鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ヤマトタケル(記紀点描⑭)

2021-09-10 15:38:27 | 記紀点描
今回取り上げるのは、上代史における英雄譚で知られるヤマトタケルノミコトである。

ヤマトタケルは記紀ともに景行天皇時代に載せられた説話の主人公で、父は景行天皇、母は播磨のイナビノオオイラツメとある。

日本書紀の景行紀では2年条から4年条まで景行天皇の皇子皇女が数えられないほど記されており、全部で80人にもなったとしてある。その中でも、このヤマトタケルノミコトと次代の成務天皇になるワカタラシヒコ、及び五百城入彦(イホキイリヒコ)の三名だけを手元に置き、そのほかは他の国々(地方)に封じている。

ヤマトタケルは幼名を小碓命と言い、兄に双子の大碓命がいたが、父天皇の「東国の蝦夷らを征伐せよ」との命令に怖気づいてしまい、弟の小碓命が出陣することになった。(※古事記では大碓命は小碓に殺されてしまう。)

いま注(※)に書いたように、日本書紀と古事記ではヤマトタケルに関する記述に大きな違いがある。

まず何よりも古事記だが、古事記の景行天皇記はまるで「ヤマトタケル物語」なのである。古事記の景行天皇記の構成を次に記すと、

1、景行天皇の皇子皇女(この中には勿論タケルが入っている)
2、大碓命
3、小碓命の征西(九州のクマソタケル征伐と出雲タケルの征伐)
4、ヤマトタケルの東征(クマソタケルからヤマトタケルという名を得ている)
5、ヤマトタケルの死
6、ヤマトタケルの子孫

となるが、1は父である景行天皇の皇子皇女の紹介であり、2は大碓命の子孫の紹介である。

3からがほぼヤマトタケルの物語で、西へクマソタケルを討ちに行き、征伐した際にタケルという称号を得たという話である。ところが書紀ではクマソ征伐は2回あり、最初は天皇自らの「親征」でアツカヤ・サカヤというクマソを征伐しており、ヤマトタケルは2回目のトリシカヤというクマソを征伐したことになっている。

日本書紀のクマソ征伐は、古事記ではただ一回ヤマトタケルが行っただけなのを、二度に分け、最初のを景行天皇自身の親征説話に仕立て上げているわけで、先のブログ「景行天皇のクマソ親征」において「景行天皇は実際には親征していない」と結論付けたとおりである。

古事記のヤマトタケルによるクマソ征伐説話の方が基であり、書紀の景行天皇の親征は潤色ということになる。

その古事記のヤマトタケルへの思い入れにはすさまじいものがある。逆に見れば景行天皇の影が薄過ぎるのだ。編集者の太安万侶が景行天皇を蔑ろにしなければならなかった理由は何だったのだろうか。

太安万侶の出自を考えれば、そのことは納得できる。太安万侶は初代神武天皇(私見では南九州の投馬国王タギシミミ)の長男カムヤイミミの後裔であった。したがって北部九州「大倭」が出自であり、橿原王朝を崩壊させた崇神王権の三代目の景行天皇が、潤色ではあるにせよ南九州のクマソ(投馬国)を親征したなどとは書けないのである。

そこはきちんと筋を通している。書紀では景行天皇が日向で詠んだという「大和は国のまほらま たたなづく青垣山隠れる 大和しうるわし」という流麗な歌を詠んだのはヤマトタケルだとして、5のヤマトタケルの死をめぐる説話に取り入れ、結果として景行天皇のクマソ親征を否定している。

(※ただし、書紀の景行天皇のクマソ親征は史実ではないのだが、親征に仮託して当時(西暦320~330年頃)の九州情勢を描いており、大変貴重な史料というべきだろう。)

さて、ヤマトタケルのクマソ征伐は、書紀の景行天皇親征に描かれたクマソ「アツカヤ・サカヤ」、そしてヤマトタケルによる征伐の対象である「トリシカヤ」に関する説話を合体させた風に見えるが、その実、こちらの方が説話の基になっている。

