聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問65-66「親との和解 その困難と祝福」

2015-08-16 21:57:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/08/09 ウェストミンスター小教理問答65-66「親との和解 その困難と祝福」

 

 先週に続いて、十戒の第五の戒め、「あなたの父と母を敬え」からお話しをします。問65では「父と母を敬え」とは何を禁じているのか、という角度で説き明かします。

問 第五戒では、何が禁じられていますか。

答 第五戒は、さまざまな立場と関係にある、あらゆる人の名誉とその人に対する義務を無視したり、それらに反することを行うことを禁じています。

 前回もお話ししたように、ここでは自分の親だけでなく、「さまざまな立場と関係にある、あらゆる人」に対して、その名誉と義務を無視したり、それに反することを行ったりすることが禁じられている、というのですね。親だけではなくて、全ての人間関係の土台が、親との関係から始まるのです。あるクリスチャンの方がこんな事を言っていました。「祝福された結婚の最大の秘訣は、親との和解です」。これも、親との関係が、結婚して、新しく自分の家庭を持ったときと切り離せない関係がある、ということですね。あなたの父と母を敬え、ということは、様々な人間関係の根っこにある親子関係を解きほぐそうという神様の御心なのだと言えます。

 けれども、聖書に描かれているのは、人間が罪によって神から離れ、親子や夫婦や大切な関係もおかしくしてしまう姿ですね。お父さんやお母さんとの関係でさえも、敬うことが難しいぐらいこじれて苦しんでいる人はたくさんいます。結婚の祝福は、親との和解です、だなんてわざわざ言わなければならない事自体、親子の関係がギクシャクしてしまっている証拠です。聖書に出て来る親子は、イサクも、ヤコブも、ダビデも、親子関係で問題を抱えていました。現代もこの問題は解決していません。親だからって尊敬できるわけではないことは、明らかです。神様はどうして、そんな人間社会に対して、「あなたの父と母を敬え」だなんて仰ったのでしょうか。「敬え」と言われて、「はい、分かりました。尊敬します」と言えるようなものではないとご存じないのでしょうか? どんなに親がひどい人でも、我慢しなさいと仰っているのでしょうか?

 いいえ、神様は人間の罪や苦しみの深さを、誰よりもよく知っておられます。敬えと言われて、敬えるわけではないことも知っておられます。だから、ここでも

「あらゆる人の名誉とその人に対する義務を無視したり、それらに反することを行うことを禁じています」

と言われています。父と母を好きになりなさい、ではありません。父と母からどんなひどいことをされても受け入れなさい、でもありません。親だからといって、子どもに何をしても許されるわけではないのです。神様は、人間の罪を怒り、悲しまれるお方です。それを無理遣り、和解させよう、好きになりなさい、などとは仰いません。けれども、私たちがいつまでも、こじれた関係や相手の問題に振り回されたまま、縛られて、引き摺ってしまうことも望まれません。だから、「あなたの父と母とを敬え」と仰るのです。恨んだりせず、関係を解きほぐそう。苦しい思いはわたしが引き受けるから、あなたは敬いなさい。それが、あなたの解放になるのだ、と言われるのです。

 「父と母」という言葉は、聖書の最初の創世記二章で初登場します。そこでは、人が

創世記二24…その父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

とあるのですね。両親との関係は、やがて「離れる」べきものだ、と聖書の最初に言われています。そう言いつつ、同時に、十戒では「父と母を敬え」と言われているのです。ですから、「父と母を離れる」と「父と母を敬う」は両面です。

 両方あっての関係です。中には、親が子どもから離れたくない、子離れが出来ない大人も沢山いて、子どもが巣立っていくと「敬われていない」と寂しがったりします。でも、そうではありません。反対に、親に反抗したくて、飛び出してしまうことで「父と母を離れ」て、スッキリしたと思っている人もいます。でも、それも違います。反抗心から離れるのでは、実はまだ親離れが出来ていないのです。逆に、いつまでも離れられないようでは、敬うことも出来ません。お互いの人格の違いを認めることが出来て初めて、「敬う」ことは出来るからです。親子と言えども、別個の存在なのだと、弱さも罪も一癖も二癖もあるがままに認めることが出来た姿が「敬う」という姿勢なのです。

 この第五の戒めには、「理由」が付け加えられています。申命記ですと、

五16…それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。

 とはいえ、親孝行をすれば全員長寿になる、とは言い切れませんね。問66の答でも、

第五戒に付け加えられている理由は、この戒めを守るすべての人々に対する、長寿と繁栄(それが神の栄光と彼ら自身の益に役立つかぎりで)の約束です。

とはありますが、これは、個々人に対する約束、というよりも、この戒めを守る人々全体、言い換えれば、そういう社会や国家が、長く繁栄するという約束と考えた方がよいでしょう。主は、足りない親、尊敬するのが難しいような親に対してさえ、敬意を払うような社会には、末永い繁栄を約束しておられます。

