鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

馬毛島問題は1973年から

2021-09-23 19:33:47 | 日本の時事風景
1973年(昭和48年)の10月にアメリカ空母ミッドウェーが横須賀を母港としてから、艦載機の離着陸訓練「タッチアンドゴー」を実施できる場所が取り沙汰されていた、と報道で知った。48年前だからずいぶん昔の話である。

日本各地の自衛隊基地などが適地として取り上げられたが、どこも騒音問題をクリアーできず、結局、現在でも行われている小笠原列島の硫黄島が「暫定的な訓練場」となって久しい。

しかし中国を見据えた防衛機能を考えると、日本の南西部に訓練場を作るのが望ましいとされ、2009年に自民党政権から移行した民主党政権の時に外交案件として前面に押し出され、その際に馬毛島が最適地として浮上したそうである。

当時の防衛大臣だった北沢俊美氏はアメリカ側の意向を受けて馬毛島の国有化に乗り出した。島の大半を所有していたタストン・エアポートとの交渉で島買収の時価を最初20億円と見積もっていたのだが、向こうは200億円の価値があり、20億円では話にならない、売りたくないので貸し出すとし、年額5億円を提示した。

国としてはどうしても島の国有化を考えていたので、価格交渉には紆余曲折があったようだが、結局、安倍政権下の2019年の11月、向こうの言い値に近い160億円で買い取った。

馬毛島は民主党政権下で国有化の具体的な交渉に入り、約10年後に実現したのだが、実はあの尖閣諸島は民主党政権下で国有化しているのである。

この尖閣諸島も民間の所有であったのだが、自民党政権下では中国の所有権をめぐる恫喝に近い論調に遭ってなかなか国有を言い出せなかった。

というのは尖閣諸島周辺の海底に原油(天然ガス)が埋蔵されていることが発見され、中国は「昔から中国のものだ」と言い張るようになり、そこで仕方なく共同で掘削しようとなったのだが、中国は約束を破り勝手に掘削を始めたのである。「春暁ガス田」という名で知られている。

その後春暁ガス田はどうなったのか、おそらく期待したほどの埋蔵量ではなかったのだろう、以後は尖閣諸島の領有権だけの問題になった。

(※尖閣諸島が日本領なのは戦後の中国地図にもそう載っており、中国の作為は明らかである。)

それでも自民党政権下では国有をためらっていたので、東京都知事の石原慎太郎が「国が買わないのなら東京が買う」と言い出し、世論をあおったのだが、結局、自民党政権が買わずに、民主党政権が買い取って国有化したのであった。

防衛を含む外交案件については何とも煮え切らないのが自民党である。多くをアメリカに依存しているから、「忖度外交」でしかないのだ。安倍政権では「安全保障法制」を整備して、どんなもんだ、と胸を張っているように見えたのだが、結局のところアメリカの軍事的プレゼンスへの「忖度」でしかない。

日米安保とその補完的な取り決めの日米地位協定が存続する限り、このような対米忖度外交・防衛論議は永遠に続く。野党の革新勢力も「日米安保があればこそ日本が軍事的に突出しないで済む」と考えているから同じ穴の狢だ。

こうなったら自民党の中から「日米安保をぶっ潰す」という人間が現れないかと期待する。もちろん日米安保なきあと、日米は普通の自由で民主主義を国是とする国同士になる。

ただ、その前に天皇が「永世中立」を宣言することが最善の選択だ。

世界はそれを待っている。

「たかが神話」というなかれ(記紀点描⑰)

2021-09-22 16:56:30 | 記紀点描
日本の神話は古事記と日本書紀の「神代」に描かれており、とりわけ古事記の神話は微に入り細を穿つ神話で、その体系の完成度はおそらく世界でも例を見ないレベルである。

「別(こと)天津神」の「天御中主(アメノミナカヌシ)」以下の五代はどう見ても「宇宙生成」を表しているとしか思われないし、「神代七代」のイザナギ・イザナミ神話は地球の成り立ちを基にした神話だろう。

