聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/8/15 マタイ伝22章41~46節「思いがけない神」

2021-08-14 12:48:23 | マタイの福音書講解
2021/8/15 マタイ伝22章41~46節「思いがけない神」

 21章から続いてきた論争が、ここで終わります。この最後の、しかもイエスご自身からお尋ねになった問いは、ここだけでなく、全ての人にとって非常に大切な問いを教えてくれます。
42「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」
 キリスト教、教会、キリスト者(クリスチャン)にとって「キリストとは誰か」という事を、改めて問われる。私たちだったら何と答えるだろうか。このとても大切な原点を確かめさせていただきましょう。
 「キリスト」とは「油注がれた者」という意味のヘブル語メシアのギリシア語訳です。聖書では王や大祭司、預言者を任命する時、香油を注ぎました[1]。それがやがてメシア(メサイア)と言えば、神がこの世界に遣わす特別な支配者を指すようになり、メシア待望という信仰が生まれました。神がお遣わしになるキリストが来る、そう待ち望む思いが共有されていたのです。
 それを改めてイエスは「あなたがたはキリストについてどう思いますか」と問われます。
42…彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」…
 ダビデは紀元前千年頃の王で、神は彼の子孫から永遠の王が出ると約束されました[2]。マタイの福音書も1章1節で
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。」
と書き出すのです。ですからパリサイ人たちがキリストを「ダビデの子です」と言ったのは、それ自体では正しいのです。しかし当時の「ダビデの子」というキリスト理解は、「かつてのダビデの時代を再来させてくれる」という、とても手垢のついた名称になっていました。自分たちが考える王、救い主、昔の栄光の再来という救いを待っていたのです。そういう彼らに対して、
43イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、
44『主は、私の主に言われた。
「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』
と言っているのですか。」

 この詩篇110篇、今日の交読で読んだ詩篇は「ダビデによる」と題がつけられています。旧約聖書では、最初の「主」が太字で「ヤハウェ」を表して、次の「私の主」は自分の主人、主なる神を表していることがよく分かります。ダビデは主(ヤハウェ)が「私の主」=キリストに「わたしの右の座」つまり王子がつくべき座に着くよう言われた、と歌いました。ダビデは、やがて自分の子孫が自分の王座を再建する、ではなく、それは「私の主」と呼ぶ方で、主(ヤハウェ)の王子であると歌っています。パリサイ人が考えた、狭い意味での「ダビデ王の再来」ではないのです[3]。

 私たちも改めて、イエス・キリストは私たちが考える「救い主」よりも大きなお方、「神の子」であることを心に刻みましょう。この詩篇110篇は、新約聖書で他のどの箇所よりも多く引用される、旧約の聖書箇所です。イエスもパウロもヘブル書もペテロも、この110篇を手がかりにしています[4]。イエスはダビデの子であり、主なる神の子、私たちも「私の主」と呼ぶべきお方です。キリストが神の右の座に王子として着いて、悪をも治めてくださる。
 そして、詩篇110篇では、この主は「大祭司」とも言われます。神と民との関係を取り持ってくれるのが祭司です。イエスは、王であり祭司であるキリストです。
 また、110篇の結びには、王が馬の上にふんぞり返ってはおらず、道端の流れから水を飲む、身近で爽やかな姿が描かれました。こうした110篇の描く、支配と執り成しと爽やかさを兼ね備えたキリストこそ、イエスでした。
 パリサイ人たちが思い描いていたよりも、キリストはもっと大きなお方です。思いがけない方です。でもそれは、もっと私たちに遠い、手の届かないという大きさというより、思いがけないほど私たちに近く、思いもつかないほど私たちに深く関わってくださる、という思いがけなさです。人が考える「救い主」とか「救い」を深く新しくして、私の王、私の祭司となり、またここで彼らを教え問われたように、預言者として私たちを教え、気づかせ、育ててくださる。イエスが、王・祭司・預言者として、私たちを治めてくださる。これが救いです。

