聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカ18章15~17節「子どものように神の国を」

2014-09-06 18:44:47 | ルカ

2014/08/17 ルカ18章15~17節「子どものように神の国を」(#460)

 

15イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。…

という、とても麗しい情景から始まります。しかし、

…ところが、弟子たちがそれを見てしかった。

 子どもに触ってもらって祝福を願うことは、当時の習慣でしたから、それ自体を軽視したのではないでしょう。恐らく弟子たちは、この時のイエス様のお疲れとか、エルサレムに向けて真っ直ぐに進んで行かれる重々しさなどから、イエス様を気遣って、子どもたちを連れて来る親たちを叱ったのでしょう。「イエス様は、それどころじゃないんだ」ということです。

16しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。…

 イエス様は、子どもたちを連れて来る親たちを呼び寄せられます。神の国は、このような者たち(子どもたち)のものだと仰います。この「幼子」とある言葉は「赤ん坊」とか「胎児」とも訳されることがあって、本当に小さな子どもも含まれていたのです[1]。その子どもたちがイエス様の祝福に与ることは、止めてはならないし、連れて来なければならない、と仰いました。彼らは、まだイエス様の福音や説教を聴いても、サッパリ理解できないでしょう。献金や奉仕をすることも出来ません。自分で祝福を求めに来ることさえ出来ないので、連れてきてもらうしかない幼子たちです。でも、その子どもたちがイエス様のもとに連れて来られて、祝福に与れるようにすることは、止めてはならない、イエス様の命令なのです[2]

 けれどもイエス様はさらに仰います。

17まことに、あなたがたに告げます[3]。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。

 決して神の国に入ることが出来ない、という言い方はそうそう使われません[4]。でも、イエス様はそれを、子どものように神の国を受け入れる者でなければ、と仰るのです。では、

 子どものように神の国を受け入れる

とはどういうことでしょうか。子どものように、純真で、無垢で、かわいらしくなれ、ということでしょうか。子どもは天使のようで、罪がない、ということでしょうか。いいえ、子どもも罪がありますし、私たちが罪のない人間になることも無理です。神の国は、子どもたちのようなものだと言われるのも、子どもに神の国に入る資格があるからではありません。彼らは、連れて来られるから、呼び寄せられるから、イエス様のところに行く事が出来るのです。

 前回見た、「パリサイ人と取税人」の喩えは、何と言っていたでしょうか[5]。自分が他の罪人のような罪深い生き方をせず、断食やささげ物も熱心に行っています、と自慢したパリサイ人は義とされませんでした。罪人の私をあわれんでください、と祈るしかなかった取税人は、義とされて帰ったのです。自分には神様に受け入れて戴く資格があります、と胸を張った善人は低くされます。自分には全くその資格はありません、と胸を叩いて憐れみを乞うだけだった罪人は、受け入れて戴けました。これが、子どものように神の国を受け入れる者だ、と繋がっているのです[6]

 まだ知恵のつかない、小さな子どもがモノをもらう時、自分の権利を主張するでしょうか。自分の方がちゃんとやってきたからとか、母親を喜ばせたらおっぱいがもらえると考えるでしょうか。そんなことはしませんね。ところが段々と知恵がつき、大人になるに従って、人は自分の権利とか資格とかを考え始め、周りと自分を比較しはじめます。神様の恵みを戴きながらも、自分の相応しさとか見せかけを取り繕ったりし始めます。そういう人間に対してイエス様は仰るのです。自分の方が相応しいと言いたがっても、神の国に入ることは出来ない。自分を低くする者、子どものように神の国を受け入れる者だけが、神の国に入ることが出来るのだよ。そう仰ったのです。
 だから私たちは、子どものように、可愛くなろう、純粋になろう、初々しくなろうなどとするのではないし、自分はそんな純真な人間には今更なれないと言って投げ出すのでもありません。私たちの側に、相応しさを持て、ということではないのです。自分の中に相応しさなど一切ないからこそ、子どものように、図々しく、厚かましく、連れて来られた者、呼び寄せていただいた者として、神の国を受け入れればいいのです[7]