地球が成り立ってから「太陽ー月ー海原(地上)」という三分統治が始まったわけだが、これを日本神話では「アマテラスオオミカミーツキヨミノミコトースサノヲノミコト」と表している。

ここまでの書きぶりは「天文学」か「天体力学」の分野を知っていたかのようであるのは、まさに驚愕に値する。

スサノヲノミコトが統治する「海原(うなばら)」とは地上のことだが、地球の4分の3が海であることの表現だったのだろうか。また、地上の生物の起源はすべて海に求められるとは近代生物進化科学の教えるところだが、「海原」の「海」は「産み」に通じ、「原」は「腹」でもあることを思うと、まるで地球上の生物進化をあらかじめ知っていたかのような表現である。

和銅5年(712年)に古事記を編纂して時の元明天皇に上納したのは太安万侶であったが、「帝皇の日継(ひつぎ)」及び「先代の旧辞(ふること)」を読み習ったのは稗田阿礼であった。阿礼の読んだという「先代の旧辞」にそのようなことが書かれていたと考える他はない。

いったい誰がいつどこでその「旧辞(ふること)」を書き記しておいたのだろうか。実に興味の持たれるところだ。

さて古事記では天照大神と月読命とともに、イザナギ大神の禊によって生まれたスサノヲノミコトが「海原」を統治する前に、天照大神のいる高天原(たかまがはら=天上世界)に挨拶に行った際に乱暴狼藉を働いて高天原から追放され、いよいよ地上に降り立つ。

その降り立った先が出雲の国であった。

出雲神話はほぼ古事記の独壇場と言ってよい。日本書紀では出雲国内にスサノヲが降臨し、ヤマタノオロチの犠牲になりかけていたクシナダヒメを救い、出雲に定住したことまでは描かれているが、古事記には詳しく描かれている大国主(オオクニヌシ=オオナムチ)をめぐる説話、いわゆる「出雲神話」は除外されている。

この出雲神話こそ遠い昔から日本列島に暮らしてきた縄文人の姿を捉えているのだが、日本書紀は「国譲り」を何にもまして優先させている。

最近の研究で日本列島から発掘された縄文時代人、弥生時代人、古墳時代人の人骨から採取された遺伝子のゲノム解析によって、弥生時代人のルーツと古墳時代人のルーツは大陸及び朝鮮半島経由のものだろうと解明されつつある。

日本書紀の「国譲り説話」は、縄文人の世界であった日本列島すなわち「葦原中国(あしはらのなかつくに)」の基層に、弥生人・古墳人が被さって来た状況をうまく説明できるようだ。これこそが日本書紀の優先事項なのである。

(※ただ弥生人・古墳時代人と言っても、完全に倭人という種族を離れた者たちではない。以前のブログ「縄文時代早期文化の崩壊と拡散」で述べているように、逃げ延びた、つまり「拡散」は、九州北部や海を越えて朝鮮半島にまで及んでいたに違いなく、そのような倭種族が半島やそれ以北に「拡散」した可能性も考慮する必要がある。特に言語の「主語+目的語+動詞」構造が共通なのはそれへの考察を促す。)

国譲りの後はニニギノミコトの天降り、いわゆる「天孫降臨」である。

神話学ではニニギノミコトが「天(高天原)」を離れて日向の阿多に来て、国つ神オオヤマツミの娘アタツヒメと結ばれて「地」を獲得し、その子供であるホホデミ(ホオリ)は竜宮に行って「海」を獲得し、さらに兄に当たるホスソリ(海幸)に勝つことによって「海」をも獲得して「王者」になった、とする。

つまり天孫降臨神話(日向神話)とは、その地上支配の構造(三重支配)を象徴したものである、と述べるわけだが、それは観念的に過ぎると思う。

古事記では天孫二代目のホオリ(ホホデミ)について、「580歳を高千穂宮に過ごして亡くなり、御陵は高千穂の西にある」と具体的に記している。580歳(年)を1代と考えればとんでもない誇張だが、しかしホオリの王朝が何代も続いていたと考えれば納得がいく。

