鴨着く島

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弁辰瀆盧国(ベンシン・トクロ国)

2021-10-02 10:06:25 | 邪馬台国関連
ブログ「神功皇后②」の中で、仲哀天皇は弁韓王であり、仲哀3年条で、天皇が紀伊の「徳勒津(とくろつ)宮」から筑紫(九州)に向けて出航したとあるのは、実は半島南部の弁韓12国の1国である「弁辰瀆盧国」の港からだったのだーーと書いたのだが、この弁辰瀆盧国(ベンシン・トクロ国)について述べておく。

弁辰瀆盧国は単に「瀆盧国」で良いのだが、「弁辰」が付いている意味は、魏志韓伝に見えるように、三韓(馬韓・弁韓・辰韓)のうち弁韓と辰韓とは「雑居している」のであった。つまり兄弟国と言ってもよい両国関係だったのである。

「弁」は「分かつ」と同義の漢字で、「弁辰」とは「辰を分かつ」、すなわち「弁韓は辰韓から分離した」という歴史を表している。

彼らの風俗には「文身」(刺青を施した身体)が普通にあったということから、九州島中心の倭人の中でも水運に長けた「安曇族・宗像族・鴨族(南九州)」などが、伽耶(弁韓)に鉄山が開発されて以降、続々と海峡を渡り、交易に乗り出した経緯があった。

そしてその結果、辰韓との交流の中で、辰韓から土地の租借か譲渡かは不明であるが、倭人中心の国家群が形成された。

以下に、魏志韓伝に記載された弁韓および辰韓の国家群を挙げてみる。

1己柢国 2不斯国 3弁辰彌離彌凍国 4弁辰接塗国 5勤耆国 6難彌離彌凍国 7弁辰古資彌凍国 8弁辰古淳是国 9冉奚国 10弁辰半路国 11弁辰楽奴国 12軍彌国 13弁軍彌国 14弁辰彌烏邪馬国 15如湛国 16弁辰甘路国 17戸路国 18州鮮国 19馬延国 20弁辰狗邪国 21弁辰走漕馬国 22弁辰安邪国 23馬延国 24弁辰瀆盧国 25斯盧国 26優由国

以上が記載されているのだが、19と23は同じ「馬延国」で重複しており、また13の「弁軍彌国」は12の「軍彌国」の2重誤記かと思われ、これらを除外すると、26か国から24か国となる。「弁辰」の付く弁韓国家群(のちの伽耶=任那)が12、何も付かない辰韓国家群(のちの新羅)も12、合計で24か国である。

さて、いま問題にしている「弁辰瀆盧国」は24番目に出てくる国である。

この国の位置だが、2006年に出版された『韓国歴史地図(日本語版)』(韓国教員大学歴史教育科・著)によると、釜山(プサン)が該当している。1800年前の当時、釜山がどの程度の港町であったかは知る由がないのだが、まさに九州島に最も近い要津であったことは間違いないところである。

仲哀天皇が弁韓王であったとすればどこに王宮があったのだろうか。垂仁天皇時代に渡来した「大加羅国の王子・ツヌカアラシト」に因んだ「ツヌカ国」でもあれば、そこに比定できるのだが、そういう国はない。

同じ『韓国歴史地図』によると、10の「弁辰半路国」はのちの「大伽耶国」であるとしているからここだろうか。

現代の都市名でいえば「高霊」であり、西北には鉄山で名高い「伽耶山」が聳えている洛東江中流の一大繫栄地である。

しかし、そこはまた新羅(上の国家群で言えば25の斯盧国で、辰韓12国を統一を果たしつつあった)にも近く、斯盧国による新羅統一への戦いで真っ先に襲われるところでもあった。

仲哀天皇は新羅との戦いで、常に苦戦を強いられていたわけではなく、神功皇后紀に見えるように大勝利を収めたこともあるに違いないが、新羅統一の奔流には逆らえなかったのだろう。

仲哀天皇が「クマソ征伐」のスローガンのもと、洛東江の河口に位置する瀆盧国の港「トクロ津(徳勒津)」から九州島への渡海を敢行したのは、おそらく斯盧国による新羅統一が成る西暦350年代前半の頃ではなかったと思われる。

その列島への渡海に大きくかかわったのが武内宿祢であった。武内宿祢は南九州クマソ(鴨族)王であり、腹違いのウマシウチスクネによって「筑紫はもとより三韓をも手中に入れて大和とは別の王権を立てようとしてます」と応神天皇に告げ口されたほどの大勢力であった。

しかしながら武内はすでに仲哀天皇の前代の成務天皇の「股肱之臣」であり、もしかしたら成務天皇と同日生まれと記されていることから見て、成務天皇自体が武内宿祢の仮託なのでは、という疑いすら持たれるほどの権力者であったのだ。

神功皇后が筑紫の宇美で皇子の応神を産んだのを引き取って、わざわざクマソの地南九州を経由して紀伊に到ったと神功皇后紀は記すのだが、応神天皇は武内宿祢の孫であった可能性が高いのではないかと思う。

ただ、「クマソ」という「種族名」は神功皇后が新羅征伐に出陣する前に「吉備臣の祖・鴨別(かもわけ)」を遣わして、クマソ国を撃たせた」ところ、「いまだ、いくばくも経ずして、自らに服せり」(神功皇后紀摂政前紀・3月条)とあるのが最後の登場で、以後、クマソ(熊襲)という種族名は消える。

(※クマソ名の流行は、景行天皇時代に始まり、神功皇后の時代に入ってすぐに消滅したことになり、かれこれ考え合わせると310年代から350年代の前半までのたかだか50年ほどしかない。この後、南九州の在地人は履中天皇時代の430年代から奈良時代を経て800年代までの約500年ほども使われるハヤト名になる。)

神功皇后が派遣したという「鴨別」に注目したい。この人物は鴨族の一党ということであり、クマソとは同族と言ってよいので、「クマソ征伐」収拾にはもってこいの人物であった。神功皇后たちの半島からの渡来はすぐに了解されたのだろう。





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