 今日8月15日は終戦の日です。第二次世界大戦が終わった日。八千万ともされる犠牲者と、ヒロシマとナガサキの原爆を始め、生き残った人もバラバラになり、大きく世界を変えた戦争です。人間の願いが、手段を厭わずに追い求められると、その最悪の形が戦争となります。イエスの時代のパリサイ人や民衆の間に、広く出回っていたのも、戦争による平和でした。ローマをやっつければ平和になる。昔のダビデの時代の繁栄がもう一度訪れれば、幸せになれる。そういう期待でした。
 イエスはキリストがそういう期待とは違う主であることを示されました。イエスはご自分がキリストだと明らかにする前に、
「あなたはキリストについてどう思っているか?」
と問われます。「救い主」と呼ぶならどんな救い主なのか、どんな救いなのかを問われます。それは、ただ昔を美化して、それを再来させてくれる強いリーダーという、人間が思い描きがちな方ではありません。もっと私たちよりも大きな、神の王子です。そして、その力ある方が、状況や敵を変えることも出来るのに、この時もその力に訴えようとはせず、まもなく彼らに捕らえられ、十字架の死、最も卑しめられる一人となられたのです。

 このイエスが、造り主なる神の子であり、祭司である方が、ご自分の命をかけて、最も低くなってくださり、その支配を、その不思議な「救い」を見せてくださいました。戦争や暴力やカリスマ的なリーダーの登場では決して世界は救われないし、そんな力は世界を治めることもないのです。イエスは上からの支配ではなく、下に降りて来られて、いのちを献げてくださいました。その死が復活となり、私たちに死を超えたいのちを見せる力となりました。死よりも強い主イエスの愛を、私たちは戴きました。このイエスが今も私たちを、目の前の人を、世界を不思議にも治めてくださっています。ここに立って、主の平和を味わい、育てていくのです。



「平和の主、イエスよ。私たちをあなたが治め、やがてすべての敵や悪が降伏されるとの約束を今日聴きました。私たちが思うよりも遙かに深く、私たちに身近で、私たちの心を新たになさる主よ。戦争や暴力を終わらせ、恵みならぬものから私たちを自由にして下さい。いのちの尊さを、回復させてください。争いと絶望の中で、呻いているすべての叫びを聴いて、私たちを平和つくりのために働かせてください」

脚注

[1] 大祭司(出エジプト記28:41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油注ぎをし、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせよ。)、王(Ⅰサムエル記15:1 サムエルはサウルに言った。「主は私を遣わして、あなたに油を注ぎ、主の民イスラエルの王とされた。今、主の言われることを聞きなさい。)、預言者(Ⅰ列王記19:16 また、ニムシの子エフーに油を注いで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラ出身のシャファテの子エリシャに油を注いで、あなたに代わる預言者とせよ。)

[2] Ⅱサムエル記7章参照。(7:12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。)

[3] ローマ1章3~4節「御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」

[4] 詩篇110篇。新約で最も引用されている旧約聖句。本箇所とマルコ12章36節、ルカ20章42、43節の並行箇所は勿論、使徒2章32~35節、Ⅰコリント15章20~25、ヘブル1:13で引用。エペソ1:20,コロサイ3:1、ヘブル8:1、10:12、13、12:2、Ⅰペテロ3:22も。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

2021-08-14 12:44:54 | こども聖書
2021/8/15 出エジプト記12-15章「モーセ、人々を導く」こども聖書㉗

 今から3500年ほど前、神様がエジプトの国で奴隷とされていたイスラエル人を、その奴隷生活から解放してくださったことは、聖書の物語にある大きなクライマックスの一つです。エジプトの王ファラオは、「神の子」を自認して、絶対的な権力をもっていました。しかし、本当の神である主は、ファラオよりも遙かに強く、イスラエル人を救い出して、神の民として新しい歩みをくださったのです。これは、聖書を通して、ずっと私たちを励まし、力づけてくれる、すばらしい出来事です。
 しかし、イスラエル人がエジプトから出て行った後、エジプトのファラオや家臣たちはすぐに考え直し始めました。勿体ないことをした、イスラエル人を手放したのは間違っていた、と思ったのです。奴隷にしていたイスラエル人がいなくなって、自分たちが仕事をしたり片付けや料理をしたりしなければならなくなって、嫌気がさしたのかもしれません。エジプト人はイスラエル人を連れ戻して、また自分たちのために働かせよう、と考えてしまったのです。そして、馬で引いた戦車を600台、いやもっとたくさん送り出して、イスラエル人を追いかけていったのです。
 エジプトから出て行ったイスラエルの人たちは、ちょうど葦の海の前まで来ていました。前に道はなく、どう進めば良いのかと思っていた所に、後ろからエジプトの戦車がたくさん押し寄せてきたのです。前は海、後ろは軍隊、どちらにもいけません。挟み撃ちです。そこで人々は、神様に叫んで祈り、指導者のモーセにこう悪態をつきました。
出エジプト記十四11…「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。12エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
 なんて勝手な言い分でしょうね。しかし、神様はこれを聞いておられました。そして、神は、わざわざ彼らをこの絶体絶命の挟み撃ちの状態に置かれたのです。それは、とても大事なことを人に教えるためでした。神はこう仰っていました。
十四4わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが主であることを知る。
 「もうだめだ」-人がこんなふうにしか思えない時にも、神はそこに道を創造するお方です。その事が、この時に明らかにされたのです。ではどのようにしてでしょうか。
21モーセが手を海に向けて伸ばすと、主は一晩中、強い東風で海を押し戻し、海を乾いた地とされた。水は分かれた。22イスラエルの子らは、海の真ん中の乾いた地面を進んで行った。水は彼らのために右も左も壁になった。
 主が言われたように、モーセが杖をもった手を海の上に伸ばすと、海の水が分かれて、道が出来ました。その道をイスラエル人たちは歩いて、向こうまで渡って行けたのです。道のない所に、神は道を作りました。逃れる事が出来ない試練の中で、脱出の道を備えてくださいました。もうダメだとしか思えない時に、神は救いを備えてくださいました。こうしてイスラエル人は、絶体絶命の場所から救い出されたのです。



 しかし、その後を、
23エジプト人は追跡し、ファラオの馬も戦車も騎兵もみな、イスラエルの子らの後を海の中に入っていった。…26主はモーセに言われた。「あなたの手を海に向けて伸ばし、エジプト人と、その戦車、その騎兵の上に水が戻るようにせよ。」27モーセが手を海に向けて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。28水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった。
 神が海の中に道を作られたのを、エジプト人も利用しようとしましたが、神はそれを許しませんでした。神のなさることを、悪人がつけ込んでやろうと思う事はあります。でも、決してこっそりと神を欺すことは出来ません。神はちゃんとすべてをご存じです。神は、囚われていた人を解放します。後から、追いかけてくるひとたちが大勢いても、私たちが諦めてしまっても、神を打ち負かすことは出来ません。ところで、この場所は、
出エジプト記13:18「神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。…」
とあり、欄外に「あるいは紅海」と書かれています。この舞台は長く「紅海」、今でも地図にある、広い海で起きたと考えられていました。たくさんの映画で、モーセが紅海を二つに分けるシーンが、大きなクライマックスになります。



 けれども今は、これはもっと北の「葦の海」と理解されています。それは、葦が生えた、紅海よりも浅く、小さな水場です。だとしたら、紅海よりももっと地味なことだったのかもしれません。



 それでもこの出来事が奇蹟であって、神様でしか出来ない力強い解放だったことは変わりがありません。そして、大事なのは、この時にどんなにすごい奇蹟があったかどうかより、このお方が、今でも私たちに働いておられると信じることです。紅海が二つに割れる壮大な光景が起きたと信じながら、今ここで、神が囚われていた人を自由にし、人を束縛しようとする人間を退けられるとは、信じてもいないなら、意味はありません。主は、今もこれからも、卑しめられている人、傷つけられ、悩む人々を憐れんで、不思議な方法で救い出され、偉ぶったり差別したり神に背を向けるひとを打ち負かされます。
 出エジプトは、やがて訪れるイエス・キリストの救いを表しています。小羊の血を流した過越は十字架を表して、葦の海に道が出来た奇蹟はイエスの復活を表していました。復活は、十字架の死が、絶望やおしまいではなく、いのちの証しとなり、永遠のいのちへの道を示した出来事でした。それは、エルサレムの片隅で起きたことですが、私たちの人生を一変させる御業でした。海に道を開き、イエスを死からよみがえらせた方は、この世界の暴力や罪の支配を終わらせるお方。私たちをも導いてくださるお方です。

「世界の造り主なる神、あなたは囚われていたイスラエル人を解放し、奴隷に引き戻そうとするファラオの軍勢を海に放り込まれました。どうぞ、今も私たちの世界に働いて、あなたに背く世界に穴を空け、道を開いてください。また、卑しめられている人を解放して、私たちの冷たい心にも命の道を開いて、私たちを自由に、新しくしてください」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする