私の好きな遍路道(2) 土佐

私がお勧めする遍路道(つづき)
土佐



右に山左に海・・徳島と高知の県境から室戸岬まで40kにも及ぶこの単調な道は四国の遍路道の中でも最も特徴的な道であるかもしれません。
野根で高知に通ずる旧街道であった野根山街道を分けると、それより先は西に通ずる古道、旧道は見られません。無理やり一つあげるとすれば椎名の先、昔「日置坂」と呼ばれた道がありその一部は昭和の始めまで旧国道として使われていた道。
今は鎌でも持たないと通行困難な道となっていますが、途中から日吉神社の参道に繋がり国道に下りることができます。もちろん通行をお勧めできる道ではありません。

1、奥の院四十寺への道、それから・・ 地図:土佐「室津・四十寺付近

東寺(最御崎寺)は最初四十寺山山頂にあったと言われます。そのため24番奥の院とも。
四十寺へは以前稲石寄りの入口から上っていましたが、その後南側に新道が開かれました。どの市販の地図にもその道筋が正確に示されることのない不思議・・
もう一つ、昔26番金剛頂寺の奥の院であったとされる池山神社への道。御神体も山下に下され、金剛頂寺でも参拝を勧めません。かなり荒れた道で、どうしてもということであれば、地元の道情報に十分注意されますよう。(該当遍路日記は「平成24年秋その3」他。)

2、神峰寺への道、まっ縦と四国のみち。 地図:土佐「神峰寺付近

唐浜から神峰寺への道は古くより「まっ縦」と呼ばれました。今はその大部分が車が通れるヘアピンカーブの舗装道に変わり、呼び名から想像するほどの急坂ではありません。むしろ、残された昔からの土道は大事に維持してゆきたい道だと思わせられます。
江戸時代の記録に見られる神峰寺の本堂(観音堂)は今の神峰神社の本殿そのもの、または同所ですから神峰寺を越えてそこまでは歩きたいものです。そこまで行けば山頂(標高570m)にある展望台まではあと少しです。展望台からは左手に羽根岬、行当岬さらに室戸岬、右手には八流、手結岬そして高知の浜まで見渡せる絶景が得られます。
神峰神社に上がるもう一つの道は安田からの「四国のみち」。唐浜からの道より2倍近く長くなりますが、急坂が無く上るに楽な道です。間下から上がる道が合流すると丁石も見られるようになります。安田川上流地域からの古くからの参道であったと思われます。
(該当遍路日記「3巡目第3回その1」他)

3、琴ケ浜の浜の道、段丘の上の殿様道。 地図:土佐「赤野付近」「夜須付近

今は安芸の市街から西は海岸を通る自転車専用道路が遍路道に充てられています。その道は夜須の手前まで繋がっています。
自転車の通行は少なく実質的には歩道であり、土佐くろしお鉄道、ごめんなはり線の赤野駅を過ぎ琴ケ浜付近の松林の中と砂浜に沿った道は素晴らしい道です。
しかし、当然のことながら江戸時代以来の道はこの道ではありません。高知に通ずる街道であり、「殿様道」と呼ばれていた道。現在の国道より更に一段高い段丘上を通っていました。この旧道は寸断されながらも残っています。八流の段丘上の畑中の道や茶屋もあった手結山付近の道などです。
そういう道を畑にいる地元の人に尋ねながら歩いてみるのもよいものだと私は思います。
(該当遍路日記「平成24年秋その3」他)

