく分かるでしょう。

「わたしたちの古い自分」

とあったのはローマ書の

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」

を下敷きにしています。

「肉の悪い欲望はもはやわたしたちを支配することなく」

という文章は

「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」

を言い換えたものです。キリストが私たちのために死んでくださったことは、私たちが今すでに罪ある古い自分としては死んで、神に対して生きる者と既にされたということなのだ、と言われているのです。これを

「他の益」

というわけですが、それはおまけとか余談という意味での「他」ではありませんね。むしろ、絶対に外せない大事な益として言及しなければならないのが、この問43の「益」であります。

 これは、キリスト者となったら「肉の悪い欲望」が全くなくなる、という事ではありません。洗礼を受けたら、もう嫌な自分がなくなると思っているとガッカリすることになります。自分の中に罪の欲望や、本当に醜い、身勝手な妄想があって、その思いに負けて行動してしまいますし、負けるどころか確信犯的に暴力的に生きることもあるのです。むしろ、聖書は、道徳的に悪いことではなく、正義感や真面目さ、善意、「自分は間違っていない」という思いこそが、神の前にはどれほど罪深いか、暴力的であるかを浮き彫りにしています。キリスト者になったからもう罪は犯さない、間違ったことはしない、などと考えるとしたら、それこそ聖書の折角の警告を聞けなくなってしまいます。

 キリスト教の教派の中には<本当のキリスト者は「聖められ」たら完全になって、もう罪を犯さなくなる>と断言する教えを持つ流れもあります。そういう教派では「聖霊のバプテスマ」とか「聖霊の油注ぎ」「第二の恵み」などと言いますが、心が聖められたら、完全になり、罪を犯さなくなると教えます。言ってしまえば、今、天使のように清らかな人格になれるのだ、という教派ですね。しかし、そういう教派も現在は随分穏健になって、あまりそういう極端なことは言わなくなってきたような気がします。

 あるいはキリスト者が罪を犯すのは、自分の中にある古い自分で本当の自分ではない、と教える教派もあります。救われて善を願う自分と、罪の古い自分とが同居している。まるで、天使のような自分と悪魔のような自分が心の中で戦って、どちらかが勝ったり負けたりしている、という二重人格のような理解です。そうやって、自分の中にある罪の現実と折り合いをつけようというのです。

 ローマ人への手紙でパウロが話しているのは、キリスト者はみんな完全に聖くなるはずだ、ということではありません。あるいは、キリストに結ばれた人の中にも古い人は残っている、ということでもありません。キリストが私たちのために死んでくださった以上、私たちを支配するのは罪ではなくキリストの恵みなのだ、と言っているのです。まだ罪はありますし、罪を犯さずにはおれない私たちですが、それはキリストの救いが弱かったり不完全だったりするからではないのです。キリストの死は、私たちが古い人に死んで、罪の支配から解放されていることの保証です。

 私の中にも醜い欲望はあります。恥ずかしい妄想や、とてもお話し出来ないような本当に身勝手な計算をしょっちゅうしています。ですが、それはイエスの救いが無力だからではありません。イエスは私に、罪に負けないよう頑張れと叱咤激励なさり下駄を預けるのではありません。もっとイエスに委ねたら完全に罪を犯さなくなるはずなのだ、と結局は私の信仰の問題になさるのでもありません。

 むしろ、私たちが罪を通してキリストを仰ぎ、悔い改める時、キリストはその失敗を糧として私たちを成長させてくださいます。主が私たちを支配しておられるので、罪を通してさえ、私たちがますます主に依り頼み、神の子どもとして感謝に溢れて生きるように計らってくださっています。ですから、私たちを支配しているのは罪のように見えても、実はキリストが私たちを支配して、罪や問題や失敗さえも用いて、私たちを成長させ、神の子どもとして歩ませてくださるのです。罪はあっても、私たちを支配しているのは、罪でも自分でもなく、私たちのためにご自分をさえ与えてくださった主なのです。だから、私たちの歩みは

「自分自身をこの方への感謝のいけにえとして献げるようになる」

と言われるのです。私たちが自分の欲望のためではなく、神への感謝で生きるように変えられて行くこと。それこそが、キリストが私たちのために死んでくださった御業の益なのです。

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ルカ1章26~38節「おめでとう、恵まれた方」

2016-12-04 17:01:25 | クリスマス

2016/12/04 ルカ1章26~38節「おめでとう、恵まれた方」

 アドベントの蝋燭も二本が付き、今日もまた、クリスマスに向けた聖書の言葉に耳を傾けましょう。今日開いたのは、何度も何度も聴いているお言葉、受胎告知の場面です。

1.マリヤへの御告げ

 ルカの福音書にはイエスの誕生までの出来事が丁寧に語られています。今日開きましたのは、母マリヤの所に御使いガブリエルが現れて、イエスを身籠もることを告げた、「受胎告知」の記事です。当時の社会の結婚年齢から、マリヤはまだ12歳や14歳、十代の前半の少女でありました。彼女の所に御使いがやってきて、

