聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問61「主をあなたの喜びとしよう」 イザヤ五八13-14

2015-08-04 22:45:05 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/08/02 ウェストミンスター小教理問答61「主をあなたの喜びとしよう」 イザヤ五八13-14

 

 今日の夕拝では、十戒の第四戒「安息日を覚えよ」の四回目のお話しになります。週に一日を安息日として、神を礼拝することに専念しなさい、というのが第四戒です。仕事や遊びを脇に置いて、神との交わりを楽しみなさい、というのです。ただ、一時間ほどの礼拝に来る、というだけではありません。その日一日を、特別な日として過ごしなさい、と言われています。四回も話すぐらい、この「安息日規定」は、聖書には強調されて、繰り返し書かれています。今日の問六一と六二ではこう言われています。

問六一 第四戒では、何が禁じられていますか。

答 第四戒は、[第一に]この戒めで求められている義務を怠ったり、いいかげんにはたすこと、また[第二に]怠惰や、それ自体罪深いことを行うことにより、あるいは、この世の仕事や娯楽についての不必要な思い・ことば・業によってこの日を汚すこと、を禁じています。

問62 第四戒に付け加えられている理由は、何ですか。

答 第四戒に付け加えられている理由は、[第一に]神が私たち自身の仕事のために一週間のうち六日間を私たちに与えておられること、[第二に]神が第七日に対して特別な所有権を主張しておられること、[第三に]神ご自身の模範、そして[第四に]神が安息日を祝福されたこと、です。

 では、この安息日の「義務」とか「禁止事項」、そして、その理由にある「神の特別な所有権」や「模範」とはどんなことでしょうか。イエス様ご自身が、どのように安息日を過ごされたのでしょうか。教会が、それまで土曜日であった安息日を、日曜日とした転機ともなった最初の安息日に、イエス様は何をなさったのでしょうか。それが、今日一緒に読んだ、「エマオに向かう弟子たちとイエス」が遭われた、ということです。よみがえられたイエスが、弟子たちに近づいて、二人に会ってくださいました。その時まだ弟子たちは、イエスの復活を信じることは出来ていませんでした。十字架さえ、受け入れられずにいました。そして、近づいて来てくださったイエスを見て、その話をずっと聞いていても、それが愛するイエス様だとは気付けなかったのです。そういう二人にイエスは近づかれて、語りかけられました。最後には、彼らとともに食事をして、彼らの前でパンを裂かれた、とルカの福音書には書かれています。そして、イエスの死を受け止めきれず、暗い思いのまま、他の弟子たちから離れて行こうとしていた二人の心は、段々と燃え上がるような心へと変わっていきました。冷たい心が、熱い情熱へと変わりました。それが、キリストとともに過ごした、最初の安息日だったのです。

 レンブラントが描いたのが、この「エマオのキリスト」という一枚です。

 二人の弟子と、宿屋の従業員がいますが、真ん中でキリストが天を見上げておられます。イエスはこの時は弟子たちの方を見てはおられません。天を見上げ、父に感謝を捧げています。その顔が一際輝いています。そして、二人の弟子たちは、そのキリストを見て驚いています。天の神との親しい信頼に、恍惚としているような顔です。しかし、そのキリストとの出会いが、二人の心を明るくしたと言うかのようです。

 この夜、キリストは二人の弟子に何を仰ったのでしょうか。「安息日なのに、どこに行くのだ」と責めたりはなさいませんでしたし、「私への礼拝だけをしていなさい」と縛ったりもなさいませんでした。二人に語りかけ、聖書を開いてご自身について説き明かしてくださいました。弟子たちの心を開いて、俯いていた思いを解きほぐし、燃やしてくださいました。そして、彼らをご自身との食事に招かれて、いのちを与えてくださったのです。それによって、二人の弟子たちは、力や希望や喜びを取り戻したのです。

イザヤ書五八13もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、

14そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う」と主の御口が語られたからである。

 ここでも主が約束しておられるのは、出歩くことを止めて好むことをしない、という規則ではありません。安息日が喜びの日であり、「栄えある日」なのだ、という事です。他の仕事や雑用や、あれもしなくちゃこれもしとかなきゃ、という思いを棚に上げて、主の喜びを戴く必要があるのです。そして、それは私たちにとっての、本当に尊い喜びである、ということです。