4、高知近郊の古道、点々。 地図:土佐「赤岡付近」「土佐山田付近」「国分寺付近」「高知市内」「五台山付近」「峰寺付近

赤岡から28番大日寺、29番国分寺、30番善楽寺そして31番竹林寺への遍路道の道筋は基本的には今も昔も変わりませんが、高知近郊の道整備により江戸時代以来の古道は新道の辺りに細切れの状態で残されることになりました。古道の傍らには古びた標石がその存在の証のように残されています。その道筋を辿ってみましょう。
野市の石家で国道を離れた道は烏川の左岸沿い切石山の麓を経て今も大日寺の手前に残る土道に繋がっていました。今はこの道の一部は「のいちウオーキングトレイル」の一部ともなっています。
大日寺を出た道は物部川を今の戸板島橋の南、蓮光院地蔵堂の所で渡っていました。松本大師堂の辺りは真念石も残る昔からの道筋と思われます。
「へんろ石」の字名の語源、天文3年の標石から国分川河畔の文化7年の地蔵まで古道の断片が残ります。
国分寺を出た道は笠ノ川川を渡り岡豊城址の北で北山道(土佐北街道)に繋がっていたようです。北山道は今の県道384号の直道の周囲を南から北へ、定林寺の山裾の道です。
善楽寺から五台山へは高知城下を迂回する道と直接行く道の二筋。
五台山へ直行する道は土佐神社のお旅所を左折、国分川を渡り田辺島地蔵堂へ、次舟入川を渡り高須へ。ここからは今の遍路道の通り五台山への上る山道です。
竹林寺の先もちょっと加えておきましょう。
32番禅師峰寺への道は下田川土手を行き芦ケ谷の大師堂を経て、今の十市小学校の横から山道を登るのが古い道のようです。
大日寺から高知の市街地を掠めて禅師峰寺まで古道を辿ってみました。間違いがあるかもしれませんが・・古道を訪ねて右往左往するのも楽しいものです。なお地図上では細赤点線で示しました。(該当遍路日記は「平成24年秋その4」他)


5、青龍寺への峠道、塚地峠、龍坂他。 地図:土佐「塚地峠付近」「青龍寺付近

清滝寺から36番青龍寺ヘ行く道は先ず塚地峠を越えます。昔は宇佐坂とも呼ばれていたようで、多くの標石、遍路墓が残ります。峠の下りにはやや稚拙な彫りながら摩崖仏も見られます。
今は峠のすぐ上に展望台、茶臼山への登山道にも繋がります。
浦ノ内湾口を宇佐大橋で渡りますが、昔は当然、井ノ尻の渡し。
青龍寺へは大師堂を経て龍坂を越えます。この峠にも丁石や遍路墓が残ります。新四国仏が並ぶ道を行き青龍寺。寺の石段は江戸期の貴重な遺構。ここから奥の院不動堂、虚空蔵菩薩への道も趣あるいい道。
一つ峠道を加えておきましょう。昔、福島の先は「埋立」の地名が残るように崖で海岸の道はありませんでした。青龍寺を打ち戻った遍路は陸路の場合、灰方坂を越えていました。この道、峠までは茶臼山へのハイキングコースの一部になっており整備されています。
なお、灰方の先横波までの古道、高祖への峠道、立目への峠道はいずれも通行困難と思われます。
(該当遍路日記は「平成24年秋その5」)

6、岩本寺への峠道、焼坂、添蚯蚓坂、大坂。 地図:土佐「須崎・安和付近」「久礼付近」「七子峠付近」 

澄禅はカトヤ坂(角谷坂)の峠から見渡して「谷ヲ隔テ向ニ焼坂トテ跡ノ坂ニ十倍シタル大坂在リ・・土佐無双ノ大坂也・・」と書き、そのそえみみず坂にかかり「焼坂ニオトラヌ坂ヲ一里斗モ有ント思シキヲ越テ・・」と続けています。足の強い江戸時代の人にても、この辺りの坂がいかに厳しいものであったかが分ろうというものです。
その時代、土佐往還と呼ばれた主道は、焼坂、添蚯蚓(そえみみず)坂を通る尾根越えの道であったのです。その厳しさを和らげるため、後に大坂道が開かれたと思われます。
焼坂は遍路道を芯としてヘアピンカーブを繰り返す未舗装の車道が取り巻くという不思議な形態の道。この車道は明治期に開削された県道であったようです。
遍路道は近年の台風で損傷を受けました。その道の復旧はボランティアの手に委ねられている様です。最近の気象条件の厳しさに対応したルートの変更が望まれているのかもしれません。考えさせられます。
添蚯蚓坂はその入口付近を高知自動車道が交差し、階段の道になっているのが残念ですが、まさに土佐最長の峠越えの土道です。標高409mの最高点の少し手前に、あの高田屋嘉兵衛が建てた海月庵の跡があります。そこにあった聖心の標石は岩本寺境内に移されています。
添蚯蚓坂に比べ大坂道は急坂区間が短く、ずっと楽な道です。この道は坂道よりもそこに至るまでの花と緑が溢れる人里の風情が堪能できる道であるという気がします。
(該当遍路日記「平成25年秋その2」「3巡目第5回その1」他)

