鴨着く島

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伊都国を糸島としちゃあ,お仕舞いよ

2022-09-08 10:56:52 | 邪馬台国関連
高校2年生の時に邪馬台国素人論では異例のベストセラーになった『幻の邪馬台国』(宮崎康平著・1966年刊)を読んで以来、邪馬台国問題は折に触れて考えて来たが、確か1992年頃が転機だったと思う。

最初に興味を持ってから25年ほども経ってからだが、それまで古田武彦・安本美典など錚々たる論者が一大論争を繰り広げていたのだが、私は論点がちと違うぞ、と思い始めたのである。

どう論点が違うかというと、帯方郡からの邪馬台国までの郡使が通ったであろう行程についてである。

古田にせよ安本にせよ壱岐国から九州島に上陸するまでは同じだが、上陸後の「東南陸行500里、到伊都国」の解釈が、判を押したように、「九州島の上陸地点である末盧国から東南に500里歩いて至る国が伊都国で、そこは現在の糸島市である」と結論するのである。

糸島市は旧怡土郡前原町と志摩町、二丈町が合併したもの。この3町のうち旧怡土郡前原町が伊都国に比定された。平原弥生式古墳はじめ弥生時代中期の著名な甕棺王墓の井原遺跡・三雲遺跡や40面におよぶ大量の鏡が副葬された平原古墳などが集中していたからである。

(※糸島出身の考古学者原田大六はその著『邪馬台国論争(上・下)』で三雲・井原・平原の各弥生墓について考察し、これら弥生古墳の築造は卑弥呼の時代より100年ほど前で、この古墳を築造した勢力が畿内に渡ったのが「倭国の乱」であるとした。そして第10代崇神天皇の大叔母に当たるヤマトトトヒモモソヒメこそが卑弥呼であるとした。)

しかし、そもそも「伊都国」を「イト国」と読んで「怡土(いと)郡」になぞらえがちだが、それは誤りである。

なぜならこの「怡土(いと)郡」について書かれた最古の文献は日本書紀の「仲哀天皇紀」なのだが、そこに登場する豪族の名は「五十迹手(いそとて)」であり、仲哀天皇にまめに仕えたので天皇から「お前は伊蘇志(いそし)き男である。よって国名を伊蘇(いそ)国としなさい」と書かれている(同天皇8年)。これにより「怡土(いと)郡」は本来は「伊蘇(いそ)国」だったのである。

また別の文献である『筑前風土記(逸文)』にも「怡土県主の祖・五十迹手」が船で仲哀天皇を長門国の引島に迎えに参上したので天皇から賞せられた、「恪(いそ)しき手(人物)である」と。この由緒によれば五十迹手の本土(もとつくに)を「恪勤(いそしき)国」と呼ぶべきなのだが、今は「怡土郡(いとのこほり)」となっている。これは転訛である。

日本書紀の編纂は720年で、風土記はその頃朝廷から各地方へ編集命令が出されており、時間的には後者は書紀より10年以上は遅れて書かれているので、後者は前者の引き写しだと考えることもできるが、後者には独自の記事があり、必ずしもそうとは言えない。

この両文献から、私は糸島(旧怡土郡)は仲哀天皇時代(およそ350年前後)には、土地の豪族「五十迹手(いそとて)」に因んで「イソ国」であったとしてよいと考える。したがって「伊都国」を「イト国」と読んで、元来「イソ国」であった「怡土(いと)郡」に引き当てるのは誤りだということが分かる。

しかも糸島が伊都国だとすると、九州島の上陸地点である末盧国からは東南でなければならないのだが、末盧国を唐津とすれば東北になる。この末盧国を古田説では松浦半島の北端にある「呼子」とし、「呼子からなら唐津までは東南だから問題ない」と平然と言い、唐津からは東北であるのを全く無視する。

