聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二二章47~53節「絶妙な抵抗」

2015-08-09 14:37:48 | ルカ

2015/08/09 ルカの福音書二二章47~53節「絶妙な抵抗」

 

 何人かの方が、スクリーンがもっと色があると良い、と言われました。例えば、こんなカラフルなものにすることも出来ます。たくさんの色を映し出せるのはスゴいなぁと思います。ただし、絶対に出すことの出来ない色が一つあります。何だと思いますか。黒ですね。黒い光はありません。黒い部分は光が出ていないから黒くなるのです。暗やみは、光がないから暗やみであって、黒い光や「闇」があるから暗いのではありません。イエス様は仰います。

52そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように剣や棒を持ってやって来たのですか。

53あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」

 今まで、イエス様に手出しもせずにいた人々が、暗やみに乗じて、剣や棒を持って逮捕に押しかけました。日中は、イエス様の周りにいる群衆の反対を恐れて、手控えていましたのが、弟子の一人であったユダの手引きで、この場所に不意打ちをかけたのです。この夜、遂にイエスを憎んできたユダヤ当局は、悲願を果たしたのです。夜、暗い中、人目につかずに動けるとき、何をしようとするかに、その人の本当の姿が現れるとも言いますね。この夜は、ユダヤ当局の指導者たちが本性を現した夜でした。ユダもそうです。十二弟子のひとりのユダと呼ばれ、闇の中でもイエス様を見分け、口づけの挨拶をしても怪しまれないという自信を持つほど、近しい関係にありながら、ユダはイエス様を裏切っていました[1]。表向きの愛情やにこやかさに隠して、本心は暗やみの力、サタンの思い、裏切りも厭わない真っ暗な心になっていました。イエス様は、ユダのそのような生き方を、改めて厳しく問うておられます。

 けれども、決してイエス様は、まだユダに思い直してもらいたい、自分が十字架に掛けられて痛い思いをしないで済むようになればいい、と願っていたのではありません。イエスは、ご自分の死、十字架の苦難を、神のご計画の中にあるものと以前から語っておられました。イエスの十字架は、暗やみの力が強くなって、光を打ち負かして起きた出来事ではないのです。闇と光とが戦っても、決して光は負けません。この時、暗やみの力が欲しいままに振る舞うのは、神の敗北ではなく、神がそのような振る舞いをお許しになったからです。彼らにイエスを引き渡されたからです。今まで人目を憚(はばか)って表沙汰にしなかった憎しみや殺意を表す時となさったからです。闇の時とされて、神に対する人間の暴力を露わになさるのです。

 そして、その闇の力の中で、イエスの弟子たちの本心も露わになりますね。弟子たちは、

49…ことの成り行きを見て、「主よ。剣で撃ちましょうか」と言った。

50そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。

とあります。この闇夜で敵の右の耳を切り落とす、というのはよっぽどの剣の使い手か、まぐれか、でしょう。右の耳だけ切り落としてビビらせてやろう、なんて余裕はなかったはずです。恐怖や緊張の余り、イエス様の答を聞く前に、飛び出して剣を振り回して、敵の耳に当たっちゃったのだと思います。実際、弟子たちはこの後、いつのまにか蜘蛛の子を散らすよりも早く消え失せます。ただ独り、記されている一番弟子のペテロも、イエスなんて知らない、関係ないと、三度も否定してしまうのです。この闇で、弟子たちのイエスへの忠誠も勇気も、腰砕けになったことを暴露してしまいました。臆病で、愛もなく、卑怯者だと、明らかにしたのです。

 では、イエスはどうだったでしょうか。裏切り者のユダを呪い哀願したのでしょうか。ヤケクソに剣を振り回しただけの弟子たちに、それ見たことかと嘲ったり、ちょっとでもやり返してくれてよくやったと誉めたりしたでしょうか。ユダヤ当局の卑怯を責めたり、奇蹟の力で彼らを圧倒したりしたでしょうか。いいえ、イエス様は剣での解決をキッパリ止められました。

51するとイエスは、「やめなさい。それまで」と言われた。そして、耳にさわって彼をいやされた。[2]

 弟子を止めただけでなく、弟子が切り落とした敵の耳に触って、癒されたのです。切り落とされた耳を暗やみの中で捜して拾い上げたのか、傷に触れるだけで癒されたのか、それは分かりませんが、いずれにせよ、イエスの思いは、この敵の耳の癒やしに象徴されています。それは、イエス様が地上でなさった最後の奇蹟らしい奇蹟でした[3]。人の心の暗い闇にご自分が覆われるようなこの夜、主イエスが示されたのは、敵の耳を癒されるという小さな御配慮でした。