 いいですか。人を騙したり、お金儲けばかりしたり、強い軍隊を持ち、たくさんのミサイルやコンピュータを持つことで、末永く繁栄すると思っている政治家や政府は沢山あります。経済大国や軍事大国、周囲の国々を支配し、隣国と競い合う動きは、この日本にもあります。しかし、それは間違っているのです。人と人が、力比べをしたり、利用し合ったりするような社会は、決して、幸せな社会にはなれません。心の中に恨みを引き摺っていると長生きは出来ません。実際、豊かそうな国で、多くの人が心を病み、家族が壊れて、おかしくなっているではありませんか。

 私たちはここで会堂に集まり、主イエス・キリストを礼拝し、讃美をささげています。それは、楽しく歌って嫌な人を忘れて、鬱憤を晴らし、またそれぞれの生活に戻っていくためでしょうか。決してそんなことではありません。私たちが讃美する神は、生きておられます。世界を作られ、命を下さり、教会や音楽、そして親や友を下さった、大いなるお方です。そして、私たちを、敗れた人間関係の中で、生かしておられ、そこにおいて神にある「敬う」関係、愛し、愛される関係をもたらすためにお遣わしになるのです。家族が傷を持ち、不器用で、自己中心が最も現れる場所であると認めつつ、そこに自分が置かれている摂理を受け止めさせてくださいます。そのような、全く新しい回復を、私たちを通して始めることが、主の御心なのです。

 主イエス・キリストは、「あなたの父と母を敬え」と言われ、両親やあらゆる人への思いも新しくしてくださるのです。

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ルカの福音書二二章54~62節「ごまかしはおしまい」

2015-08-16 21:54:50 | ルカ

2015/08/16 ルカの福音書二二章54~62節「ごまかしはおしまい」

 

 「戦後七〇年」が経ちました。七十年前、戦争だけでなく、言論や信教の自由も許されない大変な中で、礼拝をしていたクリスチャンたちがおられました。もっとも、日本よりもお隣の朝鮮の方が信仰にシッカリ立って、多くの牧師や信徒が投獄され、殉教されました。迫害や死ぬことも厭わずに、キリストを告白し続けた方は、日本の教会にも全くいなかったわけではありませんでしたが、大勢は、衝突を避けて、お国のために祈り、尽くす道を選んだのです。

 今日の箇所で、ペテロが三度イエスを否認した所を読むときに、命と引き替えにしてでもキリストを告白する、というテーマを重ねて読むことも多いのではないでしょうか。自分も、そんな戦時中や迫害のただ中の時代にあったら、ペテロのように主を知らないと言うのではないか… そんな読み方も間違ってはいないでしょう。けれども、ペテロはこの時、イエスを知らないと言ったのは、殺されることを恐れたからなのでしょうか。イエスの弟子であると言ったら、迫害されるから、勇気が持てなかったのでしょうか。そうではなかったのです。

 オリーブ山で捕まったイエス様に、ペテロは人に紛れてついていきました。でも、この時点で、逮捕に来た人々は、イエスを捕まえる以外、弟子たちも一網打尽にしようというつもりはサラサラなかったのです。ペテロは紛れて、着いていき、大祭司の邸宅に入ることも出来たのですから。そのペテロを、一人の女中が見つけて、見咎めるのですね。

56すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」

57ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。

 もしこの人々に、ペテロや弟子たちを、イエスともども捕らえて罰してやろうという意図があったとしたら、ここでペテロがいくら打ち消した所で、周りが黙ってはおかないと思うのですね。引っ張っていって、尋問や拷問にかけたと思うのです。しかし、そんな動きはなくて、

58しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ」と言った。しかしペテロは、「いや、違います」と言った。

59それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。[1]

 しばらくして、一時間して、と、まるで何か、話題がなくなったからまたペテロをいじって、躍起になって否定するペテロを見て、ニヤニヤ笑っているようでしょう。そして、もしイエスの仲間ならどうなのか。共犯者として捕まえてやろうか。そういう積もりはなくて、ただペテロの正体をネタにして、焦って否定するこのガリラヤ人を面白がっていじっているだけですね。けれども、ペテロはそのからかいに耐えられなかったのです。逮捕され殺されることが怖かったのではありません。イエスの弟子として、名誉の殉教も辞さない覚悟はあったのです[2]。しかし、彼はイエスの弟子であることが笑われ、馬鹿にされることは嫌だったのです。恥ずかしかったのです。英雄としての殉教だったら出来たのかもしれません。でも、この時イエスが無力に捕まって、祭司長たちが勝利したかのようでした。その邸宅の中庭で、イエスの弟子だと名乗ることは英雄的どころか、苦笑されてオシマイでした。だから恥じてごまかしたのです。

 私たちにとって、これはとても身近なことですね。戦時下や迫害の時代に、キリストか死か、どちらかを選ぶというような仮定の話以前に、もっと現実的なことでしょう。クリスチャンであると言ったからって、迫害や殉教の危険があるわけではない。でもそう言うのが恥ずかしい。「ちょっと変わっている」と思われたくない、面倒くさくなるのは止めておこう。言うとしても、気まずくならないよう、「はしくれです」とか「名前ばかりで」などと逃げを打っておいたり、さっさと話題を変えようとしたり… 思い当たらないでしょうか[3]。でもその彼が、立ち返ることが出来たのは、主イエスがペテロに関わってくださったから、ですね。

