聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二一章20-24節「悟るべきとき」

2015-03-15 17:18:54 | ルカ

2015/03/15 ルカの福音書二一章20-24節「悟るべきとき」

 

 先週、東日本大震災から四年経ちました。新聞に「悲劇を繰り返さない」という記事がありました。震災そのものは防ぎようがないことでした。けれども、あんなに大きな津波だとは思わず、逃げ遅れた人が多くいました。その甚大な犠牲への反省や強い後悔から、「悲劇を繰り返さない」、すぐに高台に逃げる訓練もしている、という記事でした。

 二千年前、イエス様がここで予告されたように、エルサレムが軍隊に囲まれたとき、大勢の住民が、逃げようとしなかった。エルサレムは大丈夫だ。神の都、美しい大神殿があり、神様に選ばれた特別な街なのだから、守られるに違いないと思いました。また、群衆を扇動する預言者たち(偽預言者たち)も神殿に集まれば神様が守り、ローマの軍隊を蹴散らしてくれると説き伏せて、逃げようとした人々を「裏切り者」として処刑したのだそうです[1]

 しかし、イエス様がそれに先立つ四十年ほど前、ここで仰った言葉を受け止めていたキリスト者たちは、エルサレムが軍隊に囲まれた時に、すぐにエルサレムから逃げたと言います。都の中から立ち退き、郊外にいた人も戻ろうとはせずに脱出して、大勢が生き延びたのだそうです。「エルサレム不滅信仰」などには縋(すが)らずに、助かりました。

 確かに、聖書の中にはエルサレムを神の都として歌う詩篇もあります。しかし、その都にさえ留まっていれば何をしていても大丈夫、とは教えられていません。むしろ、神に立ち帰り、御心に従わなければ、それに相応しい報いを受けることになることが、繰り返して教えられているのです。そういう意味でもイエス様は、ここでただエルサレム滅亡の出来事を預言されたという以上に、ユダヤ人たちの不信仰を責めて、心から神に立ち帰ることを求められたのです。

23…この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。

と仰っているのも、ただ不吉な未来を予言されたかったのではなく、心と生き方を悔い改めるよう招くことこそが、イエス様の意図だからです。「エルサレム神殿が立派な建物だ、自分たちはそれを大事にして、犠牲を捧げている、だから大丈夫」。そういう思い込みが、やがて大変な悲劇を招きます。エルサレム神殿こそ聖地であり世界の中心だと、そう思い込む人々の狂信で、「九万七千人が捕虜になり、百十万人が殺された」と伝えられています[2]。物凄い犠牲者です。震災の時にも「安全神話」というものが逃げる足枷になりました。戦時中に日本は「神風」が吹くから負けるはずがないと言っていました。ユダヤでもそうでした。イエス様は、そういう楽観的な「神話」を捨てさせられます。見える生活の安全を信じる信仰ではなく、神様の道に従う信仰、人生の危険を悟って、逃げるべき時には逃げる信仰、を語られます。

 しかし、このような言葉だけを読んで、神様の裁きの恐ろしさ、神様という方への恐怖ばかりを募らせて、それで信仰を持たせることが出来るのでしょうか。イエス様は、そんな恐怖心を煽り立てたいのでしょうか。そうではありません。確かに、エルサレムに立てこもり、「きっと奇跡が起こる」と信じるような見込みは間違っていました。神様は自分を怒られるはずがない、という筋書きは勝手な予想でしかありませんでした。聖書は、主なる神への信仰と従順を求め、それを侮って建物とか形式などに縋る歩みは、滅亡、報復、苦難に至ると教えます。けれども、そんな警告よりももっと素晴らしい約束こそ聖書の福音です。神様を信じて従うことの幸い、素晴らしさ、喜び、力こそ、イエス様の福音が与えてくれる祝福です。

  この天地を造り、今もすべてを治めておられるお方。聖なる神であり、正しい神であり、憐れみ深い神であるお方が、私たちを造られ、いのちを与え、私たちを神の民としてくださいました。御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その十字架の尊い犠牲によって、私たちに新しいいのちを下さいました。主は、この私たちの小さな歩みを教会に集めることを通して、神様の栄光を現してくださいます。一人一人に神様は、深く特別なご計画を持っています。私たちが何か目覚ましいことをするというのではなく、むしろ、見えない所、心の隠れた思いから語りかけ、私たちを変えてくださるのです。それが、イエス様のご計画です。