 もし、日曜日に礼拝や奉仕に行かなきゃ、とばかり思って、内心「嫌々」とか「渋々」で、喜んだり感謝したりすることがないならば、それこそは、今日の問六一で言われていた「怠惰」や「禁じられている」ことなのですね。日曜日は、キリストが私たちのために、死からよみがえってくださった日です。死や苦しみや、生きていく辛さや苦しみを、すべて味わい知ってご存じであるイエスが、私たちのためによみがえってくださったのです。その方が、今も私たちに近づかれて、私たちとともに語り、私たちとともに過ごし、私たちに食事や全ての必要を下さる。それが、安息日に体験する恵みなのです。

 だから、安息日は、ただ礼拝堂に来て、礼拝のプログラムに参加するというだけではありません。また、午後まで奉仕や伝道活動をみっちりする日でもありません。この日は、主にあって、ともに心から神を讃美して、御言葉に気づかされて、一緒に楽しみ喜び、分かち合いをする日です。言葉で神の愛を言うだけでなく、本当にお互いに神の愛を伝え合う日です。一緒に楽しんだり笑ったりする祝いの日です。そのために、神ご自身が、日曜日を特別な日としておられるのです。

詩篇一六11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち溢れ、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

 普段も、仕事や家族や趣味やTVや、色々な楽しみはあります。その全てをひっくるめたよりも、深い喜び、永久の楽しみが、安息日にはあります。イエスと過ごし、聖書の言葉を分かち合って、深い休みをいただく楽しみは大きいことです。神は私たちに、決して色あせることも、なくなることもない喜びを、安息日毎に与えてくださいます。

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申命記十一章13~21節「心が迷わないように」

2015-08-04 22:39:41 | 申命記

2015/09/02 申命記十一章13~21節「心が迷わないように」

 

 今日は申命記十一章をお話しします。次の十二章から、具体的な律法が与えられていきますから、今日の十一章までが、総論的な話となります。同じような事を繰り返し繰り返して、長々、ダラダラとしつこく言っているようにも思えます。「主の御言葉に聞き従いなさい、主の戒めを守りなさい、他の神に仕えてはならない」と、そればかりを言っているようにも思えます。「そんなに言わなくても、もう分かったから」と言いたい。「モーセさん、あなたこそ心配しすぎですよ。そんなに思い煩わないでも大丈夫ですよ」と言いたくなりそうです。

 もちろんモーセはただ同じ事をくどくどしく繰り返すだけでなく、祝福を強調していますね。

13もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、

14「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。

15また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 後の方の26節以下にも、「祝福と呪い」が語られています。こうした祝福をもって主に従うことを励まし、主に背くなら呪いを招くことも強調した上で、次から具体的な律法が語られていきます。しかし、もし規則と従順の要求だけが与えられて、従えば祝福、従わなければ呪いだ、というのがキリスト教であれば、これはひどい宗教です。脅し、脅迫に他なりません。そういう要求だけが与えられたのではないのです。この十一章2節でもモーセは確認します。

 2きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。

 3これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、

 4また、エジプトの軍勢とその馬と戦車に対してなさったことである。-彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている-

 これが5節6節と続くのですが、この時の聴衆は、ここで言われているように、エジプトでパロ(ファラオ)の奴隷として働かされ、虐げられて、子どもたちを殺され、人間扱いされずに生きてきた時代を知っている人々です。パロが、太陽の子、神の化身として、繁栄を築き上げていた、その足下に不正や暴力がありました。人々は自分を守ることが精一杯で、希望を失い、正義を諦めて、言葉にならない呻きを神に叫ぶしかなかったのです。そういうエジプトに、神はモーセを遣わされました。神は祈りに応えてくださり、パロの生き方にじっくりと挑まれて、パロの生き方に報いられ、完膚なきまでに打ちのめされました。今まで威張っていたパロの支配が、張りぼてでしかなかった馬脚を、神が十分に現してくださいました。けれども、それほどの力と憐れみとを見続けて、味わっても、イスラエルの民はむしろ、神を疑い怒らせることをし続けましたね。

 けれども、主は彼らを憐れみ、怒りつつも、赦してくださったのです。パロのような力尽くの支配や、強制的に服従を命じる恐怖政治ではなくて、愛するわが子として育て、導く、憐れみに満ちた正しい支配が現されました。そういう力強く生々しい御業を、経験し、その目で目撃してきたことがここで再確認され、その上で、その主の命令に従いなさい、その主から離れずに歩みなさい、と言われているのです。「あなたがたのこれからの歩みもまた、自分の豊かさやプライドに突き動かされるのではなく、この聖なる神の栄光を現すようなものでありなさい。生ける真の神だけを礼拝しなさい。不正を退け、人を大切にし、弱者を顧みなさい。悪事を憎み、間違いが起きたらちゃんと対応しなさい。」そう言われていくのです。

