鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

二人目の「ハツクニシラス」崇神王権の東征(記紀点描③)

2021-06-11 13:08:11 | 記紀点描
「記紀点描②」の最後に書いたように、崇神天皇こと「ミマキイリヒコイソニヱ(御間城入彦五十瓊殖)」とは、朝鮮半島南部の「ミマキ(孫城)」に入り、さらに九州北部の「五十(伊蘇)」(糸島市)に拠点を移し、そこから勢力を