 私たちは弱く、貧しい者です。けれども主なる神様は、私たちがどんな恥や醜い思い、人間社会では赦されないような過去を持っていたとしても、そこから私たちを救い出し、新しく「神の子ども」として歩み始めさせてくださいます。決して私たちを離れず、私たちを捨てず、神の子どもとして訓練し、成長させ、教え導いて、この地上の生涯を、かけがえのない意味のあるものとしてくださいます。私たちが神様を第一に礼拝しながら生きる時に、福音によって私たちは変えられます。自分の利益や欲望や世間体に従うのではなくて、神様に従った聖い価値観をもって、人を助けたり、愛の言葉をかけたり、正直になり、ともに泣いたりともに笑ったりする。そうして教会が建て上げられていくという神様の、大切なご計画があるのです。

 もし、このような主への信頼なしに、ただ裁きへの恐怖心や、信心の下に憎しみを秘めた動機で、罪を避けるだけ、神様に怒られないような生き方をしようとする、というだけなら、そのような生き方そのものが罪に他ならないと言っていいでしょう[3]。イエス様はそんな窮屈で詰まらない人生を与える救い主ではないのです。自分を神様に明け渡し、御言葉に従う道-自分の人生を自分のためでなく主の御栄光が現されるために捧げていく生涯-そういう歩みに伴って、捨てるもの、失うものは沢山あるのですけれど、その失ったものすべてにまさる恵み、祝福を神様は用意していてくださいます。それをイエス様は、語っておられるのです。

 でも、そのようなイエス様の言葉を聞きながらも、この時の人々も、躊躇(ためら)いました。神殿を隠れ蓑として自分の問題を認めようとしない。どんなに素晴らしい神様からの招きを聞きながらも、それでも人間は今手にしている特権を手放したくない。このまま何とかなるんじゃないか、という筋書きを描いてしまうのです。だからイエス様はこんな厳しい言葉で、強く仰るのですね。その言葉にも、イエス様の憐れみが溢れています。逃げなければ救われませんが、逃げなさい、立ち退きなさい、と言ってくださるのです。逃げても、逃げた先で「あなたは今まで勝手に生きてきたから駄目です。救ってあげることは出来ません」とは断らないのですね。最後の最後で、やっとイエス様のもとに駆け込んだ者をさえ、受け入れてくださるのです。

 とはいえ、その時になって悟ればいいと思っていたら危険ですね。この言葉を聞いている人々、この言葉をともに聞いている今日の私たちに対して、悟りなさいと言われているのです。そうでないと、悟ることさえ先延ばしにしてしまうでしょう[4]。その時に「悟る」ためにも、今から、主の御言葉に応えるのです。イエス様の約束に励まされて、この世界の語る「安全神話」とは違う道を歩むのです。主の裁きの厳粛さをも心に留めつつ、その裁きを避けようとか何とかしようと考えて終始するよりももっと伸びやかに、主に従う生き方、聖い生き方を大切にしていくのです。今日書かれているような滅びが私たちの人生の終わり方であってよいはずがない。余りに勿体ない。そうイエス様が叫ばれた言葉に従おうではありませんか。

 

「正義の主であり救い主なる天の父よ。あなた様が私たちに備えてくださった命の道よりも、見えるもの、見かけに心を奪われやすい私たちを、いつも深く心に語りかけて、見えないあなた様の約束に立ち戻らせてください。主イエス・キリストの贖いによって与えられた豊かな御業に与れるよう、どうぞ私たちを悟らせ、目覚めた者としての歩みを全うさせてください」



[1] 「神殿不滅信仰」というものの根拠になったのは、詩篇四六篇、四八篇、七六篇。イザヤ書やエレミヤ書にも垣間見えるものですが、そこではそのような盲信が間違っていることも強く教えられています。

[2] ヨセフス『古代誌』六420。この数字は大袈裟であろうとも言われますが、それをさっ引いても、相当な犠牲者であったことは間違いないでしょう。

[3] その好例は、ルカ十九20~26で語られていた「一ミナのしもべ」への裁きです。

[4] 「20…エルサレムが軍隊に囲まれているのを見たら、…」とは、「囲まれ始めたのを見たなら」という意味です。囲まれ始めても、まだ大丈夫じゃないか、と思っていて、囲まれてしまってからでは遅いのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問38「神を限りなく喜びとするようになる」

