鴨着く島

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神功皇后①(記紀点描⑱)

2021-09-24 23:25:56 | 記紀点描
 【はじめに】
武内宿祢が4世紀の男のスーパースターなら、同時期の女のスーパースターは神功皇后だ。

武内宿祢は南九州クマソ(武日)国の「内」(ウチ・ウツ)の生まれで、景行天皇紀では3年条に、臣下としては異例の出生譚が載せられている。

その一方で、神功皇后の出自は、古事記の第9代開化天皇の条に詳しい。

それによると、神功皇后の父は息長宿禰王で、開化天皇から数えて男系の5代目。

母は葛城高額比売で、母方は新羅系の渡来人「アメノヒボコ」が但馬に定着して始まった家系とされ、垂仁天皇の命により「トキジクノカグノコノミ」(季節にかかわりなく輝き実っている果実)を「常世」(とこよ)に採りに行き、数多の年を経たために天皇は他界してしまい、墓前に供え自死したというタジマモリが4代目にいる。(※タジマモリは三宅連の先祖にもなっている。)

要するに父方は皇族の分流で、母方は半島の新羅系ということである。ただ、垂仁天皇の3年の時に渡来して来たという天日槍(アメノヒボコ=古事記では天之日矛)の時代を私は西暦300年代の初期とみているので、新羅はまだ「辰韓」と呼ばれていた。いずれにしても母方が半島由来であることに変わりはない。

 【「気長足姫」は「イキナガタラシヒメ」】
神功皇后の本名(幼名)を、古事記では「息長帯比売」と書き、日本書紀では「気長足姫」と書く。父も古事記では「息長宿禰王」と書き、書紀では「気長宿禰王」と書く。明確に「息」と「気」の違いがある。(※帯と足はどちらもタラシで、互換性があるからここでは問題にしない。)

この違いはどうして起きたのだろうか? これについてはほとんどスルーされている。どの道、造作なのだから一字の違いなどどうでもよいと思われているようである。

しかし、たった一字の違いなら、造作であるにせよ統一させるのは「超簡単」だ。それをしなかったことの方に意味があるのではないか。

通説では「息」と書いて「オキ」と読ませるわけだが、これは近江の坂田郡に「息長水依姫」にまつわる「息長」という地名があり、それを「おきなが」と読むことから、誰もそれを是としてそう読むわけだが、本来なら「いきなが」である。

したがって古事記の「息長帯比売」は「イキナガタラシヒメ」と読む方に分がある。問題は書紀の「気長足姫」で、これはどう読んでも「キナガタラナヒメ」としか読めない。これを「オキナガタラシヒメ」とは絶対に読めない。「オキ」と読ませたいならだれでも間違わない「沖」を使っただろう。

私見では古事記の本来の読み「イキ」に従いたいのだが、書紀の、何かの間違いではなかろうかと思われる「気(キ)」の採用について、非常に気(キ)になるので、少し考えてみたい。

「イキ」と強く発音してみるとすぐ分かることが、「キ」の強勢、つまり「歯擦音」の強さである。「イ・キーッ」の「キーッ」の大きさはその長さとともに耳に強く印象付けられ、「イ」の方が全く霞んでしまう。

これが結局のところ「イキ」から「イ」の脱落を生むのではないか。よって書紀では「イキ」と書かずに、「気(キ)」だけで済ますことにしたのではないだろうか。

以上から、発音上の要請から「息(イキ)」が「気(キ)」になった要因だと思われるのだが、実はイキ(息)を使いたくなかった大きな要因が書紀の方にあったのである。

私は「息」をそのまま「イキ」と読み、「息」を「壱岐」の意味にとり、「イキナガタラシヒメ」とは「壱岐国の首長であり、統治していた女王」ということであったと考えている。同様に父・息長宿禰王は「壱岐国王」であった。

古事記は「イキ」を、さすがにずばり「壱岐」とは書かずに「息」と書いたのだが、書紀の方はその「息」すら書かずに「気」とし、「イキ」の方は完全にぼかした。それは要するに神功皇后が「壱岐国」の女王であってはまずいからである。

日本書紀は「日本の王統ははるかな昔から天孫の後裔であり、日本列島の中で代々王統を繋いで来た」というのがテーゼであったから、列島から外れたちっぽけな島「壱岐」の女酋が、天皇の地位にあってはならないのであった。

まして、この後見ていくように、壱岐国から嫁いだ仲哀天皇とともに朝鮮半島南部の弁韓(のちの任那)から九州に渡来したことが知れてしまうような「息長」は使用できなかったのであろう。

 【琴を弾く仲哀天皇・武内宿祢・神功皇后】
壱岐国王「気長宿禰王」の娘「気長足姫」は、半島南部の弁韓王こと仲哀天皇の嫁になるわけだが、この仲哀天皇(和風諡号タラシナカツヒコ)の属性を見ると、まず、ヤマトタケルの皇子であることが挙げられる。

このブログの「ヤマトタケル(記紀点描⑭)」において、私はヤマトタケルは武内宿祢の仮託、すなわち分身であるとしたが、これから敷衍すると仲哀天皇は武内宿祢の息子ということになる。

そう考えると、仲哀天皇の嫁、つまり神功皇后は武内宿祢にとっては息子の嫁、すなわち義理の娘である。(※のちに生まれる応神天皇は武内宿祢の外孫に当たることになる。)

実はこの3人には共通の「趣味」があった。それは「琴を弾くこと」である。

もちろん記紀に「趣味」と記されているわけではない。その利用法は「神がかり(鎮神)を演出する道具」としてである。

まず、仲哀天皇は、古事記に「天皇、筑紫の可志比(橿日)宮にいまして、クマソを撃たんとし給いし時、御琴を弾かして、建内(武内)宿祢大臣、沙庭に居て、神の命を請いき」とある。

次に、武内宿祢は、日本書紀の神功皇后即位前紀(仲哀天皇9年)に、「皇后、吉き日を選びて斎宮に入りて、みずから神主となり給う。すなわち武内宿祢に命じて琴を弾かしむ」とある。

神功皇后は即位前紀の12月条で、すでに新羅征伐を終え、筑紫に凱旋してから応神天皇を「宇美」で産んだという事績が記されたあと、分注の中で、「一に云う。足仲彦(仲哀)天皇、筑紫の橿日宮におわします。ここに神ありて・・・(中略)・・・すなわち神の言に随いて、皇后、琴を弾き給う。」とある。

以上のように、仲哀天皇、武内宿祢、神功皇后の三者はそれぞれ琴を弾いている。

(※琴を弾く描写のあるのは、もう一人、19代の允恭天皇がいる(允恭天皇7年11月条)が、この時は「新室(にいむろ)の宴」(新築祝い)における余興であった。仲哀天皇時代は神がかりのための楽器だったのが、100年ほど後の允恭天皇の時代になると余興にも用いられるようになったのである。)

この「琴」という楽器については、何と言っても有名なのが「伽耶琴」である。伽耶から日本にもたらされた当時は神事に使用されていたようだが、古墳時代中期(500年代)になると、各地の埴輪に「琴を弾く男子像」がいくつか見られるようになる。

同時代の3人が、揃いもそろって琴を弾くというのは、この仲哀天皇と神功皇后の時代にしか見られない。これは何を意味するのだろうか?

神功皇后こと「イキナガタラシヒメ」は壱岐の出身であり、武内宿祢は南九州(古日向)の出身である。したがって、本来、琴を弾く習慣を持っていない。

とすると、仲哀天皇に琴を弾く習慣があった。つまり仲哀天皇こそが伽耶の出身であったことを示唆してはいないだろうか。











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