2014/08/17 ルカ18章15~17節「子どものように神の国を」(#460)
15イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。…
という、とても麗しい情景から始まります。しかし、
…ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
子どもに触ってもらって祝福を願うことは、当時の習慣でしたから、それ自体を軽視したのではないでしょう。恐らく弟子たちは、この時のイエス様のお疲れとか、エルサレムに向けて真っ直ぐに進んで行かれる重々しさなどから、イエス様を気遣って、子どもたちを連れて来る親たちを叱ったのでしょう。「イエス様は、それどころじゃないんだ」ということです。
16しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。…
イエス様は、子どもたちを連れて来る親たちを呼び寄せられます。神の国は、このような者たち(子どもたち)のものだと仰います。この「幼子」とある言葉は「赤ん坊」とか「胎児」とも訳されることがあって、本当に小さな子どもも含まれていたのです[1]。その子どもたちがイエス様の祝福に与ることは、止めてはならないし、連れて来なければならない、と仰いました。彼らは、まだイエス様の福音や説教を聴いても、サッパリ理解できないでしょう。献金や奉仕をすることも出来ません。自分で祝福を求めに来ることさえ出来ないので、連れてきてもらうしかない幼子たちです。でも、その子どもたちがイエス様のもとに連れて来られて、祝福に与れるようにすることは、止めてはならない、イエス様の命令なのです[2]。
けれどもイエス様はさらに仰います。
17まことに、あなたがたに告げます[3]。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。
決して神の国に入ることが出来ない、という言い方はそうそう使われません[4]。でも、イエス様はそれを、子どものように神の国を受け入れる者でなければ、と仰るのです。では、
子どものように神の国を受け入れる
とはどういうことでしょうか。子どものように、純真で、無垢で、かわいらしくなれ、ということでしょうか。子どもは天使のようで、罪がない、ということでしょうか。いいえ、子どもも罪がありますし、私たちが罪のない人間になることも無理です。神の国は、子どもたちのようなものだと言われるのも、子どもに神の国に入る資格があるからではありません。彼らは、連れて来られるから、呼び寄せられるから、イエス様のところに行く事が出来るのです。
前回見た、「パリサイ人と取税人」の喩えは、何と言っていたでしょうか[5]。自分が他の罪人のような罪深い生き方をせず、断食やささげ物も熱心に行っています、と自慢したパリサイ人は義とされませんでした。罪人の私をあわれんでください、と祈るしかなかった取税人は、義とされて帰ったのです。自分には神様に受け入れて戴く資格があります、と胸を張った善人は低くされます。自分には全くその資格はありません、と胸を叩いて憐れみを乞うだけだった罪人は、受け入れて戴けました。これが、子どものように神の国を受け入れる者だ、と繋がっているのです[6]。
まだ知恵のつかない、小さな子どもがモノをもらう時、自分の権利を主張するでしょうか。自分の方がちゃんとやってきたからとか、母親を喜ばせたらおっぱいがもらえると考えるでしょうか。そんなことはしませんね。ところが段々と知恵がつき、大人になるに従って、人は自分の権利とか資格とかを考え始め、周りと自分を比較しはじめます。神様の恵みを戴きながらも、自分の相応しさとか見せかけを取り繕ったりし始めます。そういう人間に対してイエス様は仰るのです。自分の方が相応しいと言いたがっても、神の国に入ることは出来ない。自分を低くする者、子どものように神の国を受け入れる者だけが、神の国に入ることが出来るのだよ。そう仰ったのです。
だから私たちは、子どものように、可愛くなろう、純粋になろう、初々しくなろうなどとするのではないし、自分はそんな純真な人間には今更なれないと言って投げ出すのでもありません。私たちの側に、相応しさを持て、ということではないのです。自分の中に相応しさなど一切ないからこそ、子どものように、図々しく、厚かましく、連れて来られた者、呼び寄せていただいた者として、神の国を受け入れればいいのです[7]。
ところで、幼子たちは、そのような教えの「サンプル」としてだけここにいたわけではありません。実際にイエス様は幼子たちを祝福されたのであり、神の国はこのような者たちのものだと言われたのです。幼子は、本当に神の国に入れられていること、親たちは自分の子どもたちをイエス様のもとに連れて来るよう命じられていることを覚えましょう。幼くして亡くなった子どもたちは、イエス様によって神の国に呼び集められている、とさえ仄めかされています。それは、子どもにはまだ罪がないという意味ではなくて、イエス様が招いて下さるゆえに、です。イエス様を信じることが出来て、イエス様のもとに来ることが出来るようになっても、まだ、信じようともせずイエス様に行こうともしなくても、誰でも救われる、ということではありませんよ。でも、まだ信じる力も理解力も持つ前に死んだ場合、信仰がなかったから救われない、という事ではないでしょう。その時その時に相応しく、神様は一人一人に働いて、その歩みを祝福し、導いて、御国に招いておられるのです。
素朴な感想ですが、この時イエス様に触って戴いた子どもたちは、その後どんな成長をしたのかなぁ、などと考えてしまいます。ただの儀礼的な祝福ではなかったはずです。イエス様の祝福です。手を置いて戴いたその祝福の力が、子どもたちの人生にどう現れたのかな、などと想います。でもイエス様の祝福とは勿論、病気にならないとか商売が繁盛するとかお金持ちになる、といった祝福ではなく、イエス様に従う祝福、愛するために自分を捧げる祝福、教会のために苦しみや辱めを受けるという祝福だったに違いありません。
けれども、それは、その子どもたちだけの特権ではありません。イエス様は、この子どもたちだけでなく、大人たちにも語っておられます。祝福を拒まれてはならない存在として、私たちも神の国を求めるべきことを教えておられます。
それならば、私たちは今、ここで、自分の中に相応しさが全くないのだけれども、イエス様の元に行って祝福をいただくことが出来ると、素朴に信じてよいのではありませんか。この時ここで、触って戴いた幼子たちと変わらない、祝福を戴いていると約束されています。幼子の時から、主が私を祝福しておられて、今日まで導かれてきたのです。悲しみや困難があっても、罪や失敗を重ねて、
「私をあわれんでください」
としか言えない人生であったとしても、それは天の御国を受け取るための準備、祝福でした。そして、ますます、この憐れみに満ちた方、私たちを無償で招いて下さる方を、この方にある慰めと祝福を証しする人生であることを確かめるのです。
「幼子を集めたもう主が、私たちをも呼び寄せ、祝福し、神の国への旅路を踏み行かせてくださいます。いよいよ傲慢を捨てて、幼子のようになるために、この人生を導いてくださっています。どうぞ、幼子も大人も、共々に主によって招かれた幸いに喜び合う歩みを重ねさせて下さい。赦されて、恵みによって立ち上がれる祝福の交わりを、ここにますます現して下さい」
[1] 幼子 NIV babies。16節の「幼子たち」はautaで「彼ら」。
[2] 九46-48では、誰が偉いか、と論じ合う弟子たちに、神の国では子どもを受け入れる者が一番偉い、と言われた。ここでは、神の国に入る者は子どものように神の国を受け入れなければならない、と。
[3] 「まことにあなたがたに告げます。」も、旧約の預言者の言い方を受けた、強い言い回し。ルカでは6回。四24、十二37、十八29、二一32、二三43。
[4] 「決して御国に入れない」ルカではここだけ。マタイは五20「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、」、十八3「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」の二回。(マルコ十15は平行記事)。黙示録二一27「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。」
[5] 九51以来、ルカ独自のエピソードが続いていたが、ここでまた、マタイ・マルコと合流。むしろ、これまでが、この結論に至るための脱線・説明? そう考えると、10章からのエピソード全体が、ここに集約されているとも言える。
[6] 次回の「富める青年」の教えにもつながっていく。彼は、神の国に入ろうとしない。入れなかったのではなく、入ろうとせずに悲しむのだ。
[7] 「もし子どもたちが神の国に属するあらゆる特質(謙遜、自らを任せること、信じること、愛等)をもっているとしたら、彼らは神の国を受けるに値する者ということになり、イエスが指摘した内容を全く否定することになってしまう。幼年者たちは何も持たずに来るから、受けるのである。それを聞き、またそれを述べるだけで充分なのだ。」(F・B・クラドック『現代聖書注解 ルカによる福音書』(宮本あかり訳、日本キリスト教団出版局、1997年)351頁)