要するに「ホオリ王朝」の存在が考えられるということである。580年だと1代が20年として29代、約30代続いていたのかもしれない。

ところが古事記ではこの第二代のホオリについてのみ具体的な統治期間が見えるだけで、他のニニギノミコトとウガヤフキアエズノミコトについては記載がない。

そこで日本書紀の同じ説話を見てみると、ニニギノミコトについては「久しくあって、ニニギノミコトは崩御し、筑紫の日向の可愛之山陵に葬った」とあり、またホホデミノミコトについては「久しくあって、ホホデミノミコトは崩御し、日向の高屋山上陵に葬った」、そしてウガヤフキアエズノミコトについては「久しくあって、ウガヤフキアエズノミコトは西洲の宮で崩御し、日向の吾平山上陵に葬った」となっている。

どの皇孫も統治期間を「久しくあって」と同じ表現をしていることに気づかされる。これにより書かれていない統治期間を類推すると、ニニギノミコトもウガヤフキアエズノミコトも、ホオリの580年ほどの統治期間があったとしておかしくはない。

したがって天孫三代は、それぞれ500年とか、ことによると1000年という長期の王朝だったという考えを提示しても、さほど無理はないだろう。

「たかが神話」と全否定する必要はないと思われるのである。

邪馬台国問題 第15回(「史話の会」9月例会)

2021-09-20 18:54:59 | 邪馬台国関連
「史話の会」9月例会を開催した。

今月はテキスト『邪馬台国真論』の「神武東征の真相」に入った。

日本古代史学では「神武東征」はおろか、応神天皇あたりも怪しい、ただ雄略天皇は幼名の「ワカタケル」と剣に象嵌で刻まれたものが崎玉稲荷山古墳と熊本の江田船山古墳から出土しているので、どうやら実在したようだ。

つまり西暦でいえば470年前後の第21代雄略天皇の存在は間違いないだろうーーとの見解が主流である。

とにかくそれよりはるか前、20代も前の神武天皇など造作に過ぎない、ましてその初代天皇が非常に遅れた南九州からやって来たなど、おとぎ話の類だ、というわけで、初代神武天皇の事績はでっち上げだとされている。

ところが自分が魏志倭人伝の解釈に取り組み、「投馬(つま)国」が南九州にあったことを証明し、投馬国王の王の称号に「彌彌(みみ)」が使われていたことを知った時、記紀に記されている南九州の神武天皇の皇子に「タギシミミ」「キスミミ」がいることと、大和への東征を果たし「橿原王朝」を樹立した後に迎えた王妃イスケヨリヒメとの間の皇子たちの名が「ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ」と「ミミ」のオンパレードという記事から見て、南九州にあった「投馬国」からの東遷は間違いないと確信したのである。

以上、いわゆる「神武東征」とは南九州の投馬国からの東遷に他ならないという結論である。

そこで記紀の「神武東征」を調べてみよう。全くの出鱈目(造作)だったのだろうか、その判別やいかに。

まず私は九州からの東遷は3回あったと考えている。次の3回である。

1回目・・・ニギハヤヒの東遷
2回目・・・「神武」の東遷
3回目・・・崇神天皇の東遷

1回目は物部氏の祖「ニギハヤヒ」によるものである。

古事記では、ニギハヤヒは神武が大和入りして諸族を平定した最後に登場し、神武に対して自分も天津神の苗裔であることを示す「天津瑞(あまつしるし)」を献上している。

また書紀では、筑紫(九州)を出発して4年後の12月に大和の豪族ナガスネヒコを撃つのだが、ナガスネヒコはすでに天磐船(いわふね)に乗って天下りして来た「櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)」を主人として仕えていた、と言った。そして天津神の子である証拠の「天羽羽矢(あめのはばや)」と「天歩靫(あめのかちゆぎ)」を見せたところ、神武は「間違いない」と天津神の子であることを認めた。

しかしナガスネヒコは殺され、その一党は神武に帰順している。(※ナガスネヒコは「中津根彦」で、大和中央土着の王という意味である。)

そのナガスネヒコが仕えていたという饒速日は正式名を「櫛玉饒速日」というが、尾張一宮の真清田(ますみだ)神社には「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」という長い神名で祭られているが、これによると天火明(あめのほあかり)と饒速日(にぎはやひ)とは同一人物である。

そうするとニニギノミコトの皇子たちに「天火明=ニギハヤヒ」と「ホホデミ」「ホスソリ」とは兄弟である。したがってニギハヤヒも南九州から大和へ「東遷」したとことになる。

以上が南九州からの「ニギハヤヒの東遷」である。

2回目は俗に「神武東征」と言われる東遷である。

この東遷は記紀ともにかなり詳しく描かれている。ただ、両者には内容の違いが多い。

古事記では、カムヤマトイワレヒコと兄のイツセノミコトの二人だけが高千穂の宮で東征を決意して出発したと説き、イワレヒコの皇子タギシミミの姿は見えない。

そして大和入りの後、新しい皇子(ヒコヤイ・カムヤイミミ・カムヌマカワミミ)が生まれた後に突然登場し、腹違いの弟たちを殺害しようとして逆に殺されるという何とも情けない人物として描かれている。

日本書紀では、東征には「皇子たちと船乗りたち」とともに出発している。その中にはもちろんタギシミミもいたのだが、東征の行程の中でただ一か所「熊野」に到った時に「天皇、独り、皇子タギシミミと軍を率いて進み、熊野の荒坂津に到ります」というところで登場している。ここではタギシミミの個性も何も感じられず、ただ「タギシミミも東征に加わっていた」ということだけを提示したに過ぎない。

古事記では東征に参加したとも何も書かれず、書紀ではただ一か所で無個性な書きぶりである。つまりいないも同然のタギシミミであった。

私はこのことを重視し、タギシミミは神武天皇に仮託されている、つまり、神武天皇とはタギシミミその人だろうと考えたのである。

タギシミミとは記紀のどちらも記すように、南九州(古日向)のアイラツヒメの子である。この古日向は魏志倭人伝上の「投馬(つま)国」であり、その王の呼称は「彌彌(みみ)」であったから、記紀の記すタギシミミが古日向の生まれであることとは見事に対応している。

「タギシ」とは「舵(かじ)」のことであるから、「タギシミミ」とは「船舵(ふなかじ)王」と読み取れ、これは船団を組むにふさわしい王名である。そのタギシミミをあたかもいなかったかのように記した「東征説話」であったのだが、その理由は次のことだろう。

のちにクマソやハヤトという名称を付与され、大和王権にたびたび反旗を翻した古日向、すなわち投馬国のことを表には出したくなかった。このような編纂上のバイアスがタギシミミを蔑ろにし、あまつさえ「仁義に背く者」として殺害されるというストーリーに仕立て上げられたのである。

(※タギシミミが大和生まれの弟たちを亡き者としようとして逆に殺害される、というストーリーの解釈については、当ブログ「タギシミミはなぜ殺されたのか(記紀点描⑥)」に詳しい。)

いずれにせよ、南九州(古日向)からの「神武東征」は、実は、投馬国王タギシミミによる「東遷」であった。

それは大和生まれの皇子たちの名が揃って投馬国由来の「ミミ」名を持っていることと、2代目の綏靖天皇(幼名カムヌマカワミミ)の即位前紀に「タギシミミは年すでに長じ、久しく朝機を歴(へ)ていた」と書かれていることから明らかだろう。

要するにタギシミミこそが「神武天皇」であり、2代目の綏靖天皇の前に、「長いこと朝廷の機(はたらき)をしていた」ということで、タギシミミが神武天皇だったのだと言っているに等しいのだ。

タギシミミが「もとより仁義に乖(そむ)けり」(綏靖天皇即位前紀)として殺害するに値するような人物であったら、綏靖天皇の和風諡号に「神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミ天皇)」とタギシミミと同じ「耳(ミミ)」名を付けるわけがないであろう。どうせ造作なのだから構わないというのか。いや、造作だったらなおさら「ミミ」の痕跡を消し去ればよい。いとも簡単なことではないか。

