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神功皇后③(記紀点描⑳)

2021-09-29 20:50:41 | 記紀点描
【神功皇后は斉明天皇の仮託ではない】
古代史学者の多くは、神功皇后は、百済支援のために西暦660年(斉明天皇6年)に「この年、百済のために、まさに新羅を討たんと欲し」、翌年の正月に筑紫を目指して自ら出陣した斉明天皇の姿を、数百年さかのぼらせて造作した皇后であるーーという見解を採っている。

要するに神功皇后は架空の存在に過ぎず、神功皇后紀の事績の描写は斉明天皇の事績の潤色(手を加えてもっともらしく見せたもの)であるというのだ。

しかし神功皇后紀と斉明天皇記を照らし合わせると、「手を加えてもっともらしく見せた」というレベルをはるかに超えた神功皇后紀にしか見られない事績が、とんでもなく多過ぎるのはどういうことだろうか。

まず、斉明天皇は筑紫に出陣する際に「難波津」から船出しているのだが、神功皇后は角鹿(敦賀)からである。もし斉明天皇が神功皇后のモデルであるのならば、神功皇后も同じ難波津から船出したように書いた方が良いだろう。

それと、神功皇后の筑紫における「神懸かり」に「ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ命」(天照大神)はじめ4神が登場するのだが、斉明天皇が筑紫の磐瀬行宮(那の津)や朝倉宮(福岡県朝倉市)などで「神懸かり」になったという事績は全くない。

極め付けは、神功皇后紀の次の紀年、39年、40年、43年、55年、64年、65年、66年、69年の記事である。

・39年・・・(分注)この年、太歳「己羊」。魏志に曰く、明帝の景初3年6月、倭の女王、大夫・難升米らを遣わして・・・朝献す。
・40年・・・(分注)魏志に曰く、正始元年、建忠校尉・梯携らを遣わして詔書印綬を奉りて、倭国に到らしむ。
・43年・・・(分注)魏志に曰く、正始4年、倭王、また、大夫・伊声耆ら8人を遣わして、上献す。
・55年・・・百済の肖古王、薨ず。(※「近肖古王
・64年・・・百済の貴須王、薨ず。王子・枕流王、立ちて王となる。
・65年・・・百済の枕流王、薨ず。王子・阿花、歳若し。叔父の辰斯、奪いて立ちて王となる。
・66年・・・(分注)この年、晋の武帝の泰初2年。晋の「起居注」に曰く、武帝の泰初2年10月、倭の女王、訳を重ねて貢献せり、という。
・69年・・・皇太后(神功皇后)、若桜宮にて崩御。冬、10月15日、狭城盾列陵に葬りまつる。この日に皇太后を追いて尊び、気長足姫尊と申す。
      この年、太歳、己丑。

この中で実年(西暦)のわかっているのが、39年の239年、40年の240年、43年の243年、55年の375年、64年の384年、65年の385年、66年の266年である。

ところが、39年、40年、43年の三か年はおなじみの魏志倭人伝からの分注であるから、西暦年は容易に添付できるのだが、55年から66年までの四か年については「百済記」による記事で、こちらの方は『三国史記』の「百済本紀」との照合から55年が西暦375年、64年が384年、65年が385年と判明している。

また66年条の記事は『晋書』からの挿入で、この年代(泰初2年)は266年であり、同じ中国の正史である魏志倭人伝の記事につながっている。(※この時の倭の女王はヒミコの後継のトヨであろう。)

そうなると39年、40年、43年、66年は「干支2巡」(120年)古く見せていることになる。この四か年の分注は、挿入した編纂者の思い違いだということになる。神功皇后を邪馬台国女王ヒミコに見立てた選者がいたということだ。(※これはこれで興味ある史実である。)

したがって「百済記」からの引用記事の年代こそ、神功皇后の時代であったとして問題ない。

そして最後の69年条の記事によると、皇后は己丑(きのとうし)に崩御しているのは確実で、その年代は389年と特定できる。

夫の仲哀天皇は362年に亡くなっているから、皇子の応神天皇にバトンタッチするまでの362年から389年まで、ほぼ女帝の状態であったことになる。大和での存在感は極めて薄く、皇居とした「若桜宮」が大和にあったというのは疑わしい。(※この点はまだ追究半ばである。)

いずれにしても、統治年代が362年から389年であったのは史実だろう。これをしも「斉明女帝の引き写し」ということは不可能で、「神功皇后は斉明天皇をモデルにした造作説」は成り立たないのである。