7、仁井田五社への四万十川沿いの道。 地図:土佐「影野付近」「仁井田付近」「窪川付近

七子峠から影野に下る旧道もよい道です。影野から岩本寺へ行く多くの遍路は国道56号を辿っていますが、もう一つの道として影野から右に道をとり四万十川の近くを通り仁井田五社(高岡神社)へ行く道(四国のみち)を私は勧めます。笹の越トンネルの手前に天然記念物「ヒロハチシャノキ」を見ます。
やがて壮大な四万十川河畔。秋には川の周りの田圃は黄金の稲穂とその狭間の彼岸花。
西川角には仁井田五社の一の鳥居があります。国道56号の平串に昭和に建てられた高岡神社の鳥居がありますが、仁井田五社への古くからの参道は西川角から四万十川に沿う道であったと思わせられます。素晴らしい道です。
(該当遍路日記は「3巡目第5回その1」)



8、市野瀬から伊与喜への道、国道か四国のみちか・・ 地図:土佐「峰ノ上付近」「拳ノ川付近」「熊井付近

市野瀬から伊与喜まで国道56号を通るか、あるいは伊与木川右岸の道(「四国のみち」)を通るか迷うところです。四国のみちの方が若干長くなるものの車の通行は少なく、神社や学校や人家が点々と見られ、生活の中に生きている道という感じがする楽しい道です。
最近は(途中からを含めて)こちらの道を通る人が増えているのかもしれません。一方、国道の方は昔の往還道の大方がこちらの道筋であったという大義を持ちます。
拳ノ川で川の流れに沿って道が大きく迂回する箇所は昔、辻越坂という峠越えの道があり一里塚が置かれていたようです。(その先一里の「シダ坂」にも一里塚があった)この峠越えの道、倒木などで通行困難な時が多いようですが、折角旧往還道を辿るのですから可能なら通りたいものです。
(該当遍路日記は「3巡目第5回その2」)

9、入野の浜の道、日が輝く・・ 地図:土佐「入野付近

鞭(ぶち)の大師堂を過ぎ、吹上川に架かる月見ケ橋を渡り入野松原の浜の道に入ります。昔の往還道も今の遍路道も浜より上がった段丘上の道ですが、できればもっと海辺に近い浜の道を歩きたくなります。
蠣瀬川河口までの約3kの間ですが、輝く海、波、静かにたゆとう入江、深い松原・・遠い昔に出会ったような情景のような素晴らしい道行きです。(私の日記「平成25年秋 その3」の写真でその片鱗を見てください。)きっと、外国人のサーファーにも出会えることでしょう。

10、伊豆田坂、開かれた昔の遍路道。 地図:土佐「津蔵淵付近」「市野瀬・成山付近

江戸時代初期、澄禅が「イツタ坂トテ大坂在リ、石ドモ落重タル上ニ大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。」と書いた伊豆田坂。台風の後の様子らしいとは言え、相当な悪路であったようです。その150年後の「四国遍礼名所図会」にも出てきますから遍路は必ず通る道であったのでしょう。それはこの先に真念庵が置かれたことも大いに影響したと思われます。
清水往還道の一部とも言われますが、その主道は立石、布と半島の海辺を周る道であった可能性もあると私は思っています。それはともかく、峠には茶屋も開かれ賑わっていたようです。
その道が、昭和34年の旧伊豆田トンネル開通以降半世紀に渡り忘れられた道となっていたと思われます。私は2010年、逆打ち方向で道なき道を尾根まで上り茶屋跡に到達しました。(遍路日記 3巡目第4回 その5) そしてその数ヶ月後、東京のMさんをリーダとする方々が草や竹を切り道標を整備し通れる道として整備されました。Mさんたちは今も整備を続けられています。ありがたいことです。でも、そのことに対する反発もあるようです。維持管理をどうするか、は土道の遍路道が抱える最大の課題かもしれません。