2015-03-08 16:59:30 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/03/01 ウェストミンスター小教理問答38「神を限りなく喜びとするようになる」

                                                        マタイの福音書十章32~33節

 

 よく、「人は死んだら天国に行く」という言い方を聞きます。今日は、それに近い話です。先週は、私たちが死ぬ時にいただく益を見ました。死んですぐに天国に行くのではなく、聖書から私たちが教えられているのは、やがてもう一度イエス・キリストが来られて世界を終わらせなさる。その時に、イエス様はすべての人を復活させられて、永遠の滅びか、永遠の天国に分けられるのですね。今日は、その時のことを話して、復活の時にキリストから受ける「益」を教えられるのです。

問 信者は復活のとき、キリストからどのような益を受けますか。

答 復活のとき信者は、栄光のうちによみがえらされたのち、裁きの日に[キリストのものとして]公に認められ、無罪とされ、また、全くの永遠まで、完全に祝福されて神を限りなく喜びとするようになります。

 イエス様は、約束してくださいました。

ヨハネ十一25…「わたしを(イエス様を)信じる者は、死んでも生きるのです。…」

 イエス様は、私たちをよみがえらせてくださり、いのちを与えてくださるのですね。栄光のうちによみがえらされる、と言われています。

 この言葉を聞いて、こんなことを考えた人がいました。「よみがえるのはいいけれど、もしそれが、栄光のうちにじゃなくて、腐ったままひどい状態でよみがえるならどうなるんだろう?」 そんな想像をしてあの「ゾンビ」の映画が生まれたらしい、という話を聞いたことがあります。本当に、そんな復活ならしない方がましです。人間はいろいろなことを考えますが、神様のご計画はそんなものではないのですね。ただよみがえるだけじゃなくて、神様の素晴らしさの中によみがえらせていただく。だから、希望が持てるのだなぁ、と思わずにおれません。先に読んだ言葉にもありました。

マタイ十32ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。

 イエス様が、私たちを、ご自身のものとして、公に認めてくださるのですね。その逆は、イエス様が私たちのことを認めない。「わたしはあなたのことは知らない」と言われてしまうことです。イエス様はそのような人たちもいると仰いました。

マタイ七23…「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

と言われる人もいる。自分では神様に誉めてもらえる、自分が天国に入れて戴けないなんて事はない、とすっかり思い込んでいた人です。自信満々の人たちでした。しかし、イエス様の御国は、そのように思い上がった人たちの場所ではありません。自分を高くする人ではなく、自分を低くして、神様を崇めて、神様を信じる人たちの国が、神様の御国ですね。だから、神の子イエス様が、「わたしを信じなさい。わたしを信じる者をわたしは決して捨てない。わたしはあなたがたに永遠のいのちを与えるよ」と仰ってくださっていることが有り難いなぁと思うのです。そして、復活のときにはイエス様が、

「わたしはあなたを知っている。あなたはわたしのものだ。あなたはわたしの愛する者だ。さあ、永遠の祝宴にはいりなさい。わたしはあなたのために場所を用意しておいたよ」

 必ずそう言って戴けると約束されているのですね。そして、イエス様はその時だけ、取って付けたように、私たちを認めてくださるのではありません。今も、イエス様は私たちを知っておられ、ご自分のものとしてくださっているのです。ずっと、私たちとともにおられ、愛して、導き、守っていてくださるのです。そして、やがてどんな死に方をして死ぬとしても、終わりの時には、栄光のうちによみがえらせてくださって、公に私たちを認めてくださるのです。

 今日のこの問で、ウェストミンスター小教理問答の前半(教理篇)が終わって、次から後半(生活篇)に入って行きます。教理篇の最後が、この復活のときの「益」です。でも、その後、永遠が始まるのです。あと何十年で私たちは死にますが、よみがえった後は、何十年や何百年や何千年でさえない、永遠の話です。そこから始まる永遠こそが大事で、今この世界のことは振り返ったら一瞬でしかなくなるでしょう。でも、その時のことは、ここでは殆ど触れませんね。それからが始まりなのに、何が起きるか、どんなことが待っているのか、どんな生活をするのか、それはこの教理問答でも聖書でも、あまり詳しくは書いていません。それは、私たちのちっぽけなアタマでは、いくら説明されても、どんなに想像しようとしても、とても分からないくらい、素晴らしすぎる世界だからです。生まれたばかりの赤ちゃんに、幼稚園や小学校のことを話しても分からないでしょう。お腹の中にむかって、出て来た世界のことについて話しても決して分かりませんね。説明するよりも、優しい言葉をかけてあげて、「待っているよ」「大丈夫だよ」と安心させてあげれば十分です。

