鴨着く島

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糸島と可也山

2021-09-16 21:39:56 | 邪馬台国関連
今日のNHKの番組「お名前」で取り上げられていたのは福岡県であった。

奈良時代すでに「博多津」(那ノ津)は繫栄しており、歴史的には400年ほどしか継続していない「福岡藩」が、なぜ福岡全体の県名になったのかが最初の問題であった。

番組によると福岡県の名称が策定されるにあたって、かなりきわどいやり取りがあったようだ。

と言うのは、県名の策定会議において、福岡藩にちなむ「福岡県」と古来の要津・博多にちなむ「博多県」が同じ票で対立したのだが、福岡藩出身の議長の裁定で福岡県になったという。

それはそれで面白いのだが、そもそも「博多」の語源は何かが次の問題であった。

博多湾の古来からの属性である「船が停泊しやすい干潟」からだそうで、「泊潟」(はくかた)から「はかた」になったという。これには「へえ」だったが、要するに博多湾がいかに良い港であったかの証左でもある。

その良港ぶりは国際的にも認知されていたのであるが、その一つの証として登場したのが「糸島」であった。

例によって魏志倭人伝の「伊都国」を糸島とするのだが、朝鮮半島からの使節が来ると「伊都国」にしばらく滞在するので、糸島の「伊都国」は国際的だったという。

また可也山(かやさん)という秀麗な山があり、そのネーミングからも糸島は朝鮮半島と直結する地域であり、さらに糸島からは「ドルメン」と呼ばれる「支石墓」が多く、これも朝鮮半島の墓形であり、二重の意味で糸島は「国際的」だったーーと結論付けている。

おいおいそれは待っただ。

糸島が帯方郡からの使者が九州で最初に上陸した末蘆、すなわち唐津市から東南に500里(徒歩の行程で5日)の場所にあるのだったら「糸島=伊都国」でよい。しかし糸島は唐津からは東北であり、さらに伊都国が糸島であるのなら、壱岐の島から船を直接着ければよいのである。

まして糸島が伊都国ではないと言っている史料が二つあるのだ。

一つは仲哀天皇紀で、仲哀天皇が糸島方面に行くと糸島の豪族である「五十迹手(いそとて)」がまめまめしく仕えたので、天皇から「伊蘇国」と名付けられたという説話である。もう一つは筑前国風土記逸文「怡土郡」の説話で、内容は書紀のと大同小異だが、こちらは五十迹手が「(私の先祖は)高麗国の意呂山に天下りしたアメノヒボコ(天の日矛)の後裔でイソトテと申します」と、先祖の出自を述べているのが大きな違いである。

垂仁紀によれば、アメノヒボコは新羅の王子であった。新羅はまだその頃は「斯蘆(シロ)国」であり、辰韓の一部であったから、辰韓王の後裔の崇神天皇はその和風諡号に「五十(いそ)」を持っており、「五十迹手(いそとて)」が意味するところは、糸島はもと「五十(イソ)国」だったということであり、伊都国(いとこく)ではなかったのである。

したがって倭人伝上の「伊都国」を「いとこく」と読んで糸島に比定するのは誤りであり、その結果、唐津からの「東南500里」が「東北500里」になってしまい、「方角はいい加減なんだ」というメッセージを与えててしまった。

南を北に変えるというこの誤謬から、邪馬台国への道程は九州島を離れてどんどん東へ行き、「邪馬台国畿内説」が成り立つことになってしまった。いまだに邪馬台国の比定地をめぐって収拾がつかないのは、ひとえに「伊都国糸島説」という誤謬から発しているのである。

糸島が当時「国際的な港」であったことは確かだ。そのことを端的に示すのが「可也)カヤ)山」の存在である。もちろんこれは朝鮮半島南部にあった「伽耶」で、伽耶は任那ともいい、倭人伝時代は「弁韓12国」と呼ばれていた倭人の国々である。

その弁韓(任那)に辰韓王が移動(天下り)したのが、五十迹手(いそとて)の先祖の崇神天皇であった。そして半島のひっ迫により、さらに安全地帯である九州島の糸島に移動して来たのだ。

崇神天皇の和風諡号「御真木入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」は「任那の地に入り、糸島(五十)で瓊(ニ=玉)を殖やした王」と解釈されるのである。
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