11、足摺遍路道点々。 地図:土佐「久百々付近」「大岐浜付近」「土佐清水付近

久万地崎辺りから眺望した久百々沖の岩礁、波、遠くの足摺の山影。この風景は足摺遍路道を巡る者に特別の印象を与えているようです。
続く大岐の浜。昔の砂浜はもっと沖に張り出していて、今と同じように浜辺の砂道と山道があったようです。山道は今の国道の東、「芝」の地名が残る辺りか。
ここはやはり浜の砂道を歩きたいものです。永遠のように繰り返し寄せてくる波の様をいつまでも眺めていたい。四国の遍路道の中でも最も素晴らしい道であると私は思います。(遍路日記の写真:平成25年秋 その4
以布利の港から遍路道へ。山道入口の仏海の地蔵の優しい表情。「道しるべ地蔵」とも呼ばれるように道標でもあります。「あしすりへ三り五丁」の刻字も見落とさぬよう。
県道27号と347号の分岐の先の土道。足摺遍路道で最長の(3kあまり)旧道です。道なりに海蔵院へ参るには必須の道ですが、上り下りを繰り返すかなりきつい道。海が殆ど見られないし、山道好き以外には勧められない道であるかも。

12、土佐清水から月山をまわる道。 地図:土佐「下益野付近
竜串付近」「小才角付近」「月山付近

土佐清水の街を出て落窪の海岸を歩くと見事な石の縞が並ぶのを見ます。化石漣痕だといいます。もっと近くで見たいと思っていました。
国道321号は落窪から三崎まで海岸から離れ内陸を通ります。この間の海岸は50mを越す崖。しかし海辺には浜もあります。昔の人はここを歩いたということを聞きました。私は、干潮の時間であることを確認して歩いてみました。
漣痕の直ぐ傍、岩、砂利、砂浜・・道はありませんが歩けます。当然、ここはお勧めはできませんけれど・・
下川口から大浦への道は、これまで三度姿を変えてきたと思われます。最初は入江の浦々を繋ぐ山越えの道、次は海岸の崖に沿う道、そしてトンネルの道へと。いずれの道も残っていて今も通れそうです。海岸の道は崩落箇所もあるようですが。
その最南端、灯台もある叶崎。岩に当たり渦巻く波は空気を取り込んで見事な明青色を呈します。この辺りでしかみることのできない波の饗宴です。
大浦から月山神社を経て赤泊の浜に行く道は、旧往還道を繋ぐ山道であったと思われような荒れた道。道標や地蔵をみることも稀なことです。土台、この月山神社を周る道、江戸期、明治期を通じて足摺打ち戻りに納得しない特別の遍路が何かを求めて辿った道であるように思えます。
赤泊の浜に立つとそこは寂しく何処か恐ろしい感覚を拭うことができません。それは西を向いた山影の浜の所為なのでしょうか。
(該当遍路日記は「平成25年秋その5」他)

13、三原から地蔵峠を越える道。 地図:土佐「市野瀬・成山付近」「地蔵峠付近

三原村上長谷にある特に著名な真念石、そこに「右遍路みち 左大ミつのときハこのみちよし」と刻まれ、また「道指南」には「上ながたに村しるし石 いにしえハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし」と記されています。この意味。39番延光寺行くには、左清水川を経るのが古くからの道筋であったが、今は右に行き地蔵峠を越える道が出来た。ただし、峠を越えた江の村の川(今の中筋川)が氾濫したときは左の古い道がよい・・と言っているようです。
地蔵峠を下る道は、平成15年「へんろみち保存協力会」によって復元された道、上記の右道です。右側が深い谷という地形から路肩が失われ易い道ですがよく維持されています。
峠の地蔵(?)も下った所の大師堂も独特の趣を持ち、見逃せないものだと思います。
この道の前、真念庵から上長谷の道で、私見ながら必見のものについて一言。
成川の手前の伊豆田神社。古式の石段は圧巻。成山峠道と出口の「政吉の手指標石」。その道に続く長谷川左岸の山際の旧道。
(該当遍路日記は「平成25年秋その7」他)

14、有岡を通って延光寺へ行く道。 地図:土佐「有岡付近

地蔵峠を越えて江の村へ下った遍路の多くは新しくできた「中村宿毛道路」の側道など(協力会ルート)を経て平田に向かっているようです。
このルート、近道ではありましょうが、江戸時代以降多くの遍路が辿った道とはかけ離れています。このことに反発して古くからの道筋を紹介しておくことにします。それは、中筋川を越えて、有岡、焼米坂、長尾、車岡を経る国道を主体とした道です。
立派な神社もあり、多くの道標がすっかり姿を消した遍路を寂しげに待っているように思える道でもあります。
(該当遍路日記は「平成25年秋その7」)


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