 神様もそうなのです。私たちに、永遠の御国のことを細々と説明しようとはなさいません。それは私たちには到底想像できない程の大きな、栄光に富んだものだからです。けれどもここに、肝心なことが言われています。それは、

「…全くの永遠まで、完全に祝福されて神を限りなく喜びとするようになります。」

という言葉です。完全な祝福。神を限りなく喜びとする。そういう永遠です。決して退屈などしない。虚しくもない。ガッカリすることも恐れもない。神様を限りなく喜びとする世界だと、楽しみにして、安心して、そして、私たちを公に認めてくださるという約束も信じてよいのです。問1は、

「人の主な目的は、神の栄光を現し、神を永遠に喜びとすること」

だと言っていました。いつか私たちは死に、やがて神様の栄光の中によみがえり、神様を限りなく喜びとするようになる。そのために人間が造られた、本当の目的を永遠に果たすようになるのですね。それは私たちには想像もつかない新しい事です。でも、それは素晴らしい始まりです。私たちを励まし、元気にし、イエス様を信じて従うようにと心を強めてくれます。今から、神様を心から賛美して従う歩みをいただきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカの福音書二一章10~19節「機会となります」

2015-03-08 16:58:01 | ルカ

2015/03/08 ルカの福音書二一章10~19節「機会となります」

 

 イエス様が福音書の中で一番多く命じられている言葉は、「愛しなさい」ではなく、「恐れるな」だそうです。全部で一二五回書かれている命令文のうち、二一回が「恐れるな」で、次に多いのが「愛しなさい」なのですが、それは八回だけだという事です。「恐れるな」と繰り返されたイエス様は、私たちの心が神様以外のものを恐れることから解放してくださるお方です。しかし、その途上にある私たちは、まだまだ、恐れる必要のないものを恐れてしまいます。そして、今日の箇所も「恐れるな」と仰るイエス様のお言葉ですのに、その言葉を聞いてさえ、また心配事を抱え込むような聞き方をしてしまうことが多いのではないでしょうか。

 直接には5節から続いているこの段落は、世の終わりについての質問から始まりました。イエス様は、世の終わりが近いと不安を煽る人にはついていくな、戦争や暴動も必ず起こることであって終末のしるしではない、と言い切られたのです。そして、今日の箇所でイエス様は、民族同士、国家同士の戦いや、大地震や疫病や飢饉や、恐ろしい事や天からのすさまじい前兆を語られますが、それに続いて、12節で言われます。「しかし」。

12…これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

と仰ったのですね。戦争や大災害が起きる。しかしその前に、あなたがたは、イエス様を信じる信仰のために、迫害されたり逮捕されたりするのですよ。世界がひっくり返るような出来事が起きるかどうか以前に、イエス様を信じる信仰に対する挑戦があることに、思いを向けさせようとする。それが、イエス様の仰っているメッセージなのですね。しかも、それもまた、大変だぞ、苦しめられるぞ、と脅して覚悟していなさい、と言っておられるのではないのですね。

13それはあなたがたのあかしをする機会となります。

 迫害や逮捕や裁判も、恐れる必要はない、それがイエス様を信じる信仰を、堂々と証しするチャンスになるのだと、底抜けにポジティブにお語りになるのです。迫害がない、困難は来ないから安心していなさい、とは言われません。むしろ、信仰ゆえの戦いはあるのです。でも、それも悲観したり避けようと願ったりすることではない。それが、信仰を証しする絶好の機会になると思えば良いのだ、と楽観的なのです。「でも、私はそんな証しをすることは出来ません。何を言えばいいか分からないし、怖くて何も言えなくなるでしょう」と思うでしょうか。

14それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。

15どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

 だから、自分は何を言えばいいか分からない、何も言えないに違いない、と考える必要はないとイエス様は約束してくださっているのです[1]。勿論、その時、私が何も考えなくても、イエス様が自動的に、絶妙な弁明を語らせてくださる、という事とは限りません。また、その時に素晴らしい演説をさせてくださって、捕まえた人たちを感心させて、その人たちもイエス様を信じるようになるとか迫害を止めてくれる、という事でもありません[2]。次の16節で、

16しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、

17わたしの名のために、みなの者に憎まれます。

とあるのですからね[3]。イエス様の下さる証しの言葉で切り抜けるとは保証されません。

18しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。

 髪の毛一筋、というのは「ほんの僅かなものも」を指す言い方です。そうでないと、中には殺される者もあると言われていたのに、髪の毛だけは失われないのか。また、命は失っていなくても、髪の毛を失っている人はどうなのか、という疑問が出て来ますから、そういう事ではないのです。迫害されて、逮捕されて、家族からもみんなからも憎まれて、殺されたり、そうでなくても沢山のものを失ったりする事がある。それでも、やがて私たちの人生を振り返る時、「髪の毛一筋さえ失わなかった」と言えるような、失ったと言わなければならないものなど何もなかったと、心から言わせて戴けるような、そういう歩みをイエス様は約束してくださっているのです。このイエス様の言葉が向けられた人々も私たちも、失うこと、将来に対する心配に、必要以上に恐れを抱いてしまいます。でもイエス様は、エルサレム神殿さえ含めたすべてのものが最後には崩れ去る事、私たちが永遠にすがることの出来るものなどこの世界にはないことをハッキリとお語りになります。そして、失うことを恐れない生き方だけでなく、その失うこと、苦難や不幸が、むしろ「機会(チャンス)」となって、証しがなされる。神様の助けを味わい知る。何も失わなかったと言えるような思いをさせていただけるのだ、とまで仰っているのです[4]

 皆さん。これが、イエス様が私たちに語ってくださっている、イエス様を信じる者に与えられたストーリーです。私たちが思い描き、神様に期待しやすいのは、失う事なく守られるという展開(ストーリー)です。自分の生活も立場も、人々からの評価も命も、守られて安泰であることを期待します。けれども、それは夢です。人生はいつも失うことと隣り合わせですし、最後にはすべてが焼かれる死を迎えるのです。イエス様は、そのような人生を変えるとは仰いません。そうではなく、いつかは失うものを失う事を恐れる生き方を変えて、イエス様を信頼する生き方へと導いてくださるのです。

19あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。

 これも、忍耐のない人は勝ち取れない、とか、「私は忍耐強くないから駄目だ」と考えないでください。忍耐とは我慢強さのことではありません。イエス様を信頼し続けることです[5]。必ずいのちを勝ち取らせてくださるのだから、主イエスを信じ続けなさい、ということです[6]。迫害や天変地異や人生の大変化にあっても、それで諦めたり投げ出してしまったりしてはならない。主が、私たちを助け、逆境をチャンスとし、知恵ある言葉も、死さえも恐れない勇気も下さる。そう信じて、耐え忍ぶことの幸いを仰るのです[7]

 イエス様が語っておられる道は、厳しいようでいて、それ以上に明るく、希望があります。恐れて尻込みするような状況も、むしろ絶好のチャンスとされ、必要な助けは神様が下さるのです。その過程では、悲しみがあり、恐れるでしょう。忍耐を支えとしなければやっていけない時もあるでしょう[8]。けれども、そうした私たちの心の揺れ動きも含めて、主はここで私たちに約束しておられます。私たちが通るすべての事が働いて、本当の私たちのいのち、見えるものや家族や社会的な立場に寄らないいのち-殺されて死んでもその先に与えられる、自分の「いのち」を勝ち取るのです。主を信じる私たちの道筋は、今も、これからも、どんな事が起きても、希望と意味がある道であることを約束して、私たちを励ましてくださっています。

 

「主よ。あなた様の語ってくださる確かな言葉に、今、私たち一人一人が力を得て、あらゆる恐れから解放された、明るさを戴くことが出来ますように。助けを下さい。願わないことも、そのことを機会として、あなた様の栄光が現されることを信じて進ませてください。小さな私共が、あなた様への信頼をもって生きる姿を通して、あなた様を証しする存在としてください」



[1] これは、十二11ですでに言われていたことです。「また、人々があなたがたを、会堂や役人や権力者などのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配するには及びません。12言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」

