物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

「21世紀の資本」の意味すること

2015-02-26 11:46:00 | 日記
今日の朝日新聞にピケティの『21世紀の資本』について「注目の論点」というコラムにいろいろと載っていた。

私が問題としたいことはその内容ではないが、訳者の一人、山形浩生が「本書の力は何より実証の力だ。理論がどうであれ、データはこうなっています、といえるところに本書のパワーがある」「格差議論に多かった水掛け論や印象論を抑えて、今後の議論の基礎となるだけの力をもちえている」という。

これにはあまり異論がないが、飯田泰之が「最先端の数理モデルよりも地道なデータの収集が議論を決定づけるのは、かつての日本の経済学が得意としていた手法だ。それを私たちが忘れかけていたという事実に・・・気付かせてくれた」と述べるとき、認識論的な観点からちょっとした疑問を生じることを抑えきれない。

確かに 多量のデータが語るところはそのまま素直に受け取らなければならないが、そこで本質が尽きるわけではなかろうと思う。武谷三男の三段階論という認識論を踏まえて考えると現象のデータそのものがそのまま本質論であるというケースが本当だとは思えない。そういう可能性をまったく排除はしないけれども。

やはり最先端の数理モデルも必要であるだろう。もしそれが現実を分析するのに失敗をするのなら、新しい数理モデルをつくりなおすという風にことを進めるべきであろう。本質論へと進めるには数理モデルが必要であると考えるのが妥当であろう。

私は経済学者ではないので、何とも言えないけれども、飯田が指摘したような点を思い起こすことはそれなりのいい点ではあろうと考えはするが、そこでもし安心して追求を止めるのならば、本質的な経済学はできないと考える。


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