 モーセはここで見抜いています。これから、自分が死んだ後、遅かれ早かれ、民は神の恵みを忘れて、自分たちの欲望や目の前の損得に振り回されて、愚かな選択をするようになることを、十分見抜いています。それは、ただ神の命令が厳しくて、窮屈だから息抜きもしたくなる、という問題ではないのです。むしろ、せっかく神が、エジプトの支配から救い出してくださったのに、また、畑の収穫や財産が増え、自分が権力を持つことに心を奪われて、エジプト時代の生き方に舞い戻ってしまう、という逆行なのです[1]。細かいことをグチグチネチネチ言っているのではなく、私たちが、真の神を忘れやすく、恵みの恩を忘れて、自分の生活と、恵み深い神とを切り離してしまいやすいから、教えられる必要があるのです。

16気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。

 私たちの心は迷いやすいのです。どんなに大きな奇蹟を体験しても、どんなに感動的な赦しや憐れみを戴いたとしても、それでも、私たちの心は悲しいくらいに迷いやすく、横道に逸れてしまうのです。神ならぬ神々の囁きに惑わされるのです。この時のイスラエルでさえ迷いました。そして私たちも、偶像崇拝だけでなく、学歴とか出世、収入や生活の安定、結婚、家庭、子ども、恋愛、色々なものに迷います。それ自体は悪くはないものでも、神のように縋(すが)ったり失うまいとしたりするならば、それは私たちの心を必ず病ませ、周りにも悪い影響を与えます。19節20節で、子どもや家に御言葉を教えることが言われます。これも、家庭や子育てというのは、私たちの最もプライベートな所ですから、そこでこそ私たちのホンネが出て来るからですね。聖なる恵みの神を中心とせずに、自分のエゴや勝手な感情や世間の価値観に流されてしまうからです。だから、意識して御言葉を教え、主を中心とすることを意図的にする。子どもたちにとともに、憐れみ深く生きること、正義を行うこと、見えない所におられる神を恐れることを共に覚え続ける。それが、子どもだけでなく、大人や親をも守るのですね。

 次の十二章から具体的な命令に入ります。三千年も前の生活が背景ですから、意味を聞き取りながら、私たちの生活に適用し直したいと思います。でも、それ以上に、モーセがその規則を述べる前に、ここまで十一章もの長い前置きをした、という点を覚えておきましょう。神がどれほど力強く、憐れみ深い方か、を覚えることが大事です。私たちを恐れや虚栄の支配から救い出して、恵みの支配に入れてくださいました。イエス・キリストが来て、十字架にかかり、死んでよみがえった。これは、本当に大きな、測り知れない恵みです。それでも私たちの心は迷いやすい。恵みではない力に憧れ、流され、騙されかねないのです。

 だからこそ、私たちは繰り返して、主の一方的な恵みに立ち返ることが必要です。主の憐れみを静かに思い巡らすことが、私たちの迷いを覚ますのです。社会には迷わせるものが沢山あるからこそ、流されまいとして信頼や希望をもって、正しく愛ある生き方をこの世界にもたらす人に励まされます。今週も主が私たちを、それぞれの場所にお遣わしくださいます。希望をもって出て行きましょう。

 

「天地の主よ。あなた様は、この世界の様々な営みを全て支配して、私たちに従順と祝福を与え、更に、私たちの心を、迷いや恐れやプライドや欺きから救い出してくださるお方です。私たちはあなたの導きを必要としています。あなたの諭しを、あなたの命令を、必要としています。聞かせ続けてください。主が、御言葉によって、私たちの今週の歩みも守ってください」



[1] 申命記十一章には、6節に「ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったこと」とありますが、これは民数記十六章を背景にしています。民数記十六章13節では、ダタンとアビラムが「あなたが私たちを乳と蜜の流れる地から上らせて、荒野で私たちを死なせようとし、そのうえ、あなたは私たちを支配しようと君臨している。…」と言っています。約束の地こそは「乳と蜜の流れる地」なのですが、ダタンとアビラムは、エジプトを「乳と蜜の流れる地」と呼ぶほど、過去を美化しています。これは、東欧の社会主義国家が破綻した後に、経済的状況が思うようにならないと、過去の恐怖政治を忘れて、「昔の方がよかった」と懐かしんだのに似ています。

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