「おめでとう、恵まれた方」

と挨拶をして、男の子を産むこと、その子はいと高き方の子、ダビデの王位を継ぐ永遠の王となることを告げるのです。まだ少女に過ぎない彼女はどんなに驚いたか知れません[1]。マリヤは34節で、

…「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

と応じました。マリヤはまだ婚約中、結婚の厳粛な誓約に入ったとは言え、許嫁(いいなずけ)のヨセフと共に住むには日があったのです。そこで、まだ男の人を知らない処女の身の自分が身籠もって男の子を産むなどということがどうして出来るのか、と至極真っ当な疑問を呈するのです。

 これは「処女降誕」としても知られている教理であり、同時にキリスト教信仰の躓きの一つでもあります。「奇蹟なんて信じられない、イエスが処女から生まれただなんて馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てる人は、昔から多くおりました[2]。しかし、これに対する御使いの答はこれでした。

35御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

 これは「答」になっていませんね。神の力がマリヤを覆うから、男の人を知らないマリヤも妊娠できるのだ、という説明で納得できるのであれば「何でもあり」になってしまいます。何を見ても、「神がそうなさったから出来るのだ」という答で済ませたら、それ以上先に進めません。本を読んでいて疑問があっても、「著者がそう書いているんだからそうなんだ」という説明で片付け、思考停止することは、著者自身が決して望まない読み方のはずです。しかもここで御使いは、

「生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」

というもっと信じがたい言葉を告げます。処女降誕でさえ信じ難いのに、人間が聖なる者、神の子を宿すなんて遙かに信じがたいことです。しかしそれこそが、このイエスの誕生に託されたメッセージなのですね。

2.とこしえの支配者なるお方

 マリヤの問いは、直接には、自分がまだ男の人を知らないのにどうしてそんなことが、という疑問です。しかし、31節から御使いが告げたのは、その身籠もりとイエスと名付けること、その子が

「すぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

33彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」

という、とてつもないスケールの話でした。先週イザヤ書からお話ししたように、この事自体はイスラエルの民がもう何百年も前から約束されてきた事です。マリヤの回りには、この約束を待ち望む人々が少なからずいたでしょう。神が、王となる方をお遣わしくださって、終わることのない王国を始めてくださる。それは当時の敬虔な人々の待望でした。しかし、その方が自分のお腹に宿り、自分がその方を産む母親となる、となると話は別です。マリヤが抵抗を覚えたのは、処女降誕だけではなく、その事もひっくるめたこの御使いの宣言全体なのでしょう。そして、御使いもまた、処女降誕の可能性や奇蹟の合理的な説明をしようとしたのではなく、聖霊がマリヤの上に臨み、いと高き方の力があなたを覆うので、聖なる者、神の子と呼ばれるお方が生まれるのだと、32節33節で告げたメッセージを言わば反復します。つまり、マリヤがその方を宿すこと自体が、生まれてくるお方の御支配や、永遠の御国のわざの徴なのです。

 二千年前のナザレの少女が、奇跡的にイエスの母となったと信じられるかどうか、が問題なのではありません。その生まれた方イエスが、今この私をも含めた世界を治めておられ、永久に私たちとこの世界との王となってくださった、その恵みの御支配を信じるか。それが問われているのです。ですから、36節でガブリエルはマリヤに、先の25節までで語られていたエリサベツの事を持ち出します。エリサベツは不妊の女性で、既に高齢の息に達していましたが[3]、神はエリサベツ夫妻に洗礼者ヨハネの親となる奇蹟を下さいました。でもそのこと事態は、何もマリヤの処女降誕の説明や保証にはなりません。高齢者の思いがけない妊娠と処女の身で子どもを宿す事は全く別の次元です。けれども、御使いがそれを言うのは、

37神にとって不可能なことは一つもありません。」

と、神を仰がせるためです。その神とは、どんな奇跡も出来る神、という以上に、私たちを治めてくださる良き神、たとえ奇跡が何一つ起きたようには見えない時にも、なお私たちに最善をなされ、命のないような所に命を宿して、私たちの人生を導かれる神です。[4]

3.神にとって不可能なことは一つもありません

 ルカはこの福音書でもう一度、これと同じような言い方をしています[5]。十八章で、裕福な者が神の国に入ることの難しさを「駱駝が針の穴を通る」と仰った後に、

ルカ十八27…「人にはできないことが、神にはできるのです。」

と言われたのですね。金持ちは自分の財産や生活の居心地の良さが邪魔をして、神の国に行くことが出来ない。捨てられないものが多すぎて、立ち上がって神に従うことが出来ない。でも、金持ちではなくても、私たち誰もが、自分の持っているものを手放して、喜んで神に従うのには抵抗します。神の国の方では広く門を開いているのに、神を王として従う生き方より、自分が好きに振る舞える生き方にしがみついていたいのです。人は自分では救われることが出来ません。救われたいとも願いつつ、神に心を開けない。自分が可愛い。人を遠ざけたいし、自分の非を認めたくない。そうやって、捨てきれないものが多くあるのが人間です。そういう人間が、神に従って生きようという信仰など生み出しようがありません。しかし、人には出来ないことが神には出来る。神は、私たち人間の中に救いを受け入れる心を与えてくださいます。金持ちが、お金や財産や名誉よりももっと尊いものに気づいて、惜しみなく神に従う思いを下さいます[6]。その実例が、ルカが直後の十九章に記す取税人ザアカイです。そこに直接、