以上から、いわゆる「神武東征」は南九州(古日向)の投馬国王タギシミミによる「東遷」であり、史実だったと考えてよい。

(※東遷の動機については、南九州を襲った「危機的状況」からの逃避的移住だったと思われるが、その点については次回に回したい。また3回目の東遷である「崇神東征」についても来月の「史話の会10月例会」で講義する予定である。)


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立つ鳥跡を濁す

2021-09-18 11:19:41 | 日本の時事風景
台風14号はこの一週間余り、ぐずぐずした天気をもたらしていたが、昨夜のうち福岡県北部に上陸したあと速度を速め、今朝は四国の松山市に再上陸したという。

今朝は早朝から天気は回復に向かい、10時現在の今はすっかり晴れ上がり、日差しも強くなってきた。

3日ほど前から彼岸花が咲きだし、陽光に艶やかな紅色を見せている。


秋彼岸が近づくと決まってその前に咲き始める彼岸花。球根にはアルカロイドという毒性のある成分を含むので、地中の虫に食われることはないそうだ。飢饉の時には食用にされたとも聞く。

すっくと立ちあがった紅色の強さが亡き人の想いの勁さを連想させて、彼岸にはふさわしい花だ。

真夏の暑さも峠を越えたようで、今朝、ウメの散歩に出た時はまだ台風の余波の風が吹いていて、実に清々しかった。

朝刊を読んでいると、あまり目立たない箇所に「米軍の普天間飛行場内に保管してあった海兵隊移転後の跡地に置かれていたフッ素化合物の汚染水36万リットルの焼却処分で、日本がその費用を持つということで沖縄米軍と合意した」という記事があった。

この汚染水をめぐっては、今年の7月だったか、米軍側が汚染水の一部のフッ素化合物を中和させるために、消火剤の泡状の物を大量に発生させて、沖縄県を緊張させたのだが、結局、協議に応じず一般排水として処理場に流してしまった。

これではいけないと、防衛省沖縄防衛局と米軍側が話し合いに入ったのであるが、結局のところ「日本側が処分します」ということになった。要するに米軍の尻ぬぐいだが、日米安保及び日米地位協定によって、米軍に押し切られたわけである。

「飛ぶ鳥跡を濁さず」ではなく「跡を濁す」とはまさにこのことだろう。

アメリカ側としては「日米同盟により日本を守るために基地を置いているんだから、そのくらいなことは日本がやれ。我々はいざとなったら血を流すんだぞ」という腹だろう。

なるほどその通りだ、日米安保がある以上は。

しかし日本も見くびられたものだ。しかし当のアメリカも、日本が自分では自国を守れないと本気では思っていないはずだ。

むしろアメリカから手を引かれたら困惑し、かつ怖気づくのは「日米のこれまでにない強固な同盟関係」をオウム返しのように繰り返す日本の保守層で、1955年の保守合同以来、「自主憲法制定」を唱えるだけの自由民主党支持層である。

今の日本国憲法は実質上「マッカーサー欽定憲法」であり、明治憲法の制定の時の方がまだ日本国民の「自主憲法」への関心が高かったし、実際に条文を作ってしまった民権家もいたほどであった。

未曽有の壊滅的な敗戦であり、連合軍の占領統治下であったから致し方ないとしても、もう「マッカーサー欽定憲法」の改めるべきは改めた上で、改憲したほうがよくはないか。自民党のスローガンは「自主憲法制定」ではなく「自主的憲法改定」にすべきだろう。

憲法問題の今日的状況を作ったマッカーサーだが、日本国憲法制定をめぐっては一つ良いことを言っている。

それは「日本はスイスのように永世中立国になるのがふさわしい」と。

だが、残念ながらその見解、朝鮮動乱が起きてからは封じてしまったのだ。

もう一度その考えを吟味したいものだ。

今度の自民党総裁選挙に出た4名の議員のうち、そんなことに言及する人は皆無である。

「敵基地攻撃能力を考慮する。電磁波で敵基地を無力化する」などと勇ましい政策を口にする候補者がいるのは残念だ。



糸島と可也山

2021-09-16 21:39:56 | 邪馬台国関連
今日のNHKの番組「お名前」で取り上げられていたのは福岡県であった。

奈良時代すでに「博多津」(那ノ津)は繫栄しており、歴史的には400年ほどしか継続していない「福岡藩」が、なぜ福岡全体の県名になったのかが最初の問題であった。

番組によると福岡県の名称が策定されるにあたって、かなりきわどいやり取りがあったようだ。

と言うのは、県名の策定会議において、福岡藩にちなむ「福岡県」と古来の要津・博多にちなむ「博多県」が同じ票で対立したのだが、福岡藩出身の議長の裁定で福岡県になったという。

それはそれで面白いのだが、そもそも「博多」の語源は何かが次の問題であった。

博多湾の古来からの属性である「船が停泊しやすい干潟」からだそうで、「泊潟」(はくかた)から「はかた」になったという。これには「へえ」だったが、要するに博多湾がいかに良い港であったかの証左でもある。

その良港ぶりは国際的にも認知されていたのであるが、その一つの証として登場したのが「糸島」であった。

例によって魏志倭人伝の「伊都国」を糸島とするのだが、朝鮮半島からの使節が来ると「伊都国」にしばらく滞在するので、糸島の「伊都国」は国際的だったという。

また可也山(かやさん)という秀麗な山があり、そのネーミングからも糸島は朝鮮半島と直結する地域であり、さらに糸島からは「ドルメン」と呼ばれる「支石墓」が多く、これも朝鮮半島の墓形であり、二重の意味で糸島は「国際的」だったーーと結論付けている。

おいおいそれは待っただ。

糸島が帯方郡からの使者が九州で最初に上陸した末蘆、すなわち唐津市から東南に500里(徒歩の行程で5日)の場所にあるのだったら「糸島=伊都国」でよい。しかし糸島は唐津からは東北であり、さらに伊都国が糸島であるのなら、壱岐の島から船を直接着ければよいのである。

まして糸島が伊都国ではないと言っている史料が二つあるのだ。

一つは仲哀天皇紀で、仲哀天皇が糸島方面に行くと糸島の豪族である「五十迹手(いそとて)」がまめまめしく仕えたので、天皇から「伊蘇国」と名付けられたという説話である。もう一つは筑前国風土記逸文「怡土郡」の説話で、内容は書紀のと大同小異だが、こちらは五十迹手が「(私の先祖は)高麗国の意呂山に天下りしたアメノヒボコ(天の日矛)の後裔でイソトテと申します」と、先祖の出自を述べているのが大きな違いである。

垂仁紀によれば、アメノヒボコは新羅の王子であった。新羅はまだその頃は「斯蘆(シロ)国」であり、辰韓の一部であったから、辰韓王の後裔の崇神天皇はその和風諡号に「五十(いそ)」を持っており、「五十迹手(いそとて)」が意味するところは、糸島はもと「五十(イソ)国」だったということであり、伊都国(いとこく)ではなかったのである。

したがって倭人伝上の「伊都国」を「いとこく」と読んで糸島に比定するのは誤りであり、その結果、唐津からの「東南500里」が「東北500里」になってしまい、「方角はいい加減なんだ」というメッセージを与えててしまった。

南を北に変えるというこの誤謬から、邪馬台国への道程は九州島を離れてどんどん東へ行き、「邪馬台国畿内説」が成り立つことになってしまった。いまだに邪馬台国の比定地をめぐって収拾がつかないのは、ひとえに「伊都国糸島説」という誤謬から発しているのである。

糸島が当時「国際的な港」であったことは確かだ。そのことを端的に示すのが「可也)カヤ)山」の存在である。もちろんこれは朝鮮半島南部にあった「伽耶」で、伽耶は任那ともいい、倭人伝時代は「弁韓12国」と呼ばれていた倭人の国々である。

その弁韓(任那)に辰韓王が移動(天下り)したのが、五十迹手(いそとて)の先祖の崇神天皇であった。そして半島のひっ迫により、さらに安全地帯である九州島の糸島に移動して来たのだ。

崇神天皇の和風諡号「御真木入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコ・イソニヱ)」は「任那の地に入り、糸島(五十)で瓊(ニ=玉)を殖やした王」と解釈されるのである。
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