古事記・書紀共通の説話では、ヤマトタケルは幼名がヤマトオグナ(倭男具那=日本童男)で、クマソタケルを討ったがゆえにクマソタケルから「タケル」名を貰ったと言っている。この「名を貰う」ということについては先例があり、垂仁天皇がサホヒコの反乱を鎮定した将軍八綱田に「倭日向武日向彦八綱田」(大和に向かい、クマソに向かい、手柄を立てし彦・八綱田)という名を賜ったという。

しかしよく考えると後者の賜名は、上位者である天皇が下位者である将軍に新たに名を与えるという名誉なのだが、前者の賜名は征伐の対象である言わば「逆賊クマソ」によるもので、その賜名を堂々と書いて載せることには首を傾げざるを得ない。

うがった見方をすれば、逆賊クマソタケルに完勝することによってタケル名の消滅が起きたわけだし、幼名ヤマトオグナの「オグナ」から「タケル」(強い人間)を名乗って何の不思議もない、むしろ名誉ではないか、となろうか。

だがやはり逆賊の名を負うことには抵抗があるはずだ。このことから私はクマソタケル(川上タケルとも言う)は本来逆賊でも何でもなく、南九州というかつて神武天皇(私見では投馬国王タギシミミ)を生んだ地域の優位性と、敵対関係にあった神武(橿原)王権と崇神(纏向)王権との抗争の一場面が南九州でもあったことの証左としたいのである。

要するに「タケハニヤスの反乱」と「サホヒコ・サホヒメの反乱」の南九州版と言えるものだった。これがヤマトタケルによるクマソ征伐の真相であろう。

さてヤマトタケルは南九州のクマソタケルの「タケル」名を貰って大和に帰るが、今度は東国に勢力を振るう「エミシ(蝦夷)」を征伐に行く。

この経緯は記紀ともに同じであるが、古事記ではヤマトタケルが「西にクマソを討ってまだ間もないのに、今度は東を討てと父は言うが、これではまるで自分に死んで来いというようなものではないか」と嘆く場面がある。古事記のこのあたりの描写からその死まで(上の4と5)は、まさにヤマトタケル物語の白眉だ。

ところで書紀ではこの東国征伐に当たって、景行天皇が長々と「征伐の大義」を述べているのだが、この点はクマソ征伐と大きく違う点である。クマソ征伐ではただ「朝貢がないから、背いている。討つべし」というシンプル極まりない理由しか挙げられていない。

それに比べて東国征伐は景行天皇がヤマトタケルに斧鉞(おのとまさかり=征討将軍に与える徴の武器)を授けてから「われ聞く。東の夷は暴び強し。村に長なく、おのおの境を犯して止まない。・・・(以下略)・・・武を振るって姦鬼を掃え」(景行天皇40年条)と、実に500字ほども費やして「討伐の大義」を述べたという。

以上を比較した場合、東国征伐が大義に基づいた征伐で史実なら、大義のかけらもないクマソ征伐は本当にあったのかという疑問に逢着する。

そうなると、南九州に征伐に来たヤマトタケル自体の存在感が揺らぐことになる。

結局のところ、南九州が出自の神武による王権(橿原王朝)と、北部九州(大倭)が出自の崇神王権の対立抗争を描きたいがための「ヤマトタケルのクマソ征伐譚」という潤色なのだろうか。

ヤマトタケルが征討軍の将軍として出動した南九州(クマソ)と東国(蝦夷ほか)の描写では、前者が女装をして敵を討つというどう見てもおとぎ話的過ぎるのに対して、後者はの描写はかなりリアルなのである。

この点については、古事記の景行天皇記には全く登場しない武内宿祢が、書紀の景行天皇紀には登場していること。そしてさらに東国については武内宿祢が征伐の「下見」をしているのに、クマソ征伐に関しては全く関与していないことの不可解を考察した時に再び取り上げたいと考えている。