鴨着く島

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赤穂浪士と薩摩義士

2021-06-29 19:15:08 | 災害
最近、人に貸し出していた本が帰って来た。

2冊あって、一冊は『宝暦治水と薩摩藩士』(伊藤 信著 昭和18年刊)ともう一冊は『千本松原』(岸 俊雄著 1986年刊 あかね書房)である。

どちらも同じ薩摩藩が行った木曽川・長良川・揖斐川の三川分流(治水)工事の様子を描いている。前者は研究書、後者は児童文学であり、読者の対象は違うが、両書それぞれにかの治水工事の偉大さが了解される。

赤穂浪士と並べてみたのは、どちらも多数の犠牲者を出したことにおいて双璧と思えるからである。

【赤穂浪士】

赤穂浪士譚はよく知られるように、元禄14(1701)年3月に播州赤穂の城主浅野内匠頭長矩が江戸城内の松の廊下で高家の吉良上野介義央に切りつけ、けがを負わせ、そのことにより即日切腹の上、お家御取り潰しとなったため、1年9か月余り後の暮れ(12月14日)に浪士となっていた47名が本所の吉良邸に討ち入り、見事に吉良上野介の首級をあげ、主君内匠頭の墓前に供えた――という史実である。

竹田出雲の戯作『仮名手本忠臣蔵』というタイトルにあるように、赤穂浪士は主君をないがしろにした吉良上野介に対する仇討ちという側面があり、封建道徳たる臣下の主君に対する「忠」を体現したということで、忠臣と呼ばれ、当時の輿論を喚起した。

幕閣の中では「殿中における不届き」という裁きが主流を占め、主君切腹かつお家取り潰しという非情な決定がなされたのだが、吉良上野介の方にはお咎めなしということで、「喧嘩両成敗」的な気配は全く見られなかった。

このことが余計に47士の肺腑をえぐったわけで、ついに元禄15(1702)年12月14日夜の「仇討ち」に行き着いた。無事に本懐を遂げた47士(実際には46士だった)は、すぐに各藩の屋敷に預けられ、明けて幕府の命により元禄16年(1703年)2月4日に全員が切腹(介錯)に果てたのであった。

実は吉良家もこの時の騒動において警護不備とかの理由で御取り潰しになっている。ようやく「喧嘩両成敗」となったわけである。

主君の恨みを晴らすべく立ち上がり、本懐を遂げた彼らは確かに「忠臣」であったことは間違いない。他家に仕官の道はあったのに、主君に忠節を尽くしたのは、封建時代にあってまさに「見上げた仕儀」であった。

しかしそれはあくまでも一武家と一武家との間の衝突でしかなく、他の誰の損得とも無関係である。

【薩摩義士】

それに比べると、「宝暦の木曽・長良・揖斐三川治水工事」を請け負った(請け負わされた)薩摩藩側の犠牲者86名は格が違う。彼らの犠牲は治水工事という対象地域数万の人々の命と安全を確保する上での犠牲であった。

そもそもこの濃尾平野から木曽川河口付近の桑名地方にかけては輪中という名で知られる農村地帯で、木曽川の川床が長良・揖斐よりも8尺ばかり高いために、大雨や雪解け水の増水でしょっちゅう洪水に見舞われていた。

宝暦3(1753)年の秋に大きな洪水があり、輪中各所で被害が続出し、ために農民たちは幕府の代官所である笠松郡代に請願を出し、それが幕府にも伝わり、どう改修するかで結論として外様大名による「お手伝い普請」が採用されることになった。

その白羽の矢が立ったのが薩摩藩であった。

「お手伝い普請」という名称からは一見して幕府方が工事計画も費用も負担する工事にただ人員を加勢するだけのように思われるが、工事計画は別として費用も人員もすべて外様大名に出させるというものなのである。幕府の見積もりでは当初約9万両(現在貨幣にして36億~45億円)であった。

