鴨着く島

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縄文時代早期文化の崩壊と拡散

2021-08-19 22:58:33 | 古日向の謎
8月11日のブログ「土器の発明は南九州)」の最後の方で述べたように、南九州(古日向)が発祥の縄文早期(11000年前~7500年前)の平底・筒型の「貝殻文土器」と「壺型土器」は、残念ながら薩摩半島沖の「鬼界カルデラ」の大噴火(約7500年前)によってほぼ壊滅した。

その後植生が再生されて人が住めるようになってから、新たな縄文文化が開始された。それは縄文前期だが、その初期を飾る土器が「轟式土器」で、少し遅れて「曽畑式土器」が認められている。

どちらも熊本県宇土市の貝塚から発掘されているという共通点があるのだが、轟式土器の方には貝殻文様が刻まれており、こちらは古日向の縄文早期の「貝殻文土器」の後継と言えるのかもしれない。この土器は古日向ではかなり普遍的に発掘されているので、担い手は7500年前の鬼界カルデラ噴火を生き延びた人たちの子孫だった可能性が高い。

その一方で曽畑式土器の方は、宇土市の曽畑貝塚で見つかった以外の出土例は少なく、局所的な土器に過ぎなかった。

ところが1960年、宮崎市の生目古墳群に近い「跡江貝塚」から大量の曽畑式土器が発見され、曽畑式土器への注目が集まった。この視線は思いがけない所からも注がれることになった。

そこは南米のエクアドルである。エクアドルを考古学的に研究していた米国人エバンス博士が、エクアドルのバルディビアといういう遺跡を調査していて、大量に見つかっていた土器片について、「それまでのエクアドル式土器類とは全く違う完成された土器群だ」と認識し、どのような経緯で比較したのか不明だが、とにかく曽畑貝塚出土の曽畑式土器の文様にそっくりなことに気付いたのであった。

1965年には夫妻で曽畑貝塚にまで足を運び、九州島からエクアドルに曽畑式土器が運ばれた可能性を確信している。

南米と南九州では太平洋を挟んで6000キロも離れており、まして間にあるのは広漠とした海である。

そんなにも広い大海原を7000年近く前に手漕ぎの船で渡れるものかどうか科学的な検証を得ているわけではないが、かつて沖縄海洋博が開かれた時(昭和50年=1975年)にミクロネシアのサタワル島から手漕ぎのカヌー〈チュチュメニ号〉で3000キロをやって来た現地民がいたから、全く不可能というわけではない。

航海民(海人=うみんちゅ)と言われる人たちは、陸上で暮らす人間には想像もつかない遠方にまで交易のために行くことがあるので、一概に否定すべきものではないだろう。

九州の西海岸にある曽畑貝塚の曽畑式土器が、今度は九州の東海岸に近い跡江貝塚で多量に発見されたのだから、その可能性に一石を投じることになったのである。もっとも、ここの曽畑式土器の土器片とエクアドルのバルディビア遺跡の土器片とに共通の文様があることに気付いたのは地元の考古マニアの日高という人で、年代は大分後になる。

その人の発信がエバンス博士の後継者という日本人女性に繋がり、彼女が来日して調べたところ、3~40パーセントの割合で似通っていたそうである。

土器自体が6000キロもの旅をするわけがないから、人が持って行ったのである。

曽畑式土器は朝鮮半島や沖縄でも出土しており、九州では今や特に熊本、長崎では普遍的にみられるのだが、宮崎の跡江貝塚で大量に見つかったことによって、鹿児島を含め九州全域に拡散した土器と言ってよい。

この拡散の中心をなしたのは、おそらく鬼界カルデラ大噴火を生き延びた南九州人ではないかと思う。

南九州は縄文時代中期になると鬼界カルデラよりはるかに小さいが、池田湖カルデラの噴出があり、霧島(高千穂)の噴火、開聞岳の噴火、山川湾カルデラ噴出、成川マールの爆発・・・と弥生時代に入るまで暇の無い火山活動に見舞われており、被害、避難、拡散が繰り返されて来た。

南九州の縄文人はそんな中を果敢に生きて来たが、陸上よりも海域を好んで乗り出したのも、飽くなき生存への意欲の表れと言える。

中で不思議なのが、南米の原住民に高い頻度で見られる「成人T細胞白血病」である。この白血病はHTVL-1ウイルスに感染して発症するのだが、母子感染が主な感染経路であるという。その感染率が南米と並んで高いのが九州南部、西部、それと沖縄なのだという。

太平洋を挟んで遠く離れていながらこの特殊なウイルスのキャリア率が他に比べて異常に高いという共通の傾向を示す原因は、やはり人の移動があったということだろう。

HTVL-1ウイルスの彼我の共有がいつからのことなのか、特定は難しいが、エクアドルにまで拡散したと思われる7500年前の鬼界カルデラの大噴火の時でなければ、池田湖カルデラの噴出した4500年前かもしれない。

いずれにしても、南九州において繰り返される大規模な火山災害は人々の最も忌み嫌うものだが、それを逃げおおせた人々がいて果敢にも海を渡り、太平洋の向こうに到達して居着いた過去があったと想像すると、まさに歴史はロマンでもある。