[2] 憎まれる、と明言されています。キリスト者としての道は、喜びや人との協調ばかりではありません。家族に裏切られ、みんなに憎まれることも想定させられています。この点、日本では、キリスト者の歩みが、「犠牲を惜しまずに愛することであり、そうすれば、必ず、相手の心は動かされる」という、非聖書的なイメージが一人歩きして、すり込まれていることを感じます。殉教を恥じ、「嫌われることを恐れる」キリスト者が多いのです。その事に自覚して、聖書の示す方向に修正されることが必要です。

[3] この好例は、ルカが続けて記す「使徒の働き」に多数見ることが出来ます。六章七章のステパノの弁明は、確かに、知恵に満たされ、ステパノの顔を輝かせ、反論の余地をなくさせましたが、それでも議会の人々はステパノを憎み、彼を最初の殉教者として石打に処したのです。その他、ペテロ、パウロとシラスたちの受けた苦難、弁明の機会などが読めます。言い換えれば、このルカ二一章の主イエスの予告は、すでに使徒の働きの中で成就していきます。そして、それから二千年近くが経っている通り、終末の前兆の「大艱難時代」ではありませんでした。

[4] こうは言われても、「そんな恐ろしい状況には自分は堪えられない」と考える人は多いでしょう。それこそ、その時には主が助けて下さるのであって、私たちの側の準備にはよらないのです。そして、その方を、今、信じる事。今も、主のみを信じ、恐れ、証しする使命があるのだと心得ること。この世の賞賛と恥、憎しみ、苦難、死を越えた価値観に、今、生かされ始めること。それが、今日聞きたい事です。私たちは「今のこの程度のことでも駄目なのだから、もっと大変な目には絶対無理」と考えます。しかし主は、「もっと大変なときにも助けてあげるから、今のことにも信頼して誠実に当たりなさい」と仰せになっています。

[5] 「忍耐」とは、辛抱ではなくて、「新約では、最大の試練と苦難によっても自己の考える目的と信仰信心への忠誠から外れない人の特性」です(グリム・セイヤー)」榊原康夫『聖書講解 ルカの福音書』三八八頁)また榊原氏は、この「忍耐」が「ギリシャ語訳旧約聖書では、「望み」の訳語。「主イエス・キリストへの望みの忍耐」(Ⅰテサロニケ一・三)参照」と注を付しています(同三九〇頁)。

[6] もっと積極的に、新共同訳が訳すように「忍耐によっていのちを勝ち取りなさい」という命令でもあります。

[7] 忍耐において、と強調されています。この忍耐、耐え忍ぶ信仰がこの段落で、強調されていることに気づきます。すぐに「終末だ、おしまいだ」と騒ぐのではなく、不安に将来を見通すのではなく、待つこと、信じること。しかし、すべきことをせずにただ主の最善にすがりつく、のでもありません。また、「我慢は美徳」という日本人的な発想でもないことも付言しておきます。

[8] 主は、この世界の苦しみや罪の底にまでも降りて、苦しむ人々とひとつとなってくださった方です。その主イエスについていくことは安楽を保証される道ではなく、私たちも又、あらゆる起こりうる苦しみを厭わない人生なのです。そしてそこで起きる痛ましい出来事を味わい知るのですから、ただ楽観的に受け止めるのでもありません。無感覚にではなく、その悲しみ、苦しみ、うめきをも味わい、通らされるのです。家族にも裏切られ、いのちを奪われ、心張り裂ける思いをしながらも、それでも、最終的には、「髪の毛一つ失わなかった」と振り返ることが出来る人生。それが、ここで語られています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記六章「信仰の継承」

2015-03-02 22:07:31 | 申命記

2015/03/01 申命記六章「信仰の継承」

 

 主イエス・キリストが、「すべての命令の中で、どれが一番大切ですか」と聞かれて、

マタイ十二29-30「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』…」

と仰いました。それが書かれていたのが、今日の申命記六章、4節5節です。一番大切な律法、神様の命令の一番中心にある柱とも言える言葉を、今日ご一緒に聞きました。特に、これはユダヤ人の間では「シェマー」(聞け)と呼ばれて、最重要な言葉とされてきたものです。約束の地に入り新しい生活を始めようとするに当たって、モーセがイスラエルの民に告げた申命記において、この言葉は主の民に対する中心的な御心を簡潔に、そして力強く言い表しています。

