モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

青山二郎「眼玉が私でなければなりません」

2020年08月21日 | 「‶見ること″の優位」
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ブログタイトル:「侘びのたたずまい——WABism事始め」


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文芸評論家の小林秀雄を愛読している人の間ではよく知られていると思いますが、
小林に美術・骨董への関心を目覚めさせた人としていの一番に出てくるのが、青山二郎という名前です。
陶磁器・古美術の鑑賞家として知る人ぞ知る存在で、その鑑賞眼は友人・知人から“天才”と称えられていました。
戦前に朝鮮の古陶磁を大量に日本に紹介した業績がよく知られています。

青山二郎は文章も書いていて、作歌論としては小林秀雄、中原中也、梅原隆三郎、富岡鉄斎を論じたものがあります。
代表的なエッセーに「眼の引越し」「眼の筍生活」というのがあり、中公文庫からそれらのエッセー集が出ています。

この夏の猛暑の中、青山のエッセー集を何十年ぶりかで読み返したところ、「眼の引越し」の中に、へえー、こんなことを書いていたんだと面白く感じた一節に出会いました。
その文章に至る前は、「美が見える」と言うほどの人は誰でもその人なりの流儀でものを見ているはずである、しかし自分の眼玉で見たものをなぜ眼玉で受け止められないのか、それは「眼で見たものをただちに時間的なものに置換え、頭で判断する習慣があるからです」といった議論があって、以下の文章がそれに続きます。

「美が見えるというだけでの事では、簡単な頭の働きと、単なる眼の習慣に過ぎません。私が言いたいのは、人が放心状態の時に物が映る、あの眼玉の働きにも似ています。知り過ぎる程知っている友達の顔を、突然そこに見ながら、茫然と彼は一個の人間の顔を眺め出します。何の観念も働いていません。頭は今完全に静止しています。この場合、眼玉が私でなければなりません。下等動物のような眼が、自我を持たぬ眼玉という私に変じます。「黙って坐ればピタリと当てる」眼です。」 



今回面白く感じたのは、「人が放心状態の時に物が映る、あの眼玉の働き」という箇所、そして「知り過ぎる程知っている友達の顔を、突然そこに見ながら、茫然と彼は一個の人間の顔を眺め出します」という箇所です。
ここんところこのブログで私が書いている「ながめ」ということを、まさにドンピシャリと書いているように思えるのです。
古典和歌や平安期の物語によく出てくる「ながめ」という言葉は、意識の目覚めた状態であったり、意志をもって見る、ということではなく、
「ぼんやりと、じいっと一点を見つめ」たり「視線をさまよわせたり」しているような状態を言うことが多いのです。
頭が完全に静止し、何の観念も働いていない、自我を持たぬ眼玉という私に変じた状態で物をながめる――古代の歌人や物語作者はそのような状態で物を見ていた、
そのことを、人間の精神の活動としてとても意味のあることとして受け止めていたということが、青山の文章からとてもよく合点できたように思いました。

「日本の思想」というものも、そういう「ながめ」の在り方を原質として、そこから生まれてくるものこそがそれだというふうに考ることにしようと、私は今思っています。

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