鴨着く島

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多様性の中のオリンピック

2021-08-01 09:55:19 | 日本の時事風景
東京都の新型コロナ感染者数が右肩上がりだ。

3日連続して3000人を超えたあと、昨日はついに4000人を突破、オリンピックが始まる前に政府諮問機関のコロナ対策分科会会長の尾身会長が「8月上旬には東京都で3000人を超える感染者が出る」と言っていたのが、一週間以上前倒しになった。この分だと5000人を超える日が近い。

全国でも、3日前に1万人を突破しているが、もう菅総理の言うように「欧米に比べて数分の一だ。人流も減ってきている。」と呑気な事を言ってはいられない状況になっている。緊急事態宣言を延長してでも、また無観客でも、とにかくオリンピックの開催にこだわった菅総理の「賭け」は裏目に出たと言ってよい。

その一方で、連日テレビの向こうでは日本人選手の活躍が目立つ。

昨日までで日程の半分が終わったが、日本選手の獲得した金メダルは史上最多の17個となった。後半にも金メダル候補の選手がいるから、20個の大台に乗せるのは間違いないだろう。

(※アメリカ発の商業主義オリンピックは金(かね)まみれだが、こっちのは金(きん)まみれ。同じ金でも雲泥の差だ。)

もっとも、金メダルが確実視されていた選手の敗退もすでにかなりの数に上る。テニスの大坂なおみ、男子バドミントンの桃田、男子水泳の瀬戸、女子トランポリン、などなど。

この中の大坂なおみだが、彼女はプロになってしばらくは父親(アメリカ)と母親(日本)双方の国籍で、どちらにするか迷っていたようだが、最終的には日本のオリンピック代表になりたくて日本国籍を取得したらしい。

そのため、日本人選手としてエントリーされ、聖火台に登って点火するという名誉ある大役が回って来た。

しかし3回戦で敗退するという不甲斐なさだ。この連日の暑さの中で決勝まで戦い、優勝しても300万の報奨金では馬鹿らしさが先に立つのかもしれない。それより早々と負けて今後のプロ活動に支障のない道を選んだのではないか、などとゲスの勘繰りもしたくなる。

プロのテニスプレイヤーの間ではオリンピック出場辞退が相次いでいた。やはり屋外での競技で、一試合で2~3時間はかかるテニスにとって、真夏は最も不向きな季節なのだろう。これもアメリカのテレビ系メディアの商業主義の被害者と言っていい。

また昨夜は陸上女子100mの決勝戦が行われたが、ライブであるにもかかわらず何と日本時間の夜9時であった。日本とアメリカの主要都市の時差が13時間だということを考慮すると、土曜日の朝8時だから多くのアメリカ人が寝起きでくつろいでいる時間帯で、これに合わせた演出だろう。

この100mではジャマイカ勢3人が金銀銅を独占し、アメリカ人選手はメダルを逃している。

面白いのが、ジャマイカ人選手の表情だった。トップの選手はいつもは2位の選手の後塵を拝していたらしい。それがトップかつオリンピック新記録で優勝してしまった。だが、2位の選手は(3位の選手も)優勝したその選手を祝福もせず、そばにも寄らずにいたことだ。明らかにトップ選手を歓迎していないようなのだ。

その真因は分からないが、通常なら「心ならずも」そばに駆け寄っておめでとうとでも言いそうなものだが、そうしなかったのは単にトップ選手への報奨金が半端ない額だったりして・・・。ジャマイカでそこまで「金主主義」が蔓延しているとは考えたくないが、アメリカに多数の野球その他スポーツプレイヤーを送り込んでいる国だから、アメリカ流金主主義の毒が回っているのかもしれない。

日本のように各種スポーツは通常は学校関連の「部活」や「道場(少年クラブ)」で始まり、一部はプロ選手になるが、多くのそれ以外の「ノンプロ」はそれなりの継続方法、いわゆる「生涯スポーツ」的な生き方にハマるが、アメリカ由来のスポーツ金主主義の国ではとにかく金に結び付けるから、生涯スポーツはさっさとあきらめて指導者として稼ぐか、金主主義の中心的アイテムの株式投資にいそしむことになる。


