「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

読まずに死ねるか!(書評) 「精神分析新時代 岡野憲一郎 著」

2024年02月11日 22時53分36秒 | 読まずに死ねるか!(書籍紹介)
最近、知人にこの存在が知れてきてやりにくくてしょうが無い(笑)

…というわけで?今回は書籍紹介です。
岡野先生の「精神分析新時代」!
これは多分以前に買ったものを書棚の肥やしにしていたんだと思います。(肥やし豊富)
岡野先生の書籍は解離性障害の本とか外傷後精神障害とか読んでいます。この方の書き方は単語は難しも取っつきやすくて読みやすい。この先生の「お得意?」のトラウマ、解離性障害のことをページの多くを割いています。アメリカ留学時代に診察-カウンセリングを続けた男性の話は、若かりし岡野先生の焦りや青さなんかも書かれていて面白いし、過去にあった凄惨な事件の犯人の精神状態を体系化しています。
第17章死と精神分析では、「森田療法」の森田正馬氏が自分の死に向かう過程を弟子や患者に見せて、かの「森田先生」であっても今際の際に生に対する執着が出たり、おそらくは譫妄がでて取り乱すような所も見せている。ご本人も様々な死を見届けてきているであろうから、自分も取り乱すことを想定しながら望んだに違いない。「凡人の死をよく見なさい」と、そばにいる弟子に言いながらさめざめと言ったという。
この森田氏のエピソードから思い出したのは、アニメの一休さんで有名な「一休宗純」。もちろん室町時代の実在の僧侶で、その人生はかなり破天荒。酒、女、僧侶でありながら長刀や刀を持って歩くなどをして、しかし人望もあり当時の仏教界にもの申すような方だった。もちろん徳も高い。そんな「超」僧侶の一休宗純が死に際に「死にたくねぇ~」といって亡くなった。人間的な僧侶であろうと思う。
両者ともに様々な人の死に立ち会い、自分もそうであろうと思い、自分の番になった時は、主観/客観を持ち合わせながら亡くなっていったのではないか?
「最後の精神分析」ということか?

自分の死にかけたてICUの一晩目の夜には「あぁ、明日生きてないな」と思った。その時は怪我が大きすぎて執着が生まれる余裕もなかった。なにせ病気のように徐々に体力が落ちていって衰弱死するわけで無いので。これから必ず来る自分の死に際で徐々に体力が落ちて死ぬ場合は「死にたくねぇ~」とわめくかも知れない、きっとそうだろう。その時に自分を客観視できるか?試される。母親を病院で看取ったとき、衰弱していく過程でまだ体力があるときは「痛い・辛い」と言っていたが、それも出来なくなったときには、言葉少なくなっていったし大事な言葉をポツリポツリと言って、最後には穏やかに亡くなった。「痛い・辛い」というのは生への執着であろうし、その後は抵抗する力もなくなっていく。

臨床家が人間分析をする最大のものは、自分をどう客観視できるか?それが正しいのか?考察出来るということが最後の難関のような気がする。反面、カウンセリングルームや診察室でカウンセリングをする際に、「私がこの人を捉えている認識は正しいのか?」という第二の自分を隣に座らせるように接していかなければいけない、そういう慎重さが必要で慢心、驕りは禁物と言うことだろう。なにせ、最も身近にいる自分自身の事もよく分からないのだから、他人のことの10%も解っているのかね?
あなたのことはよく分からないけど、あなたに関心があります。知ろうとしています。」という気持ちとそれが実際に見える形で表すということが大事なんだろうと思う。






相変わらずの脱線振り、失礼しました。


この本、読まずに死ねるか!!




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