2021/9/12 マタイ伝24章32~44節「未来は予測できないもの」
教会の無花果(いちじく)が元気で、夏から葉と実を茂らせています。マタイの福音書の後半は、春の過越の祭を背景にしていますので、この頃はまだ、葉さえ無花果には出ていないのが通常です[1]。その枝ばかりの無花果を見させながら、イエスは私たちが今の時を生きる知恵を示します。
32いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。33同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは[人の子が]戸口まで近づいていることを知りなさい。
「これらのこと」とは4節からずっと語ってきた、キリストを名乗る者が現れたり、戦争や飢饉や地震、また迫害や神殿が汚されることなどでしょう。弟子たちは、世が終わる時のしるしを知りたいと尋ねましたが[2]、イエスは一貫して、そのような出来事に惑わされるな、どんな災害や危機も、起こるべくして起きることだと答えました。
また33節の「人の子が」には欄外に「あるいは「そのことが」」とあるように、何が近づいているのかは省略された文です。何が近づいているかより、ああ近づいているのだ、春が夏になるように、今の時代もやがて終わるのだと知る[3]。そう仰っています。無花果の新芽に「今年も夏が近くなってきた」と思い起こし、その前には麦の収穫があり、その先には実りの秋が来る。やがて必ず来る収穫に、備える。そのように、戦争や偽キリストや地震があって、世間が「世紀末だ」と口々に言っていても動じることはない。「ああ、予定通り、次の季節が近づいている」と思い出せばいい。
34まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
言い換えれば、あらゆる災害は必ず起きて、この時代は過ぎ去るのです。私たちは生活の安定や健康や家族の安全が、合って当たり前のように思いたいのです(それは自然なことです)。過去を振り返れば分かるように、生活は変わり、病気や老いとつき合いながらの人生を、それぞれが歩んでいるのです。
「私たちは「生の真っ只中で死にそうだ」と言うが、実は「死の真っ只中で生かされているのだ」[4]
という言葉をよく思い出します。生きているのが当たり前、ではなくて、生かされていることは奇蹟であり、色々な事が起こり、この時代も過ぎ去る。
35天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません[5]。
天地という今の住まいは、やがては過ぎ去る「仮小屋」です。大きな災いに驚いたり、惑わす声に揺れたりする度に、それを思い起こすのです。やがて、その戸口が開き、私たちの世界そのものが大きく変わります。それは、決して消え去ることのない主の言葉の世界です。主の言葉こそが、すべてを治めている世界に生かされるのです。
36ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
どんな出来事も「終末のしるし」ではない、と言って来た言葉から更に踏み込んで、その日その時は誰も知らない、と明言されます。「子も知らない」を、では全知全能ではない、神ではないのかと疑うよりも、イエスは神でありながら、正真正銘の人間になった、という以上、何かしらの制限は受けられたのです。それは、イエスを小さく引き下げるのとは逆の、計り知れない神秘です。ご自分が再びこの世界に来ることの当事者(主役!)であるのに、それがいつかを自分は与(あずか)り知らない、ただ父だけがご存じだ、と平然としている。任せきっています。父を信頼しきっているのです。ですから私たちも、そのイエスに倣う。その時を占おう、未来を知ろうとするよりも、父なる神がご存じの「時」にお任せして、この仮小屋での生活を整える。それが、その主をお迎えするのに、最もふさわしい過ごし方に他なりませんね。
この事を37節以降、創世記の「ノアの大洪水」を引き合いにします[6]。洪水が来ることは、前もって伝えられていたのです。箱舟の建造も何十年もかかり、完成していく大きな箱舟も見えました。それでも「洪水など来ない」と、食べたり飲んだり、娶ったり嫁いだりしていた所に洪水が来ました。それと同じです。40節41節は、畑仕事や臼挽きをしている時、本当に日常の生活が「そのとき」になる様子です。二人の一人が「取られ」、一人が「残されます」。直前の洪水がすべての人を「さらってしまう」の続きで「一人は取られ」ですから[7]、「残る」方が主の民なのでしょう[8]。いずれにせよ、大事なのは思いがけなさです。その時は分からない。
42ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。
災いを見れば、「そうだ、この天地は揺さぶられつつやがて消え去る小屋だ。主が戸を開けて永遠を始められるのだ」と思い、日常生活では「今日主がおいでになるかも知れない」と思い起こす[9]。それが、「目を覚ましていなさい」と言われる生き方で、この後詳述されるのです。
この箇所は、無花果を初め、「食べたり飲んだり」が沢山です! 畑も臼も食に関わりますし、45節からも「食事時に彼らに食事を与える」とあります。主人の帰りを弁えない飲み食いは警告されていますが、食事そのものを慎め、ではありません。食べる事飲むこと、畑や臼挽き、今しているそれぞれの仕事。その日常に、主は来られるのです。特別に再臨待望集会をしたり、主のおいでを周囲に警告して待つのではないのです。むしろ、私たちが誰かと畑や臼挽きの仕事をしたり、結婚し、食事をしたり、普段の生活をしている時に、主は来られるのです。そう思う時、私たちの仕事も、家事も、食事も、なんと尊いものに思えるでしょう。そのような主の約束の言葉をもって、ともに働き、一日一日を生きるのです。将来を占おうとするより、今ここでの生活を尊び、食べる時も飲む時も、主を思う。そういう「目を覚まし」た生き方を、主は始めてくださるのです。
「王の王である主よ。あなたのおいでを待って、二千年になろうとしています。この先、何年、何千年、あるいは明日か、数時間後か。それはあなたも父にお委ねしている事ですから、どうぞ私たちも一日一日を大事にさせてください。あなたは、ご自身を迎える格別な準備を求めるより、日常に来られる方です。私たちの仕事や家事や飲食、介護や普段が、どれほど尊いかを改めて思います。王なるあなたのお帰りを心に刻み、目を覚ました生き方をなさせてください」
[1] だからこそ、イエスは実を期待したのだ。マタイ伝21章19節「道端に一本のいちじくの木が見えたので、そこに行って見ると、葉があるだけで、ほかには何もなかった。それでイエスはその木に「今後いつまでも、おまえの実はならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。」
[3] 33節の「知りなさい」は、命令形とも直説法とも訳せます。23~31節までの教えとの兼ね合いからしても「しるしを見分ける」というより、もっと自然に主の近さ(時間的近さではなく、距離的近さ)を思い出すようにと言われているはずです。
[5] 「この時代は過ぎ去る」も「天地は消え去る」も、同じ動詞パレルコマイで、未来形・中態です。将来、消え去ってしまう、運命的なニュアンスがあります。これに対して、「わたしのことばは決して消え去ることがありません」は、不定過去の能動態です。みことばそのもののの能動的な生命力を感じさせます。
[6] 37節の冒頭には、接続詞「ガルなぜなら」があり、36節との結びつきを現しています。創世記6章~9章を参照。
[7] ただし、40節の「一人は取られパラランバノー、一人は残されるアフィエーミ」 39節の「さらって」はアイロー。「取られ」が、不信者を(ノアの洪水のように)一掃するのか、信者を(揭挙と信じられているように)天に引き上げるのか、は問題にしていない。人の子が来た時には、この世界は終わり、両者とも地上の生涯を閉じるのだから。
[8] 次の「忠実で賢いしもべ」の譬えも、家に残るのは良いしもべです。「信仰者だけが世界から突然いなくなって、天に引き上げられて、滅びる者だけが残される」という「空中揭挙」という教理を信じる教派があります。映画「レフトビハインド」などがそんな理解を演繹したフィクション(ホラー)で見ることが出来ます。そのような立場の人々は、今日のこの部分をその「空中揭挙」という教理に当てはめる解釈します。しかしそのような読み方は、本章そのものからの釈義からは、大きくかけ離れています。
[9] 「人間の状態においては、並外れた災いと通常の生活が交代で訪れる。信仰者にとっては、前者は終わりを指し示し、後者はその思いがけなさを警告する。」 Carson, Matthew, 917/1072