モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

森と木を同時に見る——大塚勉の絵画

2020年09月01日 | 「‶見ること″の優位」
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ブログタイトル:「侘びのたたずまい——WABism事始め」


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四葉のクローバーを見つける達人とされる女子高校生が、クローバーの群生する野原で、ほんの数十分の間に四葉を50本ばかりも摘み取るのをテレビで見ました。
私などは、試みることはよくあっても、今までに見つけたことがありません。
しかし四葉のクローバーは意外とたくさん生えているものだということを、そのとき初めて知りました。

クローバーの野原を眼を凝らして見つづけていると、運良く見つけることができるのかもしれません。
さらに見つづけていると2本目が見つかり、さらに3本目、4本目と見つかっていって、
見つけ出す時間の間隔が次第に短くなってきて、しまいには、ここかしこにいくらでも生えていることが見えてくる。
そういう視覚能力のようなものを、その高校生は身につけたのだと推測されます。



そのように推測する根拠は私自身の経験にあるのですが、その経験というのは、
若い時分に知人に誘われて草原で山野草を摘んだ経験です。
最初に、これが山野草だと言われて草むらの中にその形をしたものを探し始めるのですが、
はじめのうちはなかなか見つけることができませんでした。
あきらめずにしばらく目を凝らしていますと、1本見つけることができ、
それで気を入れ直して探していると2本目が見つかり、やがて次々と見つかっていくようになっていきました。
そうなってくるとその山野草が、実はその草むらの中にいっぱい生えていることに気が付くようになりました。
その時に体験した不思議なことは、目的とする山野草が草むらの中に見えてくると同時に、その他の草花も、1本1本の形と共に見えてくるように感じられたことです。
最初はどれもみな同じように見えて区別できないように感じていたことが、さまざまな種類の草花が群生していることが見えてきたのです。

この体験から私は次のような教訓を得て、それ以来ものを見たり、アート作品を見たりするときのひとつの規準のようなものにしてきました。それはすなわち、
「部分と全体が同時に見えることが“見える”ということである」
というものです。
「木を見て森を見ず」とか「森を見て木を見ず」という格言がありますが、
実は草ではなくて、木と森を同時に見ることができることが“見える”ということである、ということです。

この話題になると、私がいつも思い浮かべる絵があります。
それは大塚勉(1949-1988)という画家が描いた絵で、いわゆる“まるで写真のような絵”ではあります。
一見スーパーリアリズムの技法で描かれた絵で、その“超絶技巧”に息を呑む人も多いかも知れません。しかし私はそういうふうには見ませんでした。
大塚さんの絵を見たのはただ一度っきりで、10年ほど前に奥多摩町の「せせらぎの里美術館」というところでたまたま見かけたのです。
私が息を呑んだのは、その超絶技法な描き方ではなく、それを支えている、部分と全体を同時に見る視力の深さのようなものです。
一本の花や草の葉をまるでそこに実物があるように精緻に描きながら、その視覚が同時に草原や山や渓谷などの風景全体に及んでいることです。
技法ではなく、「部分の中に全体を見はるかす」「全体を部分として見る」視覚の力によって、リアリズムを幻視のレベルにまで高めていくような創造力に圧倒されました。
1本の草の茎の線のゆらぎが、そのまま宇宙の気息を伝えてくるような、そのような描き方です。
それはあたかも「一つ一つの微塵の中に一切の法界を見る」ことを唱えた仏典の華厳経の宇宙観に触れるような思いでした。

美術館は多摩川の岸辺にあって山の気に包まれていましたが、
展覧会を見終えて館の外に出ると、草木の見え方が一変してとても新鮮に感じました。
絵の力が私の視覚に新たな気を吹き込んでくれたのですね。
これこそがアートの力だとつくづくと感じたものでした。
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