先まで視聴していたТBSの「関口サンデーモーニング」では、オリンピック競技を「人種と性の多様性」の観点から論じていたが、ゲストコメンテーターの東大教授の姜(カン)氏が「多様性の対極にあるのが、国家と商業主義だ」と述べていた。

この中で「国家」というのは確かに一面その通りであるが、選手は国の代表としてエントリーされ、派遣費用も国が負担するわけだから、「国は関係ない、競技したのは俺なのだから」と個人を前面に押し出すのは、人としてどうかと思う。

しかもオリンピックの理念は「スポーツを通じた世界平和の祭典」なのである。国家がある以上は国家間の平和を実現しなければならず、オリンピックはそのことを確認する一大イベントとして始まった経緯がある。

しかし今度のオリンピックで2度目という「難民選手グループ」という団体が出場している。このアスリートたちの中でもし優勝者が出た場合、表彰式で流される「国歌」はどうするのだろうか。

香港の金メダルを獲得した選手の表彰式で、旗については香港独自の旗だったが、流された国歌は中国のものだったとして話題になっているが、香港独自の「国歌」がない以上、また必ず国歌を流すという規定がある以上、仕方がないのかもしれない。

これから「多様性」の下で、そんな場面が見られるようになる可能性が高い。

私は表彰式の国歌演奏に代えて、IOCによる「優勝選手を讃える歌」なるものを作り、流す前に「優勝選手(誰々と名を言う)を讃える。そして彼(彼女)を育んだ土地を讃える」というアナウンスを放送したらよいと思っている。

不甲斐なくもメダルを逃した選手が、メダル(特に金メダル)を獲得した選手が母国で大々的に持ち上げられる陰で、見向きもされない待遇を受けるのを見ていると空しい思いが拭いきれない。「参加することに意議がある」と言われたオリンピックだが、敗退者には厳しいのが現実である。「国家」の期待に応えられなかったトラウマが選手を苦しめるようでは困る。


次に国家と同様に「商業主義が多様性の対極だ」という姜(カン)氏の意見は少しおかしい。

というのはスポーツにおける「商業主義」というのは、その資金力が自国以外の選手を自国に入れてプレーをさせ、興行主が儲け、活躍した選手が多額の金(かね)をゲットする仕組みであり、これあればこそ「国境(国家)を超え、人種の多様性が保障されているのだから。アメリカに行っているプロ野球選手然り、プロテニス然り。プロゴルファー然りだ。ごく最近はスケボーの選手も向こうへ行くようになった。

こういった形での国際交流は金主主義的で、本来的な交流ではないが、それでも無いよりはましだろう。

ただ、オリンピックについては、もともとは「アマチュアスポーツの祭典」だったのだが、アメリカのテレビメディアによる放映権料という多額のマネーが動き出してから、各種競技に(主にアメリカの都合の良い競技に)プロ選手を導入している。また、野球とか女子ソフトボールとか、参加国がたったの6か国しかないような競技は、その考えとは別に、もうやめにしたらよい。(※実際、次のフランス大会ではどちらの競技もない。)

競技の多様性では、私の偏見と言われるかもしれないが、女子ボクシングと女子重量挙げは競技から外して欲しい。見るに堪えない。女子スポーツは男子との垣根が次々に取り払われて「多様性」に応じたものになって来たのは理解というか許容できるが、前者は危険との隣り合わせだし、後者は「スポーツ」と言える代物ではない。(※男子の重量挙げもスポーツではないが、男子の力比べというのはどの競技よりも古くから存在するから、容認できる。)

女子も単純な「力比べ」をしたいのなら、「綱引き」をこれに代わって行ったら良い。綱引きこそは最古のスポーツの一つである。≺/span>