 神が暗やみの力を許された時、人間は自分たちの本性を現しました。弟子たちもその闇の中で、自分たちの弱さ、脆さ、身勝手さに気づかざるを得ません。そして、そのような闇の中でも、イエス様の慈しみは変わりませんでした。剣どころか嵐や雷で敵を討つことも出来たのにそうはなさいませんでした。人の裏切りと敵意しかない、深い孤独の闇の中で、主イエスは、それを怒って罰するのではなく、むしろ、その人間の身勝手な争いが作り上げた傷をお癒やしになりました。手を触れなくても癒せたのに、このしもべの耳に手を触れて癒されました。

 決してイエス様は、彼らの行為を大目に見られたのではありません。剣を取ることも黙認なさらず、むしろ厳しく止めさせなさいました。無抵抗であれば分かってくれる、だなんて世間知らずな平和主義を語られたのでもありません。主イエスは彼らの行動の問題を明らかにされるだけです。そして、憎しみや怒りに流されず、癒やしの御業をなさるのです。悪をもって悪に報いず、却って善をもって悪に打ち勝つ、というイエス様のお姿が、ここに輝いています[4]

使徒の働き二六18…目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、主を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるため…[5]

 それが福音です。そして、光よりも闇が強い、ということは決してありません。主イエスは、私たちの闇をご存じです。闇にあって見せる狡さや恐れ、傷や本心を、十分知っておられます。そこでこそ、私たちが変えられ、剣や力を棄て、主の御手に触れられて癒されることをなさるのです。遠回りのように見えます。無力なように思えます。しかし、これがイエスの方法です。私たちの心やこの世界を、闇が覆うような時、その時こそ、私たちは主イエスが深く深く働いてくださることを願わずにはおれません。私たち自身が、主の憐れみによって変えられる必要に、初めて気づかされるのではないでしょうか。そして、今は闇だとしても、それもまた、主の大きな時の中にあることで、主は闇にも光を照らされて、そこに絶妙な恵みの御業を現してくださる。必ず、主イエスは、闇よりも強い。力尽くではないけれど絶妙な抵抗で、闇に打ち勝たれる。だから私たちも、闇に流されずに善を行うよう励まされています。無駄なようでも小さなことを大切に出来るのです。主は今も、闇の中にこそ働いておられると信じるからです。

 

「主が私たちの闇をも深く知っておられることを感謝します。主が闇を通してさえ、私たちに問いかけておられ、本当の平和や回心を与えてくださることは、恐れ多い慰めです。どうぞ、私たちの歩みの隅々まで、あなた様が照らして、私たちを主の平和の器として深く整えてください。闇の中で、主イエスが示されたこの姿を、私たちの歩みの中で思い起こさせてください」



[1] マタイ二六章48節では「イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。49それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。50イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆が来て、イエスに手を掛けてとらえた」とあります(マルコ十四44~46もほぼ同様)。しかし、ルカは、これが合図だった、という点よりも、イエスの言葉を通して、口づけの親しさを装いつつ、実は裏切っているという偽装を問題にしています。

[2] 51節「やめなさい、それまで」は英訳「したいようにさせておけ」。榊原『聖書講解 ルカの福音書』p.422「これこそ、「聖書のことばが実現するためです」(マルコ一四・四九後半)のルカ版です。主は傷害罪・公務執行妨害罪などいかなる罪名も帰せられぬ罪なき小羊として、捕らえられねばなりません。…「したいようにさせておけ」と言われるほど恐ろしい皮肉な神の審判はないのです。」

[3] イエスがこの後、裁判、鞭打ち、十字架を背負っての行進、そして、十字架の死に至るまで、ピラトに語り掛けたことも、クレネ人シモンや隣で十字架にかけられた強盗や百人隊長の心に働きかけられたことも、ヨハネと母マリヤを母子として結びつけられたことも、赦しを祈られたこと、十字架に留まられたこと、大声で叫んで息を引き取られたこと、すべてが、人知を超えた奇蹟であります。しかし、いわゆる、癒やしや自然法則ではないことを指す「奇蹟」としては、このあと死まで奇蹟はありません。ですから「奇蹟らしい奇蹟としてはこれが最後」なのです。ちなみに、ヨハネ十八10では、「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。」とあります。ここには、斬りかかったのが、あのペテロであったことと、耳を切られたしもべが、ヨハネの福音書が宛てられた読者たちにとっては、「マルコス」として思い当たる人物であり、キリスト者となっていた可能性も排除できないことが示唆されています。マルコスにとっては、耳を斬られたが元通りに直された、という以上の体験であったのでしょう。