「神にはどんなことでも出来るのです」

という言葉はありません。しかし、明らかにザアカイの救いは神の奇蹟です。そうすると、ザアカイだけでなくルカの福音書に出てくる他の人々も、聖書に出てくるエピソードも全て、

「神には不可能なことはありません」

の生き証人なのです。

 今日の記事は、マリヤだけの特別な話ではありません[7]。イエスがこの世界に王として来られ、廃れることのない永久の国を始めて下さる証しが、マリヤの受胎告知でした。そして、イエスは私たちの王でもあられます。私たちを永遠に治め、私たちの心に信仰や愛や希望を宿してくださいます。自分の力では、命を宿すは勿論、素直な心も神や人を愛する思いも持てない、無力で冷え切った心ですが、マリヤの胎に宿られた主は、私たちの心にも宿って下さいます。そして、現に私たちの歩みの中に、命のわざを始め、富や力にすがるのではなく、神に従う生き方を育んでくださいます。その事を信じられないなら、マリヤの処女降誕や聖書の奇蹟を信じたとしても何の意味があるでしょう。しかし、神が私たちの王であり、永久の王となるためにこの世に謙ってこられたと分かっていく時、私たちは自分にも

「おめでとう、恵まれた方」

という祝福が向けられている事に気づけます。そして、私たちもマリヤのように

「私は主のしもべです。おことばどおりこの身になりますように」

と自分を神に差し出していくのです[8]

「主よ。あなたにはどんなことも不可能ではありません。その事を示すために、あなたは自身を卑しくし、この世界に来て下さり、貧しく若いナザレのマリヤの胎に宿ってくださいました。そこに私たちに対する慰めに満ちた約束があり、今ここであなた様の良き御支配があると信じるよう、そして私たちの心が喜びと信頼、謙虚と感謝とで満ちるよう、どうぞお導きください」



[1] ただ、マリヤが御使いを「見た」とかその姿に驚いたとは一言も書かれていません。これは12節のザカリヤが「これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われた」のとは対照的です。マリヤは御使いの姿を見たから驚いたのではなく、御使いの言葉に戸惑い、語られた内容に応えている、というのです。

[2] 他ならぬマリヤ自身が、まだ十代そこそこでも「男の人を知らないのに妊娠するなんてあり得ない」と言うぐらいの知識は持っていたのです。

[3] ルカ一6「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」

[4] 「神にとって」であって、よく言われるような「信じれば、どんなことも出来る」というヒューマニズム(人間賛美)ではありません。むしろ、人間の限界を受け入れ、その限界を越えて、神には不可能はない、という「神賛美」なのです。自分が神になろうとすることを止めること。自分が神になるために神の力さえ利用しようという歪んだ生き方を砕かれていくことでもある。むしろ私たちは、自分がこのクリスマスの恩恵に与る資格などない、小さく、卑しく、罪ある者であることを認めましょう。傲慢を捨て、浮かれて騒ぐクリスマスではなく、イエスがこの私たちを罪から救い、神の支配のうちに入れてくださった恵みに新しくされるクリスマスとしましょう。

[5] 創世記十八14では、不妊の老女であったサラに対して、妊娠と出産の約束に伴って語られます。他にも、ヨブ記四二2を参照。

[6] 人が富や金にすがりたがるのはそこに偽りの「万能感」があるからです。自分にしたいことをさせてくれるような力を手にして、神の救いを求めることは難しいのです。この場合は、人間が金銭や地位、誇りを手放して、神を求め、救いを願えるようにさせてくださることにこそ、神の「不可能はない」を見る。金銭や権力を手にしたまま、救いもいただける、というのではなく、握りしめていたものを神ならぬものとして手放して、神を求めるようにさせてくださることにこそ、神の全能のご支配が現されるのです。

[7] プロテスタントで確認しなければならないのは、マリヤを特別視・聖人視しない、というスタンスです。まだ十代前半の少女を選ばれたのは、神の恵みの力を現すためだったのであり、マリヤが特別に優れた聖女だったからではありません。

[8] 私たちが自分を「主のしもべ・はしため」として差し出すことも、悲壮感や諦めでは断じてありません。それは自分が神であることを止め、真の神の偉大さと限りない慈しみに委ねることからくる希望と広がりです。また、そのようなお方の「しもべ」であるとは、光栄なアイデンティティです。

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