鴨着く島

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全国戦没者追悼式2021

2021-08-15 14:47:55 | 日本の時事風景
今年も終戦の日がやって来た。

東京の武道館で開催された「全国戦没者追悼式」は、コロナ禍の中、いつもの30分の1くらいの参列者200名余りをを数えるだけであった。

今年初めて、戦没者の配偶者(妻)が出席しなかったという。参加の予定だったのが、各県で参加自体を取りやめるのが多かったので、勢いそうなったのだろうか。

仮に参加できたとして、終戦時に25歳だった若妻でも、今はもう101歳であるから、たとえ元気であっても、感染爆発の東京には出たくなかったのかもしれない。

テレビ画面でも十分に追悼はできる。私の身内に直接の「戦没者」はいないが、毎年この日はテレビで追悼式を見ながら黙祷をしている。

追悼の「お言葉」を述べられるマスク姿の天皇陛下。雅子皇后さまもマスクを着用。去年もそうだった光景である。参列者も全員がマスクを着けていた。

8月15日は「終戦の日」である。決して「敗戦の日」ではない。

日本が米英仏蘭と戦った太平洋戦争は本来「大東亜戦争」というべきで、大東亜(アジア)に植民地を持つこれらの国々との戦いは、アジア解放の戦いでもあったことをゆめゆめ忘れてはなるまい。

その多くはアジアに最も少ない植民地(フィリピン)しか持たないアメリカとの戦いになったが、主として英米仏蘭の「人種差別的な植民地主義」への挑戦だった。アメリカ一国が日本の主たる敵になったのは、英仏蘭がヨーロッパでヒットラーのドイツと戦っていたからである。

アメリカは最終的にはヨーロッパ戦線にも出兵したが、大きな痛手は蒙らず、その分、対日戦線に注力できたのだ。その結果日本は敗れたが、アジアの多くの国で植民地からの解放の動きに火が点き、独立を果たし、直接かかわりを持たなかったアフリカ諸国でさえも独立の機運が高まり、1961年は「アフリカの(独立の)年」と呼ばれることになったほどだ。

戦後の連合軍(その主力は米軍)の占領政策で、「マッカーサーの欽定憲法」の押しつけとともに、そのような観点からの大東亜戦争は顧みられなくなったが、史実は史実である。

特に1955年のインドネシアにおける「アジア・アフリカ(バンドン)会議」では、主唱者のスカルノ、エジプトのナセル、インドのネルー、中国(共産党政府)の周恩来など戦後のアジア独立の錚々たる指導者たちが、アジア解放に大きな貢献をした日本を招聘しようとしたのだが、当時すでに第一次日米安保(1952年~1960年)が結ばれていたため、アメリカに忖度した日本政府は、政府代表として首相が出席すべきところ、たかだか外務省の審議官クラスしか出席させなかった――という経緯がある。
(※アメリカへの忖度が外交音痴の戦後日本を生み出したが、これは最初期の象徴的な出来事である。)

日米安保が結ばれている限り、日本があの戦争で何を目的として戦ったかの史実は、このような「アメリカへの忖度政策」でうやむやにされて来たのである。あの戦争の真実を知るためには、また戦後の歴史の真相を深くとらえるには、「日米安保、もし、無かりせば」という視点が必要である。

その時、戦没者がたんに犠牲者ではなく、欧米植民帝国主義と戦って命を落とされた尊い犠牲であったことに、思い至るだろう。

そして戦没者の方でも、かくも世界が植民地主義、人種差別主義から解放されているその様子を目の当たりにしたら、「ああ、世界には平和が訪れている。人類はもう二度と戦争をしてはいけない」と改めて我々子孫のために思うことだろう。

「マッカーサー欽定憲法」の下でも構わないから、「終戦の日」に、日本は永世中立宣言を「発出」しよう。それが戦没者への誓いであるべきだ。

世界もそれを待っている。