2016/02/14 ウ小教理問答104「いのちを豊かに下さる主」箴言三〇7-9
前回まで、主の祈りの最初の三つの願いを見てきました。天の父の御名、御国、御心を優先して祈ってきました。それに続く四つ目から、「私たち」の事を祈ります。
問104 第四の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。
答 第四の祈願、すなわち「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」で私たちは、神の無償の賜物の中から私たちが、この世の良きものをふさわしい分だけ受け、それらをもって神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります。
「私たちの日ごとの糧」という言葉は、原語では「パン」、日本語なら「ご飯」です。毎日のご飯を私たちに与えてください、という祈りです。とはいえ、ご飯を食べている人が全員、主の祈りを唱えているわけでも、日ごとの糧を祈り願っているわけでもありません。こう祈らなければ、日ごとの糧をもらえないわけではないのです。祈る相手の神は「天にいます私たちの父」です。天の父は私たちが祈る前に、私たちに必要なものをご存じであり、私たちを愛して養ってくださっているお方です。ですから私たちがこの祈りを祈るのは、日ごとの糧を頂くためではなく、日ごとの糧さえ神が下さっていることを覚えるためです。食べ物や健康、家や生活、そういうものがあることを感謝しているのでしょうか。食べ物があるのは当たり前、生きているのは当たり前、そう思っているから、もっと違うものを「あれも欲しい」「これも欲しい」と思っているのではありませんか。欲しい物がいろいろあるのが悪いのではありませんが、イエスが仰ったとおり、全世界さえ手に入れたとしても、肝心ないのちが損なわれていれば何の意味もないのです。私たちがいのちを与えられている、今日も食べるものが与えられている。これさえ、当たり前ではなく、「神の無償の賜物」である。そう気づかされるのです。
「日ごとの糧」は、食べ物に象徴する全ての必要ですね。
問い 「日用の糧」とはどういう意味ですか。
答え わたしたちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのものです。 たとえば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、財産、善い妻や夫、愛する子どもたち、忠実な雇い人、誠実な指導者、善い政府、好い天気、平和、健康、学問、名誉、良い友だち、信頼できる隣人などです。(ルターの小教理問答)
食料だけあっても人は生きてゆけません。衣食住が揃ってもダメです。神様が世界の創造のときに、「人がひとりでいるのは良くない」と言われたように、パートナーや家族も必要です。治安も、天候も、名誉や人間関係においても、私たちは養われる必要があります。そうした全てが「日ごとの糧」にギュッと詰まっているのです。
中には、とても遠慮深くて、自分の毎日の生活の些細なことなど祈るのは申し訳ない、と言う方がいます。自分の詰まらない願いより、もっと高尚なことを祈るべきだ、と考える人が少なくありません。でも、イエス様が教えて下さった祈りは、私たちの毎日のパンさえ、天の父の賜物だと言っています。喜んで私たちのいのちを養い、お世話をして下さっています。ですから、私たちは変な遠慮などせずに、すべての願いや必要を求めたら良いのです。神から離れて、自分が手に入られるものなどないのです。神の恵みによって、いのちが支えられて、毎日を生き生きと楽しみ喜びながら生きていけるようになることを、大胆に、神に祈り求めましょう。
同時に、私たちは、罪人であり、欲しがる必要のないものを欲しがり、人から奪い取ることさえある事実を知っています。今日の第四の祈願には、
「私たちの日ごとの糧」
とありますね。私たちの分の糧を与えて下さい、という所を、ウェストミンスター小教理問答では
「この世の良きものをふさわしい分だけ受け」
と解説しています。
「私たちの糧をお与え下さい。他の人の分まで盗ったり、本当は良くないものを欲しがったりせずに、私たちに相応しい分だけを下さい」
なのです。泥棒は勿論良くないことです。世界の多くの国を貧しくしているのは、強い国や企業がそこから無理遣り利益を吸い上げているからです。そうして、お金や権力を持つ内に、どんどん人間は背伸びをしたり、豪華な暮らしに膨らもうとしたり、麻薬や武器や犯罪にも手を染めたりしてしまいます。もし私たちが悪いものを欲しがったとしても、それを与えないで下さい。そういう祈りもここにはあるのでしょう。先に読んだ箴言の言葉にはこうありました。
箴言三〇8…貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。
9私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
貧しすぎると、苦しくて心も生き方も廃れてしまいます。豊かすぎても、私たちは神を忘れて、思い上がってしまいます。お金持ちになれたら幸せ、というのは大嘘です。でも、良い暮らしや豊かさが、悪いとか捨てた方がいいとか後ろめたさを覚えるべきことなのでもありません。一人一人が与えられた生活の中で精一杯、感謝して、正しく、賢く生きていく使命があるのです。ここには
「神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります」
とあります。日ごとの糧を与えて下さるのは、天の父の惜しみない祝福です。ただいのちを与えて生かすだけでなく、私たちそれぞれに人生を与え、よいご計画を与えて、私たちを愛される神のご計画があるのですね。私たちが、その神の祝福の中で、喜んで生きるようにするためにこそ、日ごとの糧を下さっているのですね。
ヨハネ十10…「わたしはよい牧者です。…わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」
とイエスは言われました。ただ羊を生かし、飼い殺しにするのではなくて、いのちを豊かに持たせたい。これが、イエスが来られた目的です。私たちが、天の父の豊かな養いに、感謝をもって生きる者となること。神の祝福を喜んで生きる者となること。そのように私たちを養いたいのです。そのために、私たちは多くの「糧」を必要としています。何よりも、御言葉のパンが必要です。聖書を読み、御言葉を学ぶことは、何にも代えられません。でもそれだけではありません。私たちが毎日食べている物、楽しんでいること、生き甲斐を感じること、幸せを感じること。それらすべてが、神の祝福であると気づいて、その喜びの真っ只中で、感謝をすることも、祝福を喜ぶということです。私たちはただパンだけでは生きていけません。食べ物や健康だけではなく、生きる意味や愛や生き甲斐もなければ生きていけません。そして、自己中心な思いで自分を窒息させてしまう罪から清められることも必要です。次の祈りで祈るように、負い目を赦されることも人の負い目を赦すことも、どうしても必要なのです。イエスは、そのように祝福を喜ぶ者へと変えられる人生を、聖霊によって与えて、私たちを生かしてくださいます。