鴨着く島

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熊襲・隼人・薩摩・鹿児島という古称(1)

2020-07-07 10:32:06 | 鹿児島古代史の謎
今日でも鹿児島というと「薩摩隼人」「西郷隆盛」「桜島」を思い浮かべる人が多い。

西郷隆盛は個人名だが、余りにも有名で、この人の名を冠した著作は汗牛充棟のありさまである。おそらく日本の出版界でも異例の数ではないかと思われる。

しかし、ここでは150年前という比較的新しい人物名ではなく、古代から続く鹿児島ならではの固有名詞を考えてみたい。


  熊曽(クマソ=熊襲とも書く)

クマソについてはすでに当ブログ「古代の南九州人(1)クマソ」で、記紀を中心に取り上げ、その成り立ちから意味するところまでを述べているが、もう一度私見を確認しておく。

私見では熊曽を「暗愚で凶暴な部族」という解釈に採らず、「熊」を「火をものともしない・火をコントロールできる」という形容詞と捉えた。

そう考えると「熊曽」とは、南九州特有の巨大カルデラ火山活動にもめげずに、たくましく生きる「曽人(そびと)」なのであった。

そこに使われている「熊」には決して動物の熊に擬せられるような「暗愚で凶暴な」という蔑視はなく、むしろ畏敬の念すら暗黙の裡にあった称号だった。

宋代の奇怪小説『封神演義』で、下手な釣りばかりしていた太公望が「飛熊」という号を持っていたことに対して、「熊は高人・神人・仙人の類の高潔な人物にしか付けられない号名だ」と言われたうえで嘲笑われる個所が出てくるが、ここからも言えることは「熊」は決して「暗愚・凶暴」という範疇の言葉ではなかった。

「熊」はあくまでも「火を恐れない・火山とともに生きる」畏敬すべき属性を表していたのである。


  曽人(そびと)

熊曽は上述のように「火をものともしない曽人」を表す言葉だが、では「曽(そ)」の由来は何だろうか。

幕末の国学者・白尾国柱(しらお・くにはしら)は「曽は南九州全域を指す言葉である」と『麑藩(げいはん)名勝考』で述べているが、これは古事記の国生み神話で南九州を「熊曽国」としていることからも明らかでその通り。ただし「「曽」については見解を披歴していない。

曽(そ)は私見では「背(せ)」からの転訛と考えている。

「背」が「そ」と読まれる例は管見では三例ある。一つはニニギノミコトの降臨説話、もう一つは仲哀天皇紀である。これは同じものを指している。

ニニギノミコトは高千穂に降臨した後、国まぎをしながら通り過ぎて行ったのが「膂宍(そじし)の空国」であり、仲哀天皇が海の向こうにある新羅を討たずに熊襲を討とうとして神にたしなめられる際に言われた「天皇何ぞクマソの服さざるを憂いたまふや。これ膂宍(そじし)の空国ぞ」であり、この同じ「膂宍(そじし)の空国」はどちらも南九州を指している。

「膂宍(そじし)」とはイノシシの背中の肉で、背骨に絡みついたわずかばかりの肉だそうである。肉らしい肉が取れないことからこの表現は「生産力に乏しい貧困な」を表していることは疑いない。

たしかに南九州はその火山灰土による生産性の低さ、そして秋になると必ず襲来する台風による収穫減という二重の障害により貧困ではあったことは間違いない。

ここではそのことはさて置き、「膂宍(そじし)」を考えてみると、これが「背の肉」であれば、「膂」は「背」でもあることになるだろう。したがって「背肉」は「そじし」であり、「背」は「そ」と読んでいいことになる。

三つ目は、万葉集・巻一52番の長歌に次のように載っている。

「やすみしし わご大王・・・(中略)
 ・・・青香具山は 日の縦の 大御門に
 春山と しみさび立てり
 畝傍のこのみづ山は 日の緯の 大御門に
 みづ山と 山さびいます
 耳無の青菅山は 背面(そとも)の 大御門に
 宜しなべ 神さび立てり
 名細し吉野の山は 影面(かげとも)の 大御門ゆ
 雲居にぞ 遠くありける

「背」を「そ」と読んでいる箇所は上から六行目、耳無山のところに出て来る。

耳無山(耳成山)は藤原宮の北にあり、大王が南面した時、その真後ろ(背中側)にある山で、その位置から「背面の(山)」としてある。これを「せとも」と読まずに「そとも」と読んでいる。つまり「背(せ)」から「そ」への転訛があったわけである。

以上の三例から「せ」が「そ」になることが分かった。

このことから帰納すると「背(せ)人」から「曽(そ)人」は有り得ることになろう。

もとの「背」は「背の君」などの用例があるように、「無くてはならない大切な」という意味である。背骨は「バックボーン」と言われるように、物事の背景にあって物事を成り立たせている役割を担っていることの象徴でもある。

人間で言えば「背=曽」は「原(元)郷」(本つ国)に相当する言葉である。


   隼人

薩摩隼人というのが幕末以来、勇猛果敢な鹿児島県人の通称のようになったが、本来は古代の王権が名付けた「蔑称」の一種だった。

これもクマソと同じように、記紀に記載の隼人記事を取り上げ、その命名の経緯を見たのだが、「隼人(はやと)」という名称そのものについての考察はなかった。

この点については、隼人学の第一人者である元鹿児島国際大学教授の中村明蔵氏の卓論があるので
容喙する余地はほとんどない。

中村氏の見解は次のようである。

――天武天皇の時代に律令制による「小中華帝国」を目指した時、お手本の中国(唐)では服従させるべき「四方の蛮族(四夷)」と同じく「四方を守る聖獣(四神)」が定められていたのに倣った。

後者の四神とは、北が「玄武」、南が「朱雀」、東が「青龍」、西が「白虎」で、それぞれの「聖獣」が朝廷の東西南北を守る仕組みで、南方を守るのは朱雀(すざく)であった。

朱雀とは古くは「鳥隼」を表し、周礼によると軍旗に描かれる「隼(ハヤブサ)」のことであった。ハヤブサは勇捷(ユウショウ=すばやい)の象徴であり、南に居住する南九州人はまさにその役割にうってつけであった。

このことから南九州人を「ハヤブサの人」とする名称が生まれ、「はやひと」から「はやと」になった――。


ハヤトを「隼人」と書く由縁はこの説で完璧だろう。

ただ、漢字以前のハヤトは「囃子(はやし)人」の「はや」説も捨て切れない。霧島市国分に残る「拍子橋」伝説では、頑強なハヤトを手なづけようと手拍子などで囃子(はやし)たら、進んで
 踊り出したので、一網打尽にしたという。

また、702年に薩摩国が成立した当座は、薩摩国ではなく「唱更国」と書いて「ハヤシ国」と読ませている。それほど現地南九州人は手拍子・囃子を好んでいたのである。この特徴をとって「はやすことの好きな人」の短縮で「はやしひと」から「はやと」になったというのも、あながち空論ではないように思われる。 

<熊襲・隼人・薩摩・鹿児島という古称(1) 終わり>
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