61主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

62彼は、外に出て、激しく泣いた。[4]

 主がペテロを振り向いて、目が合った、かどうかは分かりません。大事なのは、目が合ったかどうか、ではなくて、主がペテロを見つめて、ペテロが主の言葉を思い出した、という事です。それは、ペテロが自分の忠誠心や信仰深さによってイエスを告白し抜くとか、恥ずかしさや恐れや臆病によって知らんぷりをしたとか、そういうことよりももっと深いキリストご自身の眼差しへの気づきでした。もっと頑張れとか、仕方なかったとか、そんな人間の側の言い訳よりも大きく強い、キリストの、自分に対する関わりに気づかされたことでした。

 このペテロの涙は、何と言ったらいいのでしょうか。情けなさとか申し訳なさとか、赦された有り難さとかキリストの恵みへの感動とか、そんな事よりももっと深い涙なのではないでしょうか。自分では人一倍忠実な弟子を目指していましたし、今は今で嘲られるのが我慢できなくて嘘やごまかしや分からないフリで体裁を繕ってしまいました[5]。そんな取り繕いのもっと根底にある自分を、胡麻化しようのない自分というものを、主イエスは知っておられ、見つめておられ、引き戻してくださいました。その事に気づかされて、魂を揺さぶられたのがこの涙なのではないでしょうか。

 主を裏切った罪悪感や、今まで自惚れてきたことへの恥ずかしさ、そして、そんなペテロを愛してくださる主の恵みもあったでしょう。でも、そこで自己憐憫や「これでもいいんだ」という開き直りに終わらせるのが主ではないはずです。主はペテロを見つめてくださいました。その眼差しは、ペテロの頑なな心を砕き、激しい涙を流させ、その存在そのものを揺さぶり、新しくしてくださいました。この主との関係こそが何よりも大切なのです。ペテロが頑張るとか失敗した、といった、上っ面の胡麻菓子や背伸びをもうオシマイにさせて、取り繕いや気負いのない、主に対する信頼によって再出発させてくださいました。

 私たちも弱い者です。小さな者です。でも、その私たちの脆さや調子の良さも逃げ腰なところも全て知っておられる主が、私たちを見つめておられるのです。私たちを蔑むことも笑うこともなく、私たちを尊び、愛し、私たちが取り繕いがちな価値よりももっと深く真実な価値を、私たちに与えてくださるのです。その眼差しは、私たちにとってどんなに喜ばしいことでしょう。そんな眼差しによる励ましをどれほど必要としていることでしょうか。主は私たちをその眼差しによって見つめ、支え、新しくしてくださいます。

 私たちも、キリスト者だからと大きな顔をする必要もありませんし、頑張って信仰を貫いてやろうという自信も棄てなければなりません。でも逆に、キリスト者であることを恥じたり、遠慮したり、反対や笑われることを恐れたり、面倒臭がったりすることもないのです。そして、私たちもまた、他者を裁かず笑わず、失敗も恐れも恥も受け入れる、主の眼差しを持つようにと、励まされているのです。

 

「主よ。恐れ、裏切ったペテロの心に激しく触れて立ち上がらせたように、主が私たちをも痛みや労苦や試練を通して、ますますあなた様を指し示す存在とならせてください。あなた様が見つめておられる多くの方々の赤裸々な姿から、どれほど教えられ、励まされてきたでしょう。私たちもまた、胡麻菓子や言い訳やプライドを捨てて、自分自身を差し出させてください」



[1] これだって、「ガリラヤ人だからイエスの仲間に違いない」という、かなり乱暴なこじつけです。「関西人だから阪神ファンに違いない」よりも大雑把です。

[2] ペテロはなぜここに来たのでしょうか。主イエスへの愛からではあったでしょうし、勇気を見せたかったとも思えます。特に、「ついて行った(アコリューセオー)」は、ルカで17回も使われる、弟子の動詞です。ここでもペテロは、「ついて行った」のです。しかし、ついて行ったのが「主に」とは記されていません。繋がりで言えば、ペテロはこの時、「彼ら」について行ったのではないのか。もっと言えば、今までも、ペテロは主に従うよりも、自分の美学や自惚れに従っていたに過ぎないとも言えないでしょうか。

[3] そういう時、私たちは、おかしな事にイエスはどんなお方か、ということを抜きに考えています。人からどう見られるか、あれこれ突っ込んで聞かれたら答えられないしややこしい… そういうことにばかり気を回して、肝心のキリストとの関係を見失っているのではないでしょうか。

[4] 「泣く」 ルカで11回(六21、25、七13、32、38、八52、十九41、二三28)

[5] ペテロは、最初は「私はあの人[イエス]を知りません」と言い、次に「いや、違います[私は彼らの仲間ではありません]」と自分を否定し、最後は「あなたの言うことは私にはわかりません」と会話そのものを打ち切っていきます。マタイ、マルコは否定の度合いの強まりを、ヨハネはその事実を(泣いたことは省略)。ルカは、ペテロのセリフを全て記録して、その中身の問題(ペテロの危機)と主イエスの眼差しによる回復を記す。

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