 ところで、幼子たちは、そのような教えの「サンプル」としてだけここにいたわけではありません。実際にイエス様は幼子たちを祝福されたのであり、神の国はこのような者たちのものだと言われたのです。幼子は、本当に神の国に入れられていること、親たちは自分の子どもたちをイエス様のもとに連れて来るよう命じられていることを覚えましょう。幼くして亡くなった子どもたちは、イエス様によって神の国に呼び集められている、とさえ仄めかされています。それは、子どもにはまだ罪がないという意味ではなくて、イエス様が招いて下さるゆえに、です。イエス様を信じることが出来て、イエス様のもとに来ることが出来るようになっても、まだ、信じようともせずイエス様に行こうともしなくても、誰でも救われる、ということではありませんよ。でも、まだ信じる力も理解力も持つ前に死んだ場合、信仰がなかったから救われない、という事ではないでしょう。その時その時に相応しく、神様は一人一人に働いて、その歩みを祝福し、導いて、御国に招いておられるのです。

 素朴な感想ですが、この時イエス様に触って戴いた子どもたちは、その後どんな成長をしたのかなぁ、などと考えてしまいます。ただの儀礼的な祝福ではなかったはずです。イエス様の祝福です。手を置いて戴いたその祝福の力が、子どもたちの人生にどう現れたのかな、などと想います。でもイエス様の祝福とは勿論、病気にならないとか商売が繁盛するとかお金持ちになる、といった祝福ではなく、イエス様に従う祝福、愛するために自分を捧げる祝福、教会のために苦しみや辱めを受けるという祝福だったに違いありません。
 けれども、それは、その子どもたちだけの特権ではありません。イエス様は、この子どもたちだけでなく、大人たちにも語っておられます。祝福を拒まれてはならない存在として、私たちも神の国を求めるべきことを教えておられます。
 それならば、私たちは今、ここで、自分の中に相応しさが全くないのだけれども、イエス様の元に行って祝福をいただくことが出来ると、素朴に信じてよいのではありませんか。この時ここで、触って戴いた幼子たちと変わらない、祝福を戴いていると約束されています。幼子の時から、主が私を祝福しておられて、今日まで導かれてきたのです。悲しみや困難があっても、罪や失敗を重ねて、

「私をあわれんでください」

としか言えない人生であったとしても、それは天の御国を受け取るための準備、祝福でした。そして、ますます、この憐れみに満ちた方、私たちを無償で招いて下さる方を、この方にある慰めと祝福を証しする人生であることを確かめるのです。

 

「幼子を集めたもう主が、私たちをも呼び寄せ、祝福し、神の国への旅路を踏み行かせてくださいます。いよいよ傲慢を捨てて、幼子のようになるために、この人生を導いてくださっています。どうぞ、幼子も大人も、共々に主によって招かれた幸いに喜び合う歩みを重ねさせて下さい。赦されて、恵みによって立ち上がれる祝福の交わりを、ここにますます現して下さい」



[1] 幼子 NIV babies。16節の「幼子たち」はautaで「彼ら」。

[2] 九46-48では、誰が偉いか、と論じ合う弟子たちに、神の国では子どもを受け入れる者が一番偉い、と言われた。ここでは、神の国に入る者は子どものように神の国を受け入れなければならない、と。

[3] 「まことにあなたがたに告げます。」も、旧約の預言者の言い方を受けた、強い言い回し。ルカでは6回。四24、十二37、十八29、二一32、二三43。

[4] 「決して御国に入れない」ルカではここだけ。マタイは五20「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、」、十八3「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません」の二回。(マルコ十15は平行記事)。黙示録二一27「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。」

[5] 九51以来、ルカ独自のエピソードが続いていたが、ここでまた、マタイ・マルコと合流。むしろ、これまでが、この結論に至るための脱線・説明? そう考えると、10章からのエピソード全体が、ここに集約されているとも言える。

[6] 次回の「富める青年」の教えにもつながっていく。彼は、神の国に入ろうとしない。入れなかったのではなく、入ろうとせずに悲しむのだ。

 