首を傾げつつも大家のいうことだからと、渋々その珍妙な解釈に耳を傾けていたのだが、ある日、「いや、そもそも伊都国が糸島なら、壱岐国から直接船が着けられるじゃないか。なぜわざわざ唐津や呼子で船を捨て、糸島まで歩いて行かなければならないのか?」という疑問が頭から離れなくなった。

そこで末盧国に比定されている唐津(私も唐津説だった)から地図上で「東南陸行」させてみたのである。そうしたらちゃんと松浦川沿いの道があるではないか。

その道は渓谷というか谷川というか松浦川に沿って上流に「東南陸行」しており、上流近くには「厳木(きうらぎ)町」という小盆地に展開する人口6000人ほどの町がある。この町からは分水嶺を越えてなお東南に行く道があり、多久市や小城市に通じ、そこからは有明海に面する肥沃な佐賀平野が広がっている。

最初、私は多久市か小城市が「伊都国」だろうと考えたのだが、今は「伊都国」は「イツ国」であり、上流山間の厳木町を「イツキ町」と読んで「伊都国=厳木町説」を提唱している。(※王族が住んでいながら小盆地に戸数僅か千戸の小国であるのは、かつての佐賀平野全体を覆うような大国「伊都(イツ)国」(厳(イツ)国)だったのだが、北部沿岸部の大国「大倭」と争って敗れたが故の逼塞と考えている。)

このように唐津から「東南陸行500里」に当たる伊都国は、まさしく東南に歩いた松浦川上流部にある「厳木町」である。この伊都国を福岡県の糸島市に比定したら、九州島上陸後ののっけから邪馬台国への行程を踏み外すことになり、永遠に邪馬台国には辿り着けない。

タイトルに寅さんの決め台詞「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」に似せて「伊都国を糸島にしちゃあ、お仕舞いよ」としたのはその意味である。

※※邪馬台国までは「郡より女王国まで1万2千余里」のうち水行(海路)1万里を除いた残り2千余里の陸路であるから、畿内説は全く成り立たないことが分かる。唐津から徒歩で行けるところすなわち九州島内に求める他ない。途中の奴国・不彌国も佐賀平野にあり、そこを徒歩で通過し、さらに湯名至極の吉野ケ里(華奴蘇奴国に比定)なども通過し、筑後川を渡った久留米からさらに南の八女市郡域が女王国だ。

※※九州説でも邪馬台国が「投馬国の南、水行20日、陸行一月」と思い込んでいる論者が多く、投馬国が「不彌国の南、水行20日」と解釈してしまっているが、どちらも「帯方郡の南」なのである。邪馬台国が「帯方郡の南」なのは「郡より1万2千余里」と「水行10日、陸行一月」とが見事に同値対応していることで判明する。繰り返すが、このことにより畿内説は全くの論外となる。

ただ、投馬国については「水行20日」が「水行2万里」に対応することから、もし不彌国の南であるとすると、投馬国は不彌国から南へ2万里、すなわち帯方郡から末盧国までの1万里の2倍の距離にあることになり、不彌国がもし九州島の北端にあったとしても、奄美大島あたりに比定されてしまう。そして同様に邪馬台国の「南、水行10日、陸行一月」の「南」が投馬国の南であるとすると、奄美大島から南の沖縄島あたりに邪馬台国があることになるが、それでは「陸行一月」が浮いてしまう。

※※以上から、投馬国は「不彌国の南、水行20日」ではなく、「帯方郡の南、水行20日」であり、また邪馬台国は「投馬国の南、水行10日、陸行一月」ではなく、「帯方郡の南、水行10日、陸行一月」なのである。この「帯方郡の南、水行10日」は帯方郡から末盧国までの「1万里」に相当し、「陸行一月」は九州島の末盧国に上陸してから東南方面に歩く距離「1万2千里から水行1万里を減じた2千里」に相当する。

その場所は唐津から厳木町まで東南陸行500里の4倍に相当する八女市郡域である。(※まずは行程論だけによる結論である。)