《河童》の旅メモ

富雄川流域探索

富雄川流域探索「葛上(くずがみ)神社1」

2021年05月17日 | Weblog

富雄川にかかる「藤宮橋」を西に渡ると石の鳥居と
その奥に大正15(1926)年5月大阪・天満市場村井組と
大阪・山熊会(共に世話人・前川嘉雄)献納の、
高さ2メートル余りの神前型の石燈籠がある。
その先60段の石段を上がると左側に社務所、
時計回りに籠もり所、拝殿その奥に本殿四社殿があり、
その右側には三集所、その隣に浅間神社の祠がある。
本殿の前には♂♀一対の狛犬があり、
左右奥には元禄8(1695)年~大正15(1926)年までの
14基の石燈篭がある。


富雄川流域探索「峙垣内(そわかいち)行者像」

2021年05月12日 | Weblog

奈良県奈良市西千代ヶ丘2丁目4にある。
「峙(そわ)」は奈良・中町の旧字名。
「行者堂とされるがお堂には弘法大師が祀られている。
正面に自然石彫込役行者像があり室町期の造立と考えられている。
上部が笠石のように突き出た半肉彫りの行者像は
神変大菩薩と呼ばれている」とあが、詳細は不明。


富雄川流域探索「根聖院(こんしょういん)」

2021年04月27日 | Weblog

添御縣坐神社西側にある根聖院(こんしょういん)。
境内に「三碓起源の石」があり、
それによると「この土地一帯を三碓と言うのは、
遡ること1300年前、奈良時代に小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)が
この地域を納めていました。
住居とは別にこの場所に三ッ碓をおき、
米を撞かせていましたが、
鳥狩りに御幸された聖武天皇がご覧になり、
この土地を"三碓(みつがらす)"と
名付けられました」とある。
(小野福麿は、第三十代敏達天皇の直系の末裔で、
春日皇子や小野妹子の子孫)。


富雄川流域探索「添御縣坐神社」

2021年04月24日 | Weblog

添御縣坐神社(そうのみあがたますいますじんじゃ)。
石の鳥居の北側には「三碓小学校跡」の標識があり、
当時は西側にある変電設備の辺りにあったらしい。
鳥居を潜と参道の左右に祠があり、地蔵が祀られている。
坂を登り切った辺りの左側に石段がありそれを登ると境内である。
舞台がありその東側に重要文化財に指定されている。
南北朝時代の五間社流造で正面の中央と両脇に千鳥破風の本殿があり、
小野(おのの)福(ふく)麿(まろ)公が祀られている。
ここより直線距離で北東方向約5㎞の位置、
奈良市歌姫町にも添御縣坐神社がある。
平城京の表鬼門に対して、富雄の添御縣坐神社は
裏鬼門として鎮座させた可能性があるという話もある。


富雄川流域探索「古堤街道」

2021年04月12日 | Weblog

五仙堂橋の一つ南側に「上鳥見橋」があり、
その西側には「阪奈道路」が高架である。
開発されるまでは「土橋」と呼ばれる橋が架かっており、
大阪天満橋から片町、徳庵、石切神社、宝山寺、生駒市・菜畑を通り
現・阪奈道路沿いに東に進み「土橋」に至る。
この「土橋」を東へ直進すれば添御縣坐(そうのみにいます)神社を経て
西大寺から三条通へと繋がっていた「古堤街道」であたが、
添御縣坐神社より東側は住宅地開発がされ、辿ることは難しい。
(古堤街道については杉山三記雄著「河内の街道を歩く」に詳しい)
またこの辺りには奈良県遺跡地図によると「追山廃寺」や
数基の円墳跡が記されているが、
現在は何れも開発が進み各個人宅の敷地となっている。