明けて宝暦4年の2月に薩摩藩は総奉行平田靱負以下、国元からと江戸藩邸からの応援併せて600名余(のちに約1000名に増える)が、300里も離れた濃尾平野の輪中地帯に入った。すぐに前年秋の洪水による破損個所の応急工事に取り掛かり、慣れない仕事と幕府方官吏の横柄、また地元雇用の農民の不慣れなど、苦労を重ねて3か月ほどで仕上げた。

しかしこの間、工事開始から1か月半後の4月14日に初の「切腹者」2名を出す。切腹の理由は、上述のような幕府方役人の横柄な態度、使用する庄屋や農民のこれまた薩摩武士への慳貪が重なったことによると思われる。

この「抗議の切腹」は幕府方にそう取られてはならず、最初の切腹者であった永吉惣兵衛を桑名の禅寺「海蔵寺」に葬る際に出された文書(申請書)には次のように書かれていた。

〈 松平薩摩守家来、永吉惣兵衛、腰物にて怪我いたし相果て候につき、貴寺に葬り申し度き段、御頼み申し入れ候・・・〉

死の原因は切腹ではなく「腰の物」つまり刀による怪我であったとし、葬って欲しいと申し入れているである。一武士の「抗議の切腹」がひいては薩摩の幕府への抗議に拡大解釈されるのを極力畏れたために他ならない。

この切腹を皮切りに、工事期間1年4か月の間に切腹した薩摩武士は53名(最後の自害は総奉行平田靱負であった)で、平田以外はこの永吉惣兵衛のような葬り方をされた。埋葬された寺は、輪中地帯を囲むように10ヶ寺に及んでいる。(※ただし平田靱負の遺骸は京都伏見の大黒寺に埋葬された。)

切腹者の中に薩摩藩士以外の者が一人いた。その名は内藤十左エ門といい、現地の水行奉行高木家の家臣であった。彼の死は死の間際の「聞き取り書き」によっていくらか分かっている。

何か自分の担当した工事個所に「手抜かり」が見つかったようで、幕府目付衆の指弾するようなことがあれば主人に対して面目がないという理由のようである。この人の死は封建道徳上の主君への「忠」によるものであるから、薩摩藩士の死とはいささか違う。

このほかに夏場に多い「赤痢」などの病で命を落とす藩士や下人がいた。その数は33名であった。

薩摩藩士及びその下人併せて86名の犠牲は、彼らが自分の領地の利益になるような仕事において落とした命ではない。自分にとって何の得にもならないことを、自分たちの費用と汗でやり遂げようとして落とした命である。何という崇高な働きであったことか。

義士(義人)とはまさにそのような人に使われる言葉だ。

工事を開始して1年と4か月の宝暦5年(1755年)5月25日。5日前に幕府方の検分を済ませ、前日までに国元へ向けて工事完了の報告を書き認めた平田靱負は、翌朝夜明け前に切腹して果てた。多くの藩士を失ったことと、工事費用の大幅な増加(当初の予算9万両から40万両=約200億円)を招来した責めを負ったのであった。

この木曽・長良・揖斐三川の治水工事は薩摩義士の奮闘により大きな成果を収めたが、その後も洪水による決壊など数知れず、そのたびに同じような「お手伝い普請」が要請されている。その数実に70回あったと『宝暦治水と薩摩義士』には書かれている。しかし薩摩義士による油島締め切り工事(千本松原=日向松の並木)と大くれ川洗堰工事の偉業があればこそ、大きな洪水から輪中地帯が解放されたと言ってよいそうだ。

明治33(1900)年にオランダ人技師が最終的に仕上げたようで、その後、輪中地帯は安全を維持したまま今日まで続いている。

昭和31年になって油島締め切り工事によって生まれた名所「千本松原」の一角に「治水神社」が建立され、平田靱負はじめ86名の薩摩藩士が祭られるようになった。毎年「義士祭」が執り行われており、薩摩義士の名は永遠に伝えられよう。