浄瑠璃には時代物と世話物の二つのジャンルがあります。
世話物は、台本が書かれた当時と同時代が舞台になっている劇、今で言う現代劇で、
近松門左衛門によって始められたと言われています。
『曽根崎心中』がその第一作です。
世話物の世話とは世間の話という意味ですから、世は世間を意味すると思っていいでしょう。
近松の心中ものの中でも最高傑作とされる『心中天の網島』は、遊女小春と紙屋治兵衛の心中事件を戯曲化したもので、
その顛末が話の軸になっていることは言うまでもありません。
が、ひとつの試みとして、世話物の意味に即して“世間”というところに光を当てて読んでみるという手もなくもないと思われます。
そのつもりで読んでいくと、この作品の“世間”の描き方というのは、
確かに最高傑作との評価を受けるに値する完成度に達していると言ってよいでしょう。
事件の起こった時代は元禄期ですが、その当時の上方の市井の様子が、登場人物のふるまいや、
交わされる会話や、また場面の背景として描かれるディテールなどを通して精緻に描かれています。
そして、治兵衛を囲む、妻おさん、兄粉屋孫右衛門(元武士)、叔母、五左衛門(おさんの実父で叔母の夫)といった主だった登場人物の配置は、
近松心中ものの世界を典型的・象徴的に表していると言えます。
小春・治兵衛の物語として読むぶんには観劇者(読者)の同情はこの二人に向かっていきますが、
“世間”の反応を主役にして読んでいくと、登場人物たちの発言や行動はいずれも筋が通っていて、
小春・治兵衛の二人だけ(後半にはおさんも加担してきますが)が世間の道理から逸脱していることが分ります。
その二人でさえ、生活者・職業人としての意識は“世間”の規矩に準じているのです。
この意味では、物語の前半においては小春・治兵衛・おさんの三人も、
“世間”という絵模様の一つの図柄として語られていると言えます。
十数作の心中ものを通して、世間から逸脱して死への道行きを突き進んでいく男女の姿に近松のある種の共感が向けられていることは間違いありませんが、
小春・治兵衛の場合は、“世間”の目からすれば、欲望に溺れた自業自得な男女の哀れな顛末としか見えなくもありません。
前半は、いわば‟世間の言い分”が表記されていると言えるわけです。
とすればいったい何がこの作品のドラマ性を生み出しているのかを考えてみると、
「女同士の義理」というエピソードが、この心中事件のインパクトのあるモチーベーションをなしていることに気がつきます。
「女同士の義理」とは、おさんが小春に手紙で「夫の命を助けて」と懇願したのを小春が「治兵衛のことを思い切る」と返事して、その約束を守り通そうとすることが小春の命取りになっていく、という話なのですが、
おさんは、死を選択するしかなくなった小春を救わなければ「女同士の義理」が立たないと考えて、
真相を知った治兵衛とともにその算段をしていこうとする(3人の三角関係もどうにか解決していこうとする)のですが、
そこへ実父の五左衛門が登場して、「女同士の義理」が引き裂かれていく流れになっていきます。
まさにここから、小春・治兵衛の心中への道行きが始まるわけです。
かくして後半(下の巻)は小春と治兵衛の道行きが語られていきますが、ここからは二人だけにスポットライトが当てられていきます。
このように読んでいきますと、話の全体の流れは、“世間”という絵模様を描いていく前半から小春・治兵衛の二人の世界へ、
そして終局の心中の場面では死に場所を違えて、個々別々に死んでいく形がとられます。
首を吊って死んだ治兵衛の死体は「なり瓢(ひさご)、風に揺らるるごとくなり」と表現されて、即物的な描写に衝撃を受けます。
100年前のイギリスではシェイクスピアが一個の“個”が発する「To be or not to be ?」からはじめて、
精神の世界の深みへと視界を深めていくのに対して、
人間の実存を凝視する近松の眼は、晩年の作の『天の網島』においては“世間”から始まって、
究極には一個の“個”へと行き着いていくわけです。
(さらにその先には、『女殺油地獄』の不条理の世界が待ち受けています。)
この意味でも、シェイクスピアと近松は対照的であり、私個人の見解としては、
近松の方に人間観察のよりラジカルな先鋭性を感じます。