[4] ローマ十二17「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」、20「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。21悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

[5] 使徒二六17わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。18それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

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問61「主をあなたの喜びとしよう」 イザヤ五八13-14

2015-08-04 22:45:05 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/08/02 ウェストミンスター小教理問答61「主をあなたの喜びとしよう」 イザヤ五八13-14

 

 今日の夕拝では、十戒の第四戒「安息日を覚えよ」の四回目のお話しになります。週に一日を安息日として、神を礼拝することに専念しなさい、というのが第四戒です。仕事や遊びを脇に置いて、神との交わりを楽しみなさい、というのです。ただ、一時間ほどの礼拝に来る、というだけではありません。その日一日を、特別な日として過ごしなさい、と言われています。四回も話すぐらい、この「安息日規定」は、聖書には強調されて、繰り返し書かれています。今日の問六一と六二ではこう言われています。

問六一 第四戒では、何が禁じられていますか。

答 第四戒は、[第一に]この戒めで求められている義務を怠ったり、いいかげんにはたすこと、また[第二に]怠惰や、それ自体罪深いことを行うことにより、あるいは、この世の仕事や娯楽についての不必要な思い・ことば・業によってこの日を汚すこと、を禁じています。

問62 第四戒に付け加えられている理由は、何ですか。

答 第四戒に付け加えられている理由は、[第一に]神が私たち自身の仕事のために一週間のうち六日間を私たちに与えておられること、[第二に]神が第七日に対して特別な所有権を主張しておられること、[第三に]神ご自身の模範、そして[第四に]神が安息日を祝福されたこと、です。

 では、この安息日の「義務」とか「禁止事項」、そして、その理由にある「神の特別な所有権」や「模範」とはどんなことでしょうか。イエス様ご自身が、どのように安息日を過ごされたのでしょうか。教会が、それまで土曜日であった安息日を、日曜日とした転機ともなった最初の安息日に、イエス様は何をなさったのでしょうか。それが、今日一緒に読んだ、「エマオに向かう弟子たちとイエス」が遭われた、ということです。よみがえられたイエスが、弟子たちに近づいて、二人に会ってくださいました。その時まだ弟子たちは、イエスの復活を信じることは出来ていませんでした。十字架さえ、受け入れられずにいました。そして、近づいて来てくださったイエスを見て、その話をずっと聞いていても、それが愛するイエス様だとは気付けなかったのです。そういう二人にイエスは近づかれて、語りかけられました。最後には、彼らとともに食事をして、彼らの前でパンを裂かれた、とルカの福音書には書かれています。そして、イエスの死を受け止めきれず、暗い思いのまま、他の弟子たちから離れて行こうとしていた二人の心は、段々と燃え上がるような心へと変わっていきました。冷たい心が、熱い情熱へと変わりました。それが、キリストとともに過ごした、最初の安息日だったのです。

 レンブラントが描いたのが、この「エマオのキリスト」という一枚です。

 二人の弟子と、宿屋の従業員がいますが、真ん中でキリストが天を見上げておられます。イエスはこの時は弟子たちの方を見てはおられません。天を見上げ、父に感謝を捧げています。その顔が一際輝いています。そして、二人の弟子たちは、そのキリストを見て驚いています。天の神との親しい信頼に、恍惚としているような顔です。しかし、そのキリストとの出会いが、二人の心を明るくしたと言うかのようです。

 この夜、キリストは二人の弟子に何を仰ったのでしょうか。「安息日なのに、どこに行くのだ」と責めたりはなさいませんでしたし、「私への礼拝だけをしていなさい」と縛ったりもなさいませんでした。二人に語りかけ、聖書を開いてご自身について説き明かしてくださいました。弟子たちの心を開いて、俯いていた思いを解きほぐし、燃やしてくださいました。そして、彼らをご自身との食事に招かれて、いのちを与えてくださったのです。それによって、二人の弟子たちは、力や希望や喜びを取り戻したのです。

イザヤ書五八13もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、

14そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。

 ここでも主が約束しておられるのは、出歩くことを止めて好むことをしない、という規則ではありません。安息日が喜びの日であり、「栄えある日」なのだ、という事です。他の仕事や雑用や、あれもしなくちゃこれもしとかなきゃ、という思いを棚に上げて、主の喜びを戴く必要があるのです。そして、それは私たちにとっての、本当に尊い喜びである、ということです。

