空とか無限といったことが人間の意識のはたらきにおいてどういう意味を持つのかということをあれこれ考えてきて、
それらが結局、意識の成り立ちに深くかかわっているということがだんだんと納得されてきました。
特に思考作用――「論理的に考える」という場合の“論理”の組み立てと可能性を探求していく上で、
空とか無限といった概念が不可欠であることがわかってきます。
たとえば数学基礎論としての集合論において、「空集合の存在」ということが公理の一つとして立てられたり、
通常の集合においては、「集合の全体はその集合の要素に含まない」(自分自身を要素として含む集合は無限集合となる)といったことは、
“論理的思考”ということを可能ならしめる不可欠の条件であるということです。
そういったことを主張している論理学(特に数理論理学と呼ばれる分野)という学問は、
“考える”ということの仕組み自体を分析しているように感じられます。
ですから“考える”ことを人間の意識のはたらきの特徴であると見なし、
そして「人間は考える葦である」とするならば、人間の存在は“考える”という機構の中に描写(観照)していくことが可能である、という話にもなってくるわけです。
フランスの現代哲学の主要な学者の一人であるアラン・バディウは、
ハイデッガー以来の存在論哲学の分野で、数学的な論理世界を適用して新たな存在論の地平を切り開いている人と目されています。
存在論を主題とした著書に『推移的存在論』や『存在と出来事』があります。
バディウの現代数学への関心は、
「数学はその歴史的生成の全体において、〈存在としての存在〉について言いうることを言明しているのだということである」
というところにあります。
これは私自身の数学への関心を裏付けてくれました。
率直に言って、『推移的存在論』『存在と出来事』はとても難解な哲学書です。
数理論理学が精確に理解されていないと読みこなすことは不可能といっていいでしょう(日本語の数理論理学のテキストは、著者の理解度においてアヤシゲなのが多いので、バディウは理解できないと思います。)
空(集合)と無限についてのバディウの議論の一端を紹介しておきましょう。
先に“無限”に関して――、
論理学における「集合の全体はその集合の要素に含まない」に対して、バディウの関心は、「集合の全体もその集合の要素として含む」集合(無限集合)に向けられています。
これは、所与の集合(状況)から新たな集合(情勢)が発生してくることに関心が向けられているからで、
これを「超過点の定理」と呼んで、次のように命題化しています。
「一個の集合の下位集合(部分集合の集合・筆者注)からなる多[冪集合]は、最初の集合に属さない多を少なくとも一個はどうしても含まざるをえない。」
そして、論理学における、「集合の全体を要素として含まない集合」と「集合の全体も要素として含む集合」(無限集合)の区別を次のように記述します。
「自分自身に属さないという特性(-(β∈β))をもつ多性(集合・筆者注)を通常の多性と呼び、自分自身に属するという特性(β∈β)を出来事的多性と呼ぼう。」
次に、“空(集合)”に関して――、
集合論における第2公理「空集合の存在」(集合は空集合を含む)は、次のように捉え返されます。
「――空はあらゆる集合の下位集合(部分集合の集合)である。それは普遍的に包含されている。
――空は一個の下位集合を所有するが、この下位集合は空それ自身である。」
ここから以下の命題が導き出されます(その経緯はいささか長く、且つ論理学の理解が要請されるので省略します)。
「空はいかなる要素ももたす、したがってそれは現前化不可能なものである。われわれは空の固有名にのみかかわるのであり、この名は存在をその欠如において現前させる。」