 そして、この申命記六章で分かるのは「主を愛する」ことの中身です。6節以下の戒めによって、

「主を愛する」

ことを更に具体的に言い直していたことに気づきます。主を愛するというだけだと漠然とし過ぎていて、掴み所がなかったり、感傷的に捕らえるだけで終わってしまったりするかもしれません。しかし、モーセはここでハッキリと、具体的に教えている。

「心に刻みなさい(6)」
「子どもたちに教え込みなさい[1]、いつも唱えなさい(7)」
「主を忘れないようにしなさい(12)」
「他の神々に従ってはならない(14)」
「主を試みてはならない(16)」。

 飛ばし飛ばし読みましたが、そういうことが、「主を愛する」行為ですね。勿論、そういうことをしてさえいれば、主を愛することになるわけではありません。主への愛もなしに、義務を果たしてさえいればいい、ということではありません[2]。でも、主を愛しています、と言いながら、主の命令を行おうともしない、子どもに教えることもない、主を忘れ、他の神々にも従い、調子がよいと主を忘れ、調子が悪いと主を試そうとしはじめる。そんなことはおかしな話です。こうした言葉は、主を愛するという最も大切な戒めが、生活に根ざしたもの、具体的なもの、私たちの生き方全般を方向付けるものなのだ、と改めて教えてくれるのです。

 しかし、もっと大事なことがあります。ここで言われているのが、律法を守り行うこと、主を愛するという根本的な命令であるにしても、私たちが何かをすることが大事なのだ、と読んでいるとしたら、聖書の反面しか読んだことにはなりません。それ以上に大事なのは、私たちが主の御業の中にいる、という事です。申命記についての本の中で、ストーリーという言い方をしていました。物語、歴史、筋書き、あるいは旅路と言い直せるでしょうか。それが、最も大切な戒めの最初に言われているのです[3]

 4聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。[4]

 主が私たちの神。私たちの神となってくださった事実。それが大事なのです。主は、彼らを奴隷の国エジプトから連れ出してくださいました。そして、ここまでも彼らを真実に導き、今、新しい地に入らせ、戒めを与えられます。それは、ただ従うことを要求されるのではなく、

 3イスラエルよ。聞いて、守り行いなさい。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたの父祖の神、主があなたに告げられたように、あなたは父と密の流れる国で大いにふえよう。

と幸せと繁栄、祝福を用意されているお方です。

 また、10節では、イスラエルの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた出来事を思い出させられていますね。16節では、出エジプト記十七章に語られている、マサで主を試みた出来事が思い出させられています。再三にわたって主を試みたこと、モーセを殺しそうになったこと、でもそこで主が彼らを滅ぼさずに、ご自身を打たせることによって、水を与えてくださったこと。その出来事を思い出すように言われます。これは、ただその出来事を教訓として思い出して、試みないように、という以上に、その出来事を通ってきた物語(ストーリー)の中に自分たちがあることを覚えるということです。

 20節以下でもそうです。後の日に息子から質問された時に、どう答えるのでしょうか[5]

21…「私たちはエジプトでパロの奴隷であったが、主が力強い御手をもって、私たちをエジプトから連れ出された。

22主は私たちの目の前で、エジプトに対し、パロとその全家族に対して大きくてむごいしるしと不思議とを行い、

23私たちをそこから連れ出された。それは私たちの先祖たちに誓われた地に、私たちを入らせて、その地を私たちに与えるためであった。

24それで、主は、私たちがこのすべてのおきてを行い、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日(こんにち)のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。

 このように、物語を、自分たちの原点である出来事を、教えるようにと言われるのですね。ただ義務や道徳を教えるのではありません。「規則を守りなさい、礼拝を守り、暗唱聖句をし、献金をしなさい、それが神様の御心だよ」と教えるのでもありません。「神様は唯一で、偶像を拝むことは罪だ」という教理や知識以上のものです。そうした知識や規則、真理や義務ばかりで、神様の御業(物語)が抜け落ちていると全く意味が違ってきます。

 世界を創造された神様が、ご自身に反逆した人間の中から、アブラハムに始まる神の民を選び、エジプトから救い出し、約束の地に導いてくださいました。その旅路で、マサだけではなく民は何度も逆らって、主を悲しませ、怒らせてきましたが、主はなおも民を導き、行くべき道、なすべきことを示して、幸いへの道を語りかけ続けるのです。更に、この千五百年後、今から二千年前、主ご自身が、この世に来られ、人となり、十字架に掛かって私たちの罪を背負って死なれ、よみがえり、天に上り、聖霊を注いでくださいました。そして、今、私たちがここにおり、この聖書の約束、契約に与っています。神様の民の長い大きな物語に加えられて、歩んでいます。主は、私たちに祝福を注いでくださり、幸せを与えようと導かれています。

 その旅路で、私たちも、祝福を受けていても主を忘れてしまうような勝手な者です。他の神々、力、意見に惑わされて、真の神、生ける真実な愛の神に背を向けてしまうこともあるほど愚かです。生きていく上での困難、悲しみ、紆余曲折があります。主を試みそうになる戦い、主ならぬものに従いたくなる誘惑は付き物です。聖書そのものが、神の民の物語(歴史)をそのような旅路として描いています。今の私たちの、小さな歩みも一つ一つが丸ごと、神の民の歴史の一部であって、そこで私たちが主の御声に聞き従うこと、主を愛することに立ち戻らせていただく物語なのです。そして、最後には、主が幸せを備えてくださっているのです。そのことを忘れないようにしましょう。そして、私たちを愛しておられる主を愛しましょう。

 

「天地万物の造り主であり今もこれを支え、やがては完成される主よ。そのあなた様の大いなる物語の中に、今私たちは歩んでいます。エジプトから民を救い、十字架と復活を成し遂げられた主が、私たちをも捕らえてくださった、その確かな恵みを感謝します。あなた様の愛に全身全霊で応え、幸いの完成を信じて、置かれた場での歩みを続けさせてください」



[1] 「子どもによく教え込む」は、「子どもが信仰を持たなければ信仰者として失格である」という誤解と混同しないでください。相手が聞くかどうかはまた相手の責任だから、受け継がなかったからと言って親の責任や失敗ということではありません。しかし、親としては、子どもに対して信仰を要求する一方ではなく、自分自身が主を忘れず、試さない、という信仰の一貫性が必要でもあることもここから教えられるポイントです。

[2] 「重要なのは、「従順」という言葉は、神と私たちの関係を表現するものだということです。神が私たちに求めておられる事を聞き、それから応答するのです。子供が親の声に応答するように、私たちも神に聞き従って正しい事を行います。/なぜ従うべきなのでしょうか。聖書は、「従うべきだから」というお決まりの堂々巡りの答を与えるのではなく、さらに踏み込んで私たちの真の姿に触れていきます。従順とは、私たちを成熟させる訓練の枠組みであり、それ自体が目的なのではありません。…[申命記五33、六24、十13を引用]…神が私たちに正しい事をさせたいと思うのは、それによって私たちが成長するためです。…神の指導は、私たちが神のやり方を学ぶことを目的としています。それによって私たちが神に似た者となっていくためです。」(ヘンリ・クラウド、ジョン・タウンゼント『信仰の成長を阻む12の誤解』264-266頁)

[3] 「このように、イスラエルの神信仰は、抽象的な公式によって表現されることなく、神のダイナミックな御業をもって描かれるのである」Thompson, Deuteronomy, TOTC, pp.126。 「律法が規則だというのは、その反面理解でしかない。規則と同じように重要で、規則以上に根本的なものがある。律法のもう一面とは規則ではなく物語(ストーリー)である。…十戒は申命記五6において、物語の要約をもって始まる。」Thomas W. Mann, Deuteronomy, Westminster Bible Commentary, p.49。今日の説教の構造は、上記の注解者に気づかされた視点を多用しています。

[4] 訳し方を吟味する注解書が多い。唯一神論が言いたいのではない、という。「主は「一」なる方」とも。その「一」は上からの統一ではなく、愛による人格的な一致である。

[5] 「教理問答」教育に見えますが、よくある「親が問い、子どもが答えられるようにする」のとは逆になっていることに注意しましょう。親が子どもに「模範解答」を教え込むのではなく、子どもには問わせて、親が答える準備をしておく、と言われています。それが親の責任です。その時にも、道徳や抽象的な教理ではなく、聖書のストーリーをもって答えるのです。力強い、現実的な、リアルな出来事、生きて働き、この世界を、約束に従って導かれるお方を信じ、伝えるのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする