ゴータマ・ブッダの残した言葉として、「己を島とし、法を島とせよ。」という言葉が有名です。
つまりは、「他人や偶像を崇拝することなく、自分と法を頼りとせよ。」ということです。
しかし、人間は弱いもので、すぐに仮初めな教祖や偶像に頼りがちです。
なぜなら、その方が楽だからです。
私も自分で自分を律してはいますが、なかなかこれが難しくて困っています。
ですので、ブログで吐いたりしております。スミマセン・・・
「人生は一生修行」とは聞いたことはありますが、まさにその通りでまだまだ修行が足りません。
私は他人様より、ちょいとひどい目に遭っては来ていますが、
そこから「人が生きる何たるか」を摂取していかなければいけません。
法然は、「浄土には、学問が邪魔になる。ただ一心に信心しなさい。」という
趣旨の言葉を言っているが、この文明社会花盛りの世の中では目の前が惑わされがちです。
変な知恵がつくと、「一心」が難しいですね。
ひとつ間違えれば、「狂信的」と言われかねない。
しかしこの時代、しっかりとしたバックボーン(精神的支柱)が無ければ流されていきますね。
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つまりは、「他人や偶像を崇拝することなく、自分と法を頼りとせよ。」ということです。
しかし、人間は弱いもので、すぐに仮初めな教祖や偶像に頼りがちです。
なぜなら、その方が楽だからです。
私も自分で自分を律してはいますが、なかなかこれが難しくて困っています。
ですので、ブログで吐いたりしております。スミマセン・・・
「人生は一生修行」とは聞いたことはありますが、まさにその通りでまだまだ修行が足りません。
私は他人様より、ちょいとひどい目に遭っては来ていますが、
そこから「人が生きる何たるか」を摂取していかなければいけません。
法然は、「浄土には、学問が邪魔になる。ただ一心に信心しなさい。」という
趣旨の言葉を言っているが、この文明社会花盛りの世の中では目の前が惑わされがちです。
変な知恵がつくと、「一心」が難しいですね。
ひとつ間違えれば、「狂信的」と言われかねない。
しかしこの時代、しっかりとしたバックボーン(精神的支柱)が無ければ流されていきますね。
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自分的にはちょっと?という感じがします。
大切なことは、
自分と世界(宇宙)が繋がっているという感覚ではないかと思います。
曼荼羅に見らるような、宇宙的なものや
ただ、「個」に没入する「中国禅」、
我が身をゆだねる「中国浄土教」、
選択肢が増えたと言えば聞こえは良いですが、
学問的には、「大乗非仏説」というのが基本的なスタンスです。
ですが、私の今の捉え方では大乗は「佛教的ルネサンス」と捉えています。
話しは、飛んでしまいましたが、
たとえば、「中国浄土教」でいえば、阿弥陀仏信仰があります。
阿弥陀仏は、あくまでも入り口でその後ろには
「浄土」という宇宙的な広がりがあると考えられます。
「中国禅」にしても「内なる宇宙」を見て取れるのだろうと思います。
全ては、ブッダの体験をエッセンスとして広がって、
大乗が花咲いたといえるでしょう。
長文になってしまいました、すみません。