聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

使徒の働き17章22-34節「手探りで求めるなら」

2018-02-18 16:13:33 | 使徒の働き

2018/2/18 使徒の働き17章22-34節「手探りで求めるなら」

1.「知られていない神に」[1]

 この17章の前半でパウロは、ピリピからテサロニケ、ベレア、そしてアテネに来たのです。アテネに来たのは迫害のための一時的な避難でしたし、ここに留まる気にもならずに、十八章でコリントに南下します。アテネは古代ギリシアでは大事な都市でしたが、もうパウロの時代には傾いて、宣教計画にとってもコリントの方が重要と見なされた過去の町だったのです。けれどもそこには町中に像が建ち並び、哲学者たちが議論に明け暮れており、人々は

21…何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。

 そうした様子を見てパウロは

「心に憤りを覚えた」(16節)

 そして会堂でも広場でも出会った人々と論じて

「イエスと復活を宣べ伝えていた」(18節)

のです。その話に興味を惹かれた人々がパウロに講演を依頼して、アレオパゴスに連れて行きました。欄外に「アレオパゴスの評議会」ともあるように、アレオパゴスという丘で開かれる評議会、大会議が大事な事を決めるアテネの最高決定機関だったのです。これがパウロのアレオパゴス説教です。

 22節以下のパウロの話は自分が道を通りながら、

「知られていない神に」

と銘打たれた祭壇があるのを見かけた話から始めています。町中に像や祭壇が溢れていましたけれど、街中の人はそれでもまだ拝み漏らしている神々があったら失礼だ、ご機嫌を損ねないように祭壇を作っておこう、としておいたのでしょうか。パウロはそこを切り口に、

23…あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。

24この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。

25また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神御自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。

と説教をしました。まずパウロは神を、天地の主、世界を造られたお方で、人間が宮や祭壇を造らなければ困るとか、お供え物やご機嫌取りをしなければ臍を曲げるとか、そんなちっぽけな神ではないことを宣言しています。これは29節でも

「神である方を金や銀や石、人間の技術や考えで造ったものと同じであると、考えるべきではありません」

と繰り返しています。30節ではハッキリ「無知の時代」と言うように、パウロは

「知らずに拝んでいる」

ものから始めながら、アテネの人々の決定的な無知を問いかけたのです。哲学を論じ、世界の最高の知性を自負する人々に「あなたがたは一番肝心な神を全く知らない」と大胆に指摘したのです。

2.手探りで神を求めれば

 同時に、パウロが語っている非常に大胆な点は、その方が人間と関わりを求めておられるお方だ、ということです。これはアテネやギリシアの神理解にはないことでした。

26神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。

27それは神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。

 神は私たちに御自身を求めさせるお方。それぞれの時代、それぞれの場所に住み、生かされているのは、神を求めさせるため。そういう神をパウロは語りました。27節は「新改訳2017」では

「もし人が手探りで求めることがあれば」

となりました[2]。目の見えない人が手探りで必死に必要なものを求める、そういう動作です。神について探究する思想とか議論でなく、闇雲に手探りしてでも神を必死に求めるなら、神を見出さないはずがないと言うのです。神は私たちに御自身を求めるために、今ここでの人生を下さっています。言わば神の中に生きています。神の子孫とも言えるほどの強い関係があるのです。人間がそれに気づかず、金や銀や石や、人間の技術や考えで造り上げた神々について議論し、哲学という名のおしゃべりをしている時、実は、神は私たちの後ろに立っておられて、人間のその他の営みすべてを成り立たせておられます。そして、人間が神を求め、神に立ち帰って生きるのを待っておられます。いいえ、待っておられるだけではなく、神の御子イエス・キリストがこの世界の真っ只中に来たのです。

31なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」

 アテネの人の考えはこうではありません。神々のために数えきれないほどの像や祭壇を立てご機嫌を宥めながら、ここに集まり、いるかどうかも分からない神について議論を好むだけで、神が人間を求めておられるとは考えませんでした。ましてその神が人間になるとか、死んでよみがえるほど親しく、近い、情熱的な神などはお笑い種だと済ませたい人が大勢だったのです。

32死者の復活のことを聞くと、ある人たちはあざ笑ったが、ほかの人たちは「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」と言った。

 でもこういう反応も承知の上で、パウロは彼らに天地の神がどれほど偉大であるか、そして、どれほど私たちを求め、近くにおられるかを語り、この神を求め、立ち帰るよう迫ったのです。

3.新しい教え

 パウロの説教は、神が石や偶像でないだけでなく、人間に御自身を求めさせる神だ、手探りででも求めれば見出せる神、いや御自身から人間の死までも味わってよみがえられた方だ、という内容でした[3]。イエスは死をも味わわれ、人間の罪も悲しみも、無知も間違いも、すべて知った方として、そこから復活された主として、世界をお裁きになります。神とはそういう私たちに近いお方です。私たちは謙ってこの神を求めてこそ、本当に立つべきゴールに立てるのです。神について論じたりおしゃべりしたり、自分の意見に合わない人を笑い飛ばしたり、アテネの殿堂や、自分の居心地良い生き方に閉じ籠もっている生き方では勿体ないのです[4]

 パウロは死者の中からよみがえられた方、キリストを語りました。

「イエスと復活を宣べ伝え」

続けたパウロ自身、キリストに出会いました。キリストに逆らう自分にも近づいてくださる主と出会って、人生がひっくり返りました。そしてそのパウロが、ユダヤから飛び出して、アテネにまで来てイエスを宣べ伝えている。かつては異邦人だと見下していた人たちのために、心に憤りさえ熱く持って[5]、機会を生かして語って、歯に衣着せず、でも暖かく語っています。これ自体、生きたメッセージです。神について議論したり、自分の意見を主張したり、でも所詮は自分の殻に閉じこもって生きている…そういう生き方から、神と出会い、人と出会い、神が造られた世界の中で心開いて生きている。迫害されようと、笑われようと、でもそこで僅かでもイエスに出会う人がいることを喜んで、ここに来た甲斐があったと思うようになりたい。

 この方が私たちに命を与え、今ここでの人生を与え、神を求めて、神に立ち帰って生きるように、神の世界の中でともに生きるように導いておられます。その時代、その場所に置くことに伴うリスク、誘惑や悲しみや問題も全て、この方はご存じで、それでもなお、神は私たちの人生を引き受け、導いて、目には見えなくともそばにおられます。いつもともにおられます。人間が造り上げ願い求めるイメージの神ではありませんが、もっと近く、もっと素晴らしく、手探りででも求めるに値する神なのです。私たちを虚しい迷信や求める気にもならない冷たい神理解から救い出してくださる。そればかりか、私たちを通しても、キリストに出会う事が起きるように働いておられる。八百万の神が拝まれる日本で、イエス・キリストにおいて証しされたこの方こそ、世界を裁かれる素晴らしいお方だと確かに現されることが約束されています。

「天地の主、今も近くにいます主よ。力強い御業と測り知れない慈しみを知った恵みを感謝します。あなたを求めるよう計らい、御自身の犠牲も惜しまれない憐れみに感謝します。復活された主は、今も世界に働いておられます。この日本で本当の神と出会って、恐れや虚しさから多くの人が救われて、恵みによって共に生きるため、どうぞ私たちも整えてお用いください」



[1] 使徒の働き17章のこの説教は、パウロがアテネで全く聖書を知らない人たちを相手に語った、とても貴重な記録です。日本人にとっても現在の世界中の人にとっても、立ち帰って学ぶべき所のある内容ですし、また伝道する側の姿勢も多くを学ばされる大事な資料です。

[2] プセーラファオー。この「手探りで求める」とはひと言で新約に四回しか使われない珍しい言葉です。ルカ二四39「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」、ヘブル十二18「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、19ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。…」、Ⅰヨハネ一1「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」

[3] 多くの方は16節の「心に憤り」とか31節の「義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです」をパウロがアテネの人の偶像崇拝が真の神への冒涜だ、本当の神はもっと偉大だ、裁き主だ、悔い改めないと裁かれるぞ、と憤ったのだと考えます。ですから22節の「あなたがたは、あらゆる点で宗教心にあつい方々だと、私は見ております。」も本心ではなく、口上やおべっか、皮肉だろうと言うのです。そうなのでしょうか。パウロが語るのが、そんな怖しい怒りっぽい神なら、そんな神を求める気にはなれませんし、求めて痛い目を見るような恐怖があります。

[4] それはまた、アテネのアレオパゴスやエルサレムやあちこちの役人や議員たちが駆け引きで判決を下していくような血も涙もない裁きでもありませんでした。

[5] パロクシュノー。ここと、否定形でⅠコリント十三5「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、」に出て来るだけです。神が冒涜されてけしからんと冷たく怒りより、このイエスを知ったゆえの激しい悲しみの情熱です。イエスの福音を知らず偶像を作り続ける町へのもどかしさ、激しさ、感じやすさです。

コメント (1)
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