[7] 「もし子どもたちが神の国に属するあらゆる特質(謙遜、自らを任せること、信じること、愛等)をもっているとしたら、彼らは神の国を受けるに値する者ということになり、イエスが指摘した内容を全く否定することになってしまう。幼年者たちは何も持たずに来るから、受けるのである。それを聞き、またそれを述べるだけで充分なのだ。」(F・B・クラドック『現代聖書注解 ルカによる福音書』(宮本あかり訳、日本キリスト教団出版局、1997年)351頁)

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ルカ18章9~14節「自分を高くする者は低くされます」

2014-09-06 18:40:24 | ルカ

2014/08/10 ルカ18章9~14節「自分を高くする者は低くされます」(#525)

 

 今日もイエス様の例え話を聞きましょう。喩え、ですから、とても分かりやすく、単純化されたお話しです。当時の敬虔な信者の代表者である「パリサイ人」と、正反対に、憎むべきローマ帝国側に回って同胞から税金を搾り取る「取税人」、という二人が出て来ます[1]。もうこれだけで、当時の人たちにとっては、いかにも神様に近い立派な人、片や神の怒りに相応しい人、というイメージが出来上がったでしょう。その二人が、

「…祈るために宮に上った。…」

というのです。そして、それぞれが祈りを捧げるのですが、パリサイ人の祈りはこうでした。

11…『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。

12私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』

 非の打ち所がないようです。悪を犯していない。そして、断食やささげ物といった善行は、規定以上に行っていました[2]。一方の取税人はどうでしょう。

13ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 パリサイ人の祈りとは大違いです。何も言えることがない。神さまを喜ばせるような正しいことは何一つしていない。ただ、憐れんでくださいと言うだけです。でも、イエス様は、

14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。…」[3]

 これは、当時の人にとっては、目が飛び出る程ビックリしたオチだと思います。まさか、パリサイ人ではなく、取税人の方が、神さまの前に義と認められた、だなんて、大どんでん返しもやり過ぎだと思われたはずです。でもイエス様は、こんな大胆な譬えをお話しになりました。なぜイエス様がこのお話しをなさったのかは、最初の9節に書かれていました。

 9自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、…[4]

 これを読んで私たちはどう思うでしょうか。ナルホド、そりゃそうだ。自分が義人だと思い上がって、他の人を蔑んでいるような高慢ちきな人は、神様が喜ばれるわけがない。イエス様が仰るとおり、自分を低くする者は高くされるが、自分を高くする者は低くされるのだ。偉そうにせず、祈りは謙遜にささげなきゃなぁ、と思うのでしょうか[5]。今日のお話は「喩え」です。分かりやすく、典型的な二人を描いたのです。実際には、二つのタイプに色分け出来る訳ではなくて、私たちはその中間で揺れ動いているのです。そして、11節に、

11パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。…

とあります。「心の中で」とは「自分に向かって」という言葉ですが、神様に向かって祈っているようで、結局は、自分で自分を褒めているような自己満足だったということでしょう。また、当時の祈りや読書は大概、声に出してのものでしたから、口ではもっと違うことを、ちゃんとした祈りや賛美をしていたのかも知れない。けれども、唇で礼拝を献げながら、その心の中にあった言葉は、自己賛美、自己満足、自慢だったのです。神様は、私たちの舌先のご謙遜を喜ばれるのではなくて、本心で何を考えているかを見ておられる、のですね。

 彼は、「神よ」と呼びかけます。「感謝します」と言います。でも、結局は彼の言葉は全部「私は、私は」なのですね。自分が、ひどい奴とは違っていることを感謝して、人以上の善行を果たしていることを自慢している[6]。自分の人生設計、セルフイメージが理想通りであることに満足しているのですし、彼が祈りに来たのも、その水準を守りたいから、だけでしょう。神様は、その裏方とか背景でしかないと思っているんじゃないでしょうか[7]

 対して取税人は、自分が神様の近くに立つことが出来るとさえ思えません。目を天に上げる、普通の祈りのポーズさえ取れず、胸を叩いて嘆くのです。

「こんな罪人の私」

とは、「罪人のひとりa sinner」ではなく「the  sinner罪人と言えばこの私」です。そして、その自分が何か、ではなくて、神様があわれんでくださることを願うだけです。注意してください。この取税人は真面目で、純粋な罪の自覚があって私よりも素晴らしい、などと褒めないようにしましょう。パリサイ人が言ったとおり、取税人は強請(ゆす)る者、不正な者、姦淫する者だった。そこで人々や家庭で汚いことをし、取り返しのつかない状態になっていた。「ことにこの取税人のようではないことを感謝します」と言われるような酷い人生だったのかもしれない。そうやって初めて、13節のような祈りが出て来るものじゃないでしょうか。

 私たちはどちらのようでしょう。パリサイ人と取税人を前に、私たちはどちらのようでもある、と言えます。パリサイ人のようではない、と言いたがるとしたら、それこそがこのパリサイ人と変わらない決定的な証拠になります。どちらにも自分が重なる、そう気付いて初めて、私たちはこの喩えに近づけたのです[8]。でも、それは自分の嫌らしさ、罪深さ、傲慢さに気付いて、自己嫌悪や絶望に落ちることではありません。今日の喩えの結びは何と言っていますか。

14あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。

 そうです。人は、自分の呆(あき)れ果(は)てるほどの罪に気付かされて主の前に立つ時、義と認められて家に帰ることが出来るのです。罪の重荷に押しつぶされ、自分の胸が張り裂けるまで叩き続けるのではなく、神の憐れみを戴いて、罪の重荷をすっかり下ろして、神が義としてくださった者として、家路に着くのです。今日、この会堂を後にする時、私たちはお互いに、明るく、軽やかな心で、帰るのです。なぜなら、イエス様がこう宣言してくださるからです。

 この「あわれんでください」とは、「なだめをする」という動詞で、名詞形は「なだめの供え物」と訳されます[9]。ただ「可哀想に思って下さい、同情して大目に見て下さい、とかでは罪は片付きません。神の怒りに値する私のためにあなたご自身が償いを果たしてください。どうかあなたご自身が、この罪の片をつけて、解決してください。お願いします」と必死に祈ったのです。イエス様こそは「なだめの供え物」です。イエス様が私たちを憐れんで、ご自身を「なだめの供え物」として十字架につけてくださいました。私たちを見下すのでなく、私たちを義とするために、十字架にまで低くおり、卑しい私たちを御前に引き上げてくださるのです。

 1いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、

とありました。他人を見下し、勘違いした感謝を献げた祈りではなく、イエス様の測り知れない憐れみを見上げる祈りは、私たちを失望から救います。私たちは今日も、義とされているという本当にフシギな恵みを戴いて帰ります。やがて主が私たちを高くしてくださる[10]。その希望に立って、傲慢を砕かれながら、本当に謙虚にされて、共に歩ませていただく私たちです。

 

「主よ。あなた様が、私たちを憐れんでくださいますように。パリサイ人の滑稽な傲慢さは私たちの姿です。そして、取税人の祈りに、私たちの希望があります。そして、今日もここから、主の義を戴いて帰ります。それでも、高ぶろう、人を見下して安心しようという誘惑は尽きません。心から謙虚になり、ますます、主の贖いに確かな望みをおいて歩ませてください」

 



[1] 十五1などに「取税人、罪人」と並び称されるように、取税人(徴税請負人)は忌み嫌われ、神から遠いとされていました。

[2] 律法では、年に一度(第七月の十日の贖罪の日)のみを規定。しかし、段々と増えていき、パリサイ人たちは、「週に二度」と、律法の要求以上の回数をして(年に一度が、年に100回以上!)敬虔のしるしとした。「余剰功徳」というらしい?(榊原康夫、一八一頁)。余談だが、「週に2回の断食」は、月曜と木曜。モーセが山に登ったのが木曜で、降りて来たのが月曜と考えられたから。ウルガタ訳(ラテン語聖書)は「安息日に二回」というナンセンスな訳。ギリシャ語を全く知らなかった訳者の誤訳と思われる。

[3] 「あなたがたに言います」は、ルカが使う、重要な宣言を権威をもって語るときの慣用句である。(七・二六、二八、九・二七、一〇・一二、二四、一一・九、五一、一二・四、五、八、三七、四四、五一、一三・三など) (『説教者のための聖書講解 ルカによる福音書』四五五頁)

[4] 「見下す」は、大変強い言葉。二三11では「ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した」とあった。それほどのことを、心の中ですることがあるのだ。

[5] 日本では「謙遜」が美徳とされます。高価なものであっても「詰まらないものですが」と言うのです。本心では自慢したくても、口では「そんなことありませんよ」と言っておくのが、「ご謙遜」です。けれどもイエス様はそんなことを仰っているのではありません。

[6] 直後の18節以下の役人も、同じような自覚に立っている。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」(21) しかし彼にイエスは言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。…」このパリサイ人は、自分が人並み以上にしていると自負していたが、貧しい人々がなお困窮している事実には心動かされることがない。

[7] また、彼の祈りは「夜昼神を呼び求めている」祈りではない。自己義認、自己満足の祈り。

[8]  自分はどうか? チェックバランスシートと言えるのは、他人を見下していないか。他人以上に頑張っているなどの自負がないか。祈る内容が、自分を主語にしていないか。何を感謝しているか。でも、究極的には、心のこと。いくら形式や言葉や姿勢をまねても、それを誇りかねないのが我々だから。

[9] 「あわれみ」は日本語では、自分の罪深さを、悲しみながらも、言い訳をし、被害者意識を持ち、自己憐憫に酔うことも出来る。しかし、ここで彼は「あわれみ」を乞う。こことヘブル書2章17節にしか使われない強い、罪を意識した言葉。ヘブル2章17節「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(新共同訳「償う」) この名詞形が「なだめの供え物」(ローマ3章25節、Ⅰヨハネ2章2節) 罪を犯した人間に対する神の義なる怒りを、なだめる供え物をささげて、やわらげ、和解させていただくこと。罪に対する義なる怒りをなだめて、和解してください、との祈り。強い罪の自覚であり、法的な罪の自覚だとも言える。

[10] 「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」(未来形)という言葉が、8節の「人の子が来た時(未来形)、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」という前段に続く。

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問15 「禁じられていた木の果実を食べたこと」Ⅰテモテ四1~5

2014-09-06 18:33:23 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/08/10 「禁じられていた木の果実を食べたこと」Ⅰテモテ4章1~5節 ウェストミンスター小教理問答15  

前回は「罪とは何ですか」ということで、

「罪とは、神の律法に少しでもかなわないこと、あるいは、それに違反すること」

と学びました。そして、今日はそれに続いて、

「私たちの最初の先祖たちが想像された状態から堕落したときの罪とは、何でしたか。 答 私たちの最初の先祖たちが想像された状態から堕落したときの罪とは、彼らが、禁じられていた木の果実を食べたことです。」

と言います。前々回の問13で言ったことを繰り返しているだけのようです。言わなくてもいいようなことに思えます。けれども、わざわざ念を入れてこのように繰り返すのも理由があるのでしょう。

 その一つは、すでに中世のカトリック教会においても、聖書の話が象徴的に解釈される傾向が強くあって、ヘンに捻(ひね)った解釈がまかり通っていたことでしょう。アダムとエバの堕落で言えば、「善悪の知識の木の実」とは象徴であって、好奇心とか知識欲だとか、セックスを象徴しているだとか、あるいはギリシャ神話のプロメテウスの話のように「火」や文明のようなものだとか、そういう読み方がありました。裏を返せば、エデンの園やアダムとエバなどは神話や物語に過ぎない、という見方です。

 ですから、そういう間違った深読みを避けるために、今日のところで、

「私たちの最初の先祖たちが想像された状態から堕落したときの罪とは、(好奇心とか火とかセックスなどではなく)彼らが、禁じられていた木の果実を食べたことです。」

と言っておくことは、とても大切な確認であると思います。

 今の例にあるように、人間は「罪とは何か」ということを勝手に間違った考え方で思い込んでしまいます。知識とか性欲は、神様が最初から人間に与えられた大切な祝福でした。それは正しく用いれば素晴らしい恵みとなるのであって、禁じたり罪悪感を持ったりするものではありません。けれども、今読んだⅠテモテ4章でパウロが言うように、

「…後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
2それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、
3結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。…」

 そして、教会の中には、結婚しないで独身でいる方が清いのだとか、食物や楽しみや笑いは悪いものなのだ、という考えが根付いていた時代が長くあったのです。パウロは、そうした考えを「うそつきどもの偽善」「良心が麻痺しており」とバッサリ切り落とします。良心が嘘から目覚めるためにも、罪とは何でないのかを知っておくことはとても大切です。

 例えば、「失敗」は罪ではありません。不注意に気をつける事は大事ですが、ミスをすることは人間であれば避けられません。でも、自分が失敗をしたことに負い目を感じたり、失敗をした人をいつまでも責め続けたりすることはよくあります。かえって、そういう「完璧主義」の方が罪に近いのです。また、「成功」して「うまくいっている」ことが正しいわけでも神様の祝福であるとも限りません。

 また、「弱さ」も罪ではありません。人間は、様々な弱さを持っている存在です。創造された人間は、もともと神様のように無限で万能の存在ではなく、限界があったのです。弱さや限界があることは罪ではありません。ただ、弱さを通して謙って、神様を見上げるのであって、弱さに開き直って傲慢になってはいけません。でも、弱さがあること自体は、罪ではないのです。出来ることには限界があるのです。いのちを助けることさえ、したくでも出来ません。頑張って無理や背伸びをしなければダメ、ではないのです。むしろ、そうして弱さを認められないとか、何でも出来るのがいい、などと考える方が、危険です。

 人間はお互いに違う個性を持っています。一人一人、好みや考え方が違い、言い方や表現、得意なこと不得意なことがずれたり、反対だったりします。そうした「違い」も罪ではないのですが、私たちはそれを「あの人はわがままだ」「この人は冷たい」などと裁きやすいのです。「違うこと」は罪ではありませんし、まして「私のことを分かってくれない」からといって相手を「ひどい人だ」と非難するのはお門違いです。

 それから、「問題がある」ことも罪ではありませんね。罪の結果、衝突が起きたり、いざこざがあったりするのだとしても、そういう問題があること自体を責めたり、隠そうとしたりしてはいけません。むしろ、問題に向き合わなかったり、何事もないかのようなフリをしたりすること自体が、その人の持っている深い歪みを現していると言えます。

 「悲しみ」や「疑い」や「後悔」といった否定的な感情(反応)も、それ自体では罪ではありません。悲しいことが起きれば悲しいし、訳の分からないことが起きれば「どうしてだろう」と考えない方が異常です。過ちを犯したら悔やんで、人の過ちには怒りや非難といった反応をするのは自然です。けれども、中には「信仰者はどんな時にも喜んで、ポジティブに受け止めるべきだ。信仰をもって、明るく乗り越えなければいけない」と考える人もいます。それは、聖書の教えを一面的にしか捕らえていませんし、罪や人間の苦しみ、神様の憐れみの深さをも十分見つめることが出来ず、逆に状況を悪化させることになるでしょう。神様は、人間に考える力を下さいましたので、信仰に立った上で、鋭い省察や深い洞察力、心からの共感、悩み、葛藤することは必要なのです。

 他にも「酒、タバコ、映画、お化粧、おしゃれ」など、沢山のものが罪だと誤解されてきました。要するに、自分の尺度で「罪」を決めないことです。罪は、神の律法に逆らうことであって、自分の正義感が基準ではないのです。アダムとエバは、「神のようになる」という蛇の惑わしに引っかかりました。でも、本当の意味で、神のようになる、神に似た者になることは、神様の御心でした。禁断の木の実ではなく、御言葉を戴いて養われ、神様が求めておられることに心から聞き従うことで、善悪が分かり、自由にされます。罪ではないものに後ろめたさを感じて縛られていることから解放されます。悩む必要のないことで悩む苦しさから救われます。問題や違いや失敗や弱さがあっていいのだ、むしろ、そのことを通して、神様の恵みは現されるのだと、主を見上げて、御言葉に信頼するのです。それによってこそ、神を信じないという最も根源的な罪から自由にされることなのです。

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