 もし、日曜日に礼拝や奉仕に行かなきゃ、とばかり思って、内心「嫌々」とか「渋々」で、喜んだり感謝したりすることがないならば、それこそは、今日の問六一で言われていた「怠惰」や「禁じられている」ことなのですね。日曜日は、キリストが私たちのために、死からよみがえってくださった日です。死や苦しみや、生きていく辛さや苦しみを、すべて味わい知ってご存じであるイエスが、私たちのためによみがえってくださったのです。その方が、今も私たちに近づかれて、私たちとともに語り、私たちとともに過ごし、私たちに食事や全ての必要を下さる。それが、安息日に体験する恵みなのです。

 だから、安息日は、ただ礼拝堂に来て、礼拝のプログラムに参加するというだけではありません。また、午後まで奉仕や伝道活動をみっちりする日でもありません。この日は、主にあって、ともに心から神を讃美して、御言葉に気づかされて、一緒に楽しみ喜び、分かち合いをする日です。言葉で神の愛を言うだけでなく、本当にお互いに神の愛を伝え合う日です。一緒に楽しんだり笑ったりする祝いの日です。そのために、神ご自身が、日曜日を特別な日としておられるのです。

詩篇一六11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち溢れ、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

 普段も、仕事や家族や趣味やTVや、色々な楽しみはあります。その全てをひっくるめたよりも、深い喜び、永久の楽しみが、安息日にはあります。イエスと過ごし、聖書の言葉を分かち合って、深い休みをいただく楽しみは大きいことです。神は私たちに、決して色あせることも、なくなることもない喜びを、安息日毎に与えてくださいます。

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申命記十一章13~21節「心が迷わないように」

2015-08-04 22:39:41 | 申命記

2015/09/02 申命記十一章13~21節「心が迷わないように」

 

 今日は申命記十一章をお話しします。次の十二章から、具体的な律法が与えられていきますから、今日の十一章までが、総論的な話となります。同じような事を繰り返し繰り返して、長々、ダラダラとしつこく言っているようにも思えます。「主の御言葉に聞き従いなさい、主の戒めを守りなさい、他の神に仕えてはならない」と、そればかりを言っているようにも思えます。「そんなに言わなくても、もう分かったから」と言いたい。「モーセさん、あなたこそ心配しすぎですよ。そんなに思い煩わないでも大丈夫ですよ」と言いたくなりそうです。

 もちろんモーセはただ同じ事をくどくどしく繰り返すだけでなく、祝福を強調していますね。

13もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、

14「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。

15また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 後の方の26節以下にも、「祝福と呪い」が語られています。こうした祝福をもって主に従うことを励まし、主に背くなら呪いを招くことも強調した上で、次から具体的な律法が語られていきます。しかし、もし規則と従順の要求だけが与えられて、従えば祝福、従わなければ呪いだ、というのがキリスト教であれば、これはひどい宗教です。脅し、脅迫に他なりません。そういう要求だけが与えられたのではないのです。この十一章2節でもモーセは確認します。

 2きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。

 3これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、

 4また、エジプトの軍勢とその馬と戦車に対してなさったことである。-彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている-

 これが5節6節と続くのですが、この時の聴衆は、ここで言われているように、エジプトでパロ(ファラオ)の奴隷として働かされ、虐げられて、子どもたちを殺され、人間扱いされずに生きてきた時代を知っている人々です。パロが、太陽の子、神の化身として、繁栄を築き上げていた、その足下に不正や暴力がありました。人々は自分を守ることが精一杯で、希望を失い、正義を諦めて、言葉にならない呻きを神に叫ぶしかなかったのです。そういうエジプトに、神はモーセを遣わされました。神は祈りに応えてくださり、パロの生き方にじっくりと挑まれて、パロの生き方に報いられ、完膚なきまでに打ちのめされました。今まで威張っていたパロの支配が、張りぼてでしかなかった馬脚を、神が十分に現してくださいました。けれども、それほどの力と憐れみとを見続けて、味わっても、イスラエルの民はむしろ、神を疑い怒らせることをし続けましたね。

