《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

近代城・郡山城

2015年10月26日 | Weblog

中、辰巳、戌井などの郡山衆と呼ばれる武士団が館を構えていたが、
天正8(1580)年に筒井順慶が今の郡山城の南方と推定される位置に築城した。
順慶死後の天正13(1585)年に豊臣秀長が郡山城に入城、
大和、紀伊、和泉の百万石の居城として大規模な築城が行われた。
秀長死後増田長盛、江戸時代に入ってからは水野、松平、本田などの諸大名が入り、
亨保9(1724)年柳沢吉里が封ぜられ幕末まで柳沢十五万石の居城として続く。
彼らは自分の城ではなく、徳川幕府の「局長」としてそれぞれが郡山城へ転勤(?)してきたのだ。
このような見方をすることにより古代城・多門城と近代城・郡山城の「城」としてのあり方の違いが理解もでき、
その両方の城が奈良にある。(画像は修復中の天守台)奈良市埋蔵文化調査センター


松永久秀と多門城

2015年10月24日 | Weblog

11月3日まで奈良市埋蔵文化調査センターで「近世奈良の開幕・多門城と郡山城」と題した
秋季特別展が開催されている。従来、権力者は田、地域の支配をするための城としていたが、
大和に入った松永久秀は社寺の都であった南都奈良に本格的な町、道(流通)を支配するための城を、
佐保山の東南に多門城を築城した。
この多門城は戦の「火矢」から火災を防ぐため屋根を瓦葺に、そして塀は火災は勿論の事、
鉄砲の弾の貫通を防ぐ白壁を採用し、今までの城の概念を変えた最初の支配者とされる。
この多門城に対する考えは織田信長の安土城に引き継がれる。
(画像はパンフレットの表紙・多門城に葺かれていた瓦)