鴨着く島

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渡来人の初出(記紀点描⑨)

2021-08-13 10:29:35 | 記紀点描
【任那人・蘇那曷叱知(ソナカシチ)】

記紀のうち特に日本書紀には朝鮮半島や中国大陸からの渡来人が頻出するが、その中で最も早いのが書紀の崇神紀と垂仁紀に登場する「蘇那曷叱知(ソナカシチ・ソナカシッチ)で、この人は任那人であるという。崇神紀は次のように記す。

〈崇神紀65年秋7月、任那の国、蘇那曷叱知を遣わして朝貢せり。任那は筑紫国を去ること2000里余り、北の海を隔てて、鶏林(新羅国)の西南に在り。〉

崇神天皇はこの3年後に崩御しており、おそらく老齢で今はの際に近かった崇神天皇の見舞いの形で派遣された者だろう。任那は崇神天皇の和風諡号「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ)」の「御間城(ミマキ)」の語源の地でもあるのだ。

この人物はまた、あとを継いだ11代垂仁天皇の代まで滞在しており、崇神天皇の崩御を見送り、さらに新天皇の垂仁の即位を見守ったことになる。中国王朝において、その皇帝の死と新皇帝の即位には周辺の諸王・諸族から「弔問」や「朝賀」の使者が送られたが、そのことを彷彿とさせる。

さてこのソナカシチが、朝賀の役を済ませて任那へ帰る時(垂仁天皇の2年)に、ちょっとした事件が起こる。それは任那の国王への土産として「赤絹100匹」(匹は2反であるから200反であり、相当な量である)を持たせたところ、道中で新羅人によって奪われた、というのである。そして、これがきっかけとなって任那と新羅との間に怨恨が生じたと書く。

その怨恨の結果が2世紀以上あとの6世紀(562年)の新羅による任那併呑であり、この「赤絹事件」は言わばその予言説話に当たる。

この記事の後に「一(ある)に曰く」ともう一つの「一(ある)に曰く」と前置きした説話があるので紹介しておく。どちらも長い説話なので、要点のみ略して記載する。

最初の「一に曰く」では、まずソナカシチの別名が記される。

別名①「意富加羅国の王子、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)」及び別名②「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)」が示されている。

つまり任那人ソナカシチは三つの名を持っているということである。「シチ(叱知)」は「ツヌガアラシト」の「シト」と「ウシキアリシチカンキ」の「シチ」と同義であり、魏志韓伝によれば「首長」の意味である。また「ウシキアリシチカンキ」の「カンキ(干岐
=旱岐とも書く)」は、やはり「首長」の新羅での用法である。

別名の①と②を比較すると結局最初の「ツヌガ」と「ウシキ」だけの違いとなる。私見では「ツヌガ」は「ツヌカ」で、「角鹿」すなわち福井県の敦賀」を想起する。また「ウシキ」は「ウシ=牛=大人」と捉え、「大人の港」の意味にとる。

「角鹿」は神功皇后が新羅征伐から凱旋したあと、武内宿祢が神功皇后の生んだ応神天皇(ホムタワケ)を連れて「気比大神(けひのおおかみ)」を参拝しに行った所であった。そこは半島南部との交流の地点でもあったから、半島南部のウシキ(大人の港)には角鹿(敦賀)からの倭人航海民がいたとしてもおかしくはない。

このウシキすなわち「大人の港」こそ、金海のことと推量する。金海の古い名は「金官伽耶」であり、魏志倭人伝に記された時点では「狗邪韓国」で、れっきとした倭国であった。任那とは5世紀初頭の高句麗好太王碑に「加羅」とともに刻まれた旧弁韓の倭人国のことであり、辰韓王であった崇神天皇の祖先が列島に移動する前に王宮を築いた由緒ある国であった。

ソナカシチはその任那王(王名は不詳)によって派遣された崇神天皇への弔問使であり、同時にまた垂仁天皇への朝賀使でもあったということになる。時代は西暦310年代のことであったと思われる。

もう一つの「一に曰く」だが、これは難波と豊前の二か所に祭られている「比売語曽(ひめごそ)神社」の由来譚である。

ツヌガアラシトがまだ国(任那=大加羅)にいた時分のこと、ある村で祭っているという白い石を貰い受け、床の辺に置いたところ、美女になった。交わりを持とうとしたが女は東へ逃げて行った。追いかけ、船を出して行き着いたのが倭国だった。その女は難波まで逃れて比売語曽の社に祭られたという。また、豊前でも祭られたという(※古事記では応神天皇の時代のこととし、難波の比売語曽神社を挙げ、祭神の名をアカルヒメとする)。

このことから言えるのは、最初の渡来人はツヌガアラシト(ソナカシチ)だけではなく、女神アカルヒメも招来されたということである。

 【天日槍(アメノヒボコ)】

日本書紀では垂仁天皇の2年にソナカシチ(ツヌガアラシト)が3年にわたる滞在を終えて任那に帰るのだが、それと入れ替わるように同天皇の3年に今度は新羅の王子「天日槍」が渡来する。この人も最初期の渡来人として扱うことにする。

古事記ではソナカシチの渡来説話はなく、この「アメノヒボコ」の渡来が最初である。しかも「天之日矛」と書き、垂仁天皇の時代ではなく、応神天皇の時に渡来したように書かれている。ここの齟齬は大いに疑問のあるところである。

まずアメノヒボコの漢字だが、書紀では「天日槍」と書いており、これはどうしても「アメノヒヤリ」としか読めないのだが、岩波本でも他の解説本でも「アメノヒボコ」としている。古事記が「天之日矛」と書く方に合わせたのだと思われるが、「アメノヒヤリ」と読んで差支えはない。しかし、ここでは古事記の方の「アメノヒボコ」を採用しておく。

次の方が大きな齟齬であるが、書紀では垂仁時代なのに、古事記では応神時代の渡来としてあるのはなぜかということである。

これは古事記の方がおかしいのである。その理由は、応神記のアメノヒボコ説話の最後の方で、アメノヒボコが但馬に定着し、その子孫を述べた箇所があるのだが、アメノヒボコの子孫の5代目が垂仁天皇のために常世国にわたって「トキジクノカグノコノミ」(橘のこととされる)を採って来た「タジマモリ」であると記している。

第15代の応神天皇の時代に渡来して来たアメノヒボコの5世孫であるタジマモリが、過去の第11代の垂仁天皇に仕え、トキジクノカグノコノミを採取して来るなんてことは金輪際あり得ないことである。

したがってアメノヒボコが渡来してきた時代は垂仁天皇の代としなければおかしい。これは古事記の編纂者である太安万侶は神武天皇の長男・カムヤイミミの裔孫であり、神武王統(投馬国王統)を断絶させた崇神王統が半島由来であることを糊塗するための造作であると考えてよい。(※同じ意図で造作したのが崇神と垂仁の和風諡号における「五十」の脱落であったことは以前に指摘した。)

さてこのアメノヒボコがもたらした「神宝」というのが次のようである。

1.羽太の玉 2.足高の玉 3.鵜鹿鹿(ウカカ)の赤石玉 4.出石の小刀 5.出石の鉾 6.日鏡 7.熊の神籬

の7種であった。これを定住した但馬国に保管して、常に「神宝」扱いをした、とある。

ところが分注に「一に曰く」として、神宝は7種ではなく8種あったとも書く。もう一つの神宝は「胆狭浅の太刀」で「イササノタチ」と読ませている。1~3は「玉」、4、5は「小刀と鉾」という武器、6は鏡であり、7は「ヒモロギ」と読み「祭礼の際の神の依り代」のことである。分注に見える「胆狭浅の太刀」は4,5と同様武器に当たるものである。

一方で古事記の応神記に載るアメノヒボコ招来の「神宝」は、1と2 珠(玉)が二種類、3.浪振る領巾(ヒレ)4.浪切る領巾 5.風振る領巾 6.風切る領巾 7.奥津鏡 8.辺津鏡 の8種である。

書紀と古事記の「神宝」にはかなりの違いがある。特に古事記の3~6が「領巾」という点である。この「領巾」が「太刀」であるのなら、古事記記載の神宝も「玉、太刀、鏡」という「三種の神器」に重なる物になるのだが、ここをどう理解したらよいのか、今のところ解釈に余る点である。

新羅(辰韓)王子のアメノヒボコは任那から渡来したソナカシチ(ツヌガアラシト)と違い、但馬の出石に定住しており、出石においてはこのような「神宝」を祭礼に使用したものと思われる。

同じく半島由来の崇神、垂仁両天皇の祭儀にはアメノヒボコが持参したような「神宝」を使用した可能性が高いだろう。両天皇がしばらく本拠地としていた糸島の「五十王国」において、「鏡・玉・太刀(剣)」の祭儀が始まったと理解してよいのかもしれない。