 けれども、主は彼らを憐れみ、怒りつつも、赦してくださったのです。パロのような力尽くの支配や、強制的に服従を命じる恐怖政治ではなくて、愛するわが子として育て、導く、憐れみに満ちた正しい支配が現されました。そういう力強く生々しい御業を、経験し、その目で目撃してきたことがここで再確認され、その上で、その主の命令に従いなさい、その主から離れずに歩みなさい、と言われているのです。「あなたがたのこれからの歩みもまた、自分の豊かさやプライドに突き動かされるのではなく、この聖なる神の栄光を現すようなものでありなさい。生ける真の神だけを礼拝しなさい。不正を退け、人を大切にし、弱者を顧みなさい。悪事を憎み、間違いが起きたらちゃんと対応しなさい。」そう言われていくのです。

 モーセはここで見抜いています。これから、自分が死んだ後、遅かれ早かれ、民は神の恵みを忘れて、自分たちの欲望や目の前の損得に振り回されて、愚かな選択をするようになることを、十分見抜いています。それは、ただ神の命令が厳しくて、窮屈だから息抜きもしたくなる、という問題ではないのです。むしろ、せっかく神が、エジプトの支配から救い出してくださったのに、また、畑の収穫や財産が増え、自分が権力を持つことに心を奪われて、エジプト時代の生き方に舞い戻ってしまう、という逆行なのです[1]。細かいことをグチグチネチネチ言っているのではなく、私たちが、真の神を忘れやすく、恵みの恩を忘れて、自分の生活と、恵み深い神とを切り離してしまいやすいから、教えられる必要があるのです。

16気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。

 私たちの心は迷いやすいのです。どんなに大きな奇蹟を体験しても、どんなに感動的な赦しや憐れみを戴いたとしても、それでも、私たちの心は悲しいくらいに迷いやすく、横道に逸れてしまうのです。神ならぬ神々の囁きに惑わされるのです。この時のイスラエルでさえ迷いました。そして私たちも、偶像崇拝だけでなく、学歴とか出世、収入や生活の安定、結婚、家庭、子ども、恋愛、色々なものに迷います。それ自体は悪くはないものでも、神のように縋(すが)ったり失うまいとしたりするならば、それは私たちの心を必ず病ませ、周りにも悪い影響を与えます。19節20節で、子どもや家に御言葉を教えることが言われます。これも、家庭や子育てというのは、私たちの最もプライベートな所ですから、そこでこそ私たちのホンネが出て来るからですね。聖なる恵みの神を中心とせずに、自分のエゴや勝手な感情や世間の価値観に流されてしまうからです。だから、意識して御言葉を教え、主を中心とすることを意図的にする。子どもたちにとともに、憐れみ深く生きること、正義を行うこと、見えない所におられる神を恐れることを共に覚え続ける。それが、子どもだけでなく、大人や親をも守るのですね。

 次の十二章から具体的な命令に入ります。三千年も前の生活が背景ですから、意味を聞き取りながら、私たちの生活に適用し直したいと思います。でも、それ以上に、モーセがその規則を述べる前に、ここまで十一章もの長い前置きをした、という点を覚えておきましょう。神がどれほど力強く、憐れみ深い方か、を覚えることが大事です。私たちを恐れや虚栄の支配から救い出して、恵みの支配に入れてくださいました。イエス・キリストが来て、十字架にかかり、死んでよみがえった。これは、本当に大きな、測り知れない恵みです。それでも私たちの心は迷いやすい。恵みではない力に憧れ、流され、騙されかねないのです。

 だからこそ、私たちは繰り返して、主の一方的な恵みに立ち返ることが必要です。主の憐れみを静かに思い巡らすことが、私たちの迷いを覚ますのです。社会には迷わせるものが沢山あるからこそ、流されまいとして信頼や希望をもって、正しく愛ある生き方をこの世界にもたらす人に励まされます。今週も主が私たちを、それぞれの場所にお遣わしくださいます。希望をもって出て行きましょう。

 

「天地の主よ。あなた様は、この世界の様々な営みを全て支配して、私たちに従順と祝福を与え、更に、私たちの心を、迷いや恐れやプライドや欺きから救い出してくださるお方です。私たちはあなたの導きを必要としています。あなたの諭しを、あなたの命令を、必要としています。聞かせ続けてください。主が、御言葉によって、私たちの今週の歩みも守ってください」



[1] 申命記十一章には、6節に「ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったこと」とありますが、これは民数記十六章を背景にしています。民数記十六章13節では、ダタンとアビラムが「あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようと君臨している。…」と言っています。約束の地こそは「乳と蜜の流れる地」なのですが、ダタンとアビラムは、エジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼ぶほど、過去を美化しています。これは、東欧の社会主義国家が破綻した後に、経済的状況が思うようにならないと、過去の恐怖政治を忘れて、「昔の方がよかった」と懐かしんだのに似ています。

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