モノ・語り

現代のクラフトの作り手と作品を主役とするライフストーリーを綴ります。

日本的りべらりずむⅧ 久隅守景「納涼図屏風」の‶りべらる″感④自己の像に向き始める 

2022年04月12日 | 日本的りべらりずむ

一見家族のようにも見えるこの3人は果たしてどういう人たちなんだろうかということについて、ここでまた若干の検討をしておくことにします。

有力なのはやはり家族説で、しかも守景の家族とするのが自然な受け止められ方のようです。

守景には二人の子供がいて、上の子は雪という名前の娘、下の子は彦十郎という名の息子です。

二人とも若いときから絵師を目指し、守景と同様に狩野探幽に師事して研鑽を重ねていました。

雪は成人して清原家に嫁いで清原雪信という画名で創作を続け、彦十郎は師の探幽守信から一字を拝領して守則という画名を名乗っていました。

雪信は生前中から評判の高い絵師だったようですし、守則もそこそこの評価をえていたようです。

ところが二人とも醜聞事件を起こして狩野派を破門される羽目になります。

雪信は別な男性と通じ別宅をしたという説がありますが、正確な事実は伝わっていません。

守則は悪所(吉原)通いを重ねて探幽に勘当され、佐渡島に配流されます(のちに赦免されますが、そのまま佐渡に)。

雪信、守則の不祥事が守景にも影響して、守景自身も狩野派から破門される憂き目に遇い、後半生は狩野派から離れてフリーな立場で創作がつづけられます。

「夕顔棚納涼図」のモデルを守景の家族とする解釈では、男性は守景自身、女性は雪信、童子は守則ということになりますね。

彼らは揃って同じ方向に向いて何かを見ています。

絵のタイトルや画面左に満月が大きく描かれていることからして、月見をしている図であると考えるのが穏当なところでしょう。

すこしうがった見方をすれば、3人とも狩野派を破門された絵師であるということで、狩野派とは違った水墨画の可能性を夢見ているのかもしれません。
(何を見ているかについては、次回のテーマ)とします。)



ここでひとつ留意すべき事柄があります。

それは、これがもし守景自身の家族像であるとするならば、一種の自己像とみなすことができるわけですが、
絵師が自らをモデルとした作例がそれまでの水墨画の歴史にあっただろうか、ということです。

絵師の自画像といえば、守景以前では、一般向けの日本美術全集レベルの画集では雪舟とそのあとの時代の画僧 雪村(周継)ぐらいしか思い当たりません。

しかも雪舟の場合は、いわゆる頂相(ちんそう)と呼ばれる、禅宗の高僧を偶像風に描写する枠内のもので、
雪村に至って、偶像風からちょっとズレて、自分の姿をリアルに再現しようとする志向が見られるぐらいしかありません。

考えてみれは、江戸期あたりまでの絵師は職人なので自己自身に向き合うなどといった意識は持ち合わせてなかったと考えられますし、
絵画の社会的ニーズとして絵師の自画像など享受者の意識に上ることはなかったと考えるのが自然かと思います。

そのように考えると、守景の「夕顔棚納涼図」は、作者自身をモデルにしているという意味でも、日本美術史上新たなステージに入っていきつつあることを告げるものと考えることも可能.です。
(しかし絵師が自画像を描き始めるのは、少なくとももう100年ぐらい後のことになるようです。)


ここで私はモデルについてもう一つの、私の知るかぎりではまだ他で聞いたことがない案を提示したいと思います。

それは、同じ守景の家族ではありながら、守景の幼少時を追想したものではないかということです。

すなわち、男性は守景の父親、女性は母親、そして童子は守景自身ということですね。

このように解釈すると、作者自身の自己像をモチーフに取り上げるという意識は、より生々しく感じられてきます。

そのようなわけで、「夕顔棚納涼図」は日本の絵師が自己意識に目覚め始めたことを示す最初の作品としての意義を有していると考えることもできるでしょう。

身分制社会における下層階級の人間をモデルとし、しかもそこに自己自身の姿を見出そうとする意識の表出において、実に画期的な作品であると私は思うのですが、いかがでしょうか?
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