モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

Ⅰ‐4 近松門左衛門「心中天の網島」ー"叔母”的なるもの

2021年03月06日 | 日本的りべらりずむ

遊女小春と、紙屋治兵衛の妻おさんの間で交わされた約束を果たそうとして二人の間に生じた互いの義理立ては、
「女同士の義理」という江戸時代前期の“世間”において特異なモチーフとして『心中天の網島』のドラマツルギーの核をなしているわけですが、
これはまた、遊郭という苦界に生きる遊女と商家のお内儀という、身分制度の上での差別的な関係に置かれていた二人の人間の間での義理立てという側面も伴います。
なので、単に“女”という性的な特殊性とか、差別的な位置関係における特例的な出来事といった特異的な事象性を超えて、
人間と人間の間に起こった義理立てとして、一種普遍的な人倫の姿として伝わってくるのです。

近世演劇・文芸の研究者であるとともに近松浄瑠璃の研究にも業績を遺した広末保も、小春とおさんが「女同士の義理」を立てようとしたことについて
「妻対遊女という関係を越えて、対等の女対女の関係に立つということであった。現実の制度的な上下関係を越えた人間関係を結ぶということであった」
と評しています。
戯曲ではこの義理立てによって、治兵衛、おさん、小春の間の三角関係が一瞬解消されるような幻想が治兵衛とおさんの間で共有されます。
広末はしかし、おさんにとってはこの義理立てを貫くことは、治兵衛の妻の座を失うという自己矛盾を抱えることになると見立てています。
私はむしろ、近松はこのシーンを書くことで、時代の限界を超出するヴィジョンを幻視したのではないかという可能性を考え、
そこに近松の意識のりべらる性を感じるのですが、いかがでしょうか。



「女同士の義理」のモチーフもそうですが、近松の戯曲の全体を通して、女性の主体性というか、
存在感のようなものが、男性のそれと比べて優位的に捉えられているように感じられます。
特に、いわゆる“叔母的なるもの”というカテゴリーが立てられそうな趣を感じます。
『天の網島』で言えば、おさんの実父五左衛門の妻すなわち治兵衛の叔母がその例です。

当ブログの前回、「世間の言い分」という表現を提示しました。
登場人物がそれぞれの言動をもって「世間の言い分」を表明するのですが、
治兵衛の叔母がおさんに垂れる説教というのが(当時の世間知としての)一番道理が立っていて、人を説得する訴求力を有しています。
こんなふうに言うのです。
「これ、おさん、いかに若いとて、二人の子の親、結構(お人よし)なばかりみめ(名誉)ではない。男の性の悪いはみな女房の油断から。身代やぶり(破産する)女夫別れ(離婚)する時は、男ばかりの恥ぢゃない。ちと目を明いて、気に張りを持ちやい」

“叔母”的な役割の人物が登場する心中ものでは、たいていこの“叔母”が主人公に教訓を垂れたり、便宜を図ったり、急場を援けたりするので、
主人公は基本的には“叔母”に対して恩義を感じたり、頭が上がらない思いを抱いています。
『卯月紅葉』『心中重井筒』(ここでは嫂)『心中万年草』『心中刃は氷の朔日』『今宮の心中』(ここでは商家の隠居)『心中宵庚申』(主人公の養母)などに登場してきます。
晩年の傑作『女殺し油の地獄』のお吉は叔母ではないですが、“叔母的なるもの”の役割を担っています。
そしてこの戯曲では主人公に殺されてしまいます。

このドラマは、“叔母的なるもの”が実は近松自身の中に在って、彼の人生を規制してきたことをうかがわせます。
言うならば、エディプスコンプレックスならぬ、“叔母”コンプレックスが近松の中にあって、
それを殺害してしまうことは、当時としては人間の深層意識の世界を切り開いていくような先端性があったのではないかと考えたりします。

近松の“叔母的なるもの”から私は、桃山期の文化人、本阿弥光悦の母親の妙秀のことが連想されます。
彼女のことは本阿弥家の人々のことを記録した『本阿弥行状記』に、さまざまなエピソードが紹介されています。
徹底的な場合によっては逆説的にも聞える合理的な考え方を実践し、
道徳的にも厳しい姿勢を貫いて、刀剣鑑定を生業とする商家を取り仕切った人で、
商家のお内儀の鑑として、後世の人々に尊崇されてきた女性でした。

妙秀の生き様は、さらに溯って、商業活動が盛んになり庶民(商人)の間にも“家”の制度が形成され出した中世期の女性たちの人生観につながっているように感じられます。
網野善彦の『無縁・苦界・楽』には、次のような記述があります。
「まず、「職人」には、女性が極めて多い。(中略)
 …女商人といっても、たおやかな近世以降の大原女の姿をこの時代の人々にあてはめて考えるのは、大きなあやまりを犯すことになろう。(中略)南北朝ごろまでのこうした女性たちは、たくましくも自立的であった。」

近松における女性の主体的な生き方や“叔母的なるもの”にはこのようなバックボーンが控えていると想像してみるのは、文学鑑賞の醍醐味とも言えます。
それが見当違いでなければ、近松は小春やおさんの人格を形象してきた過去の歴史と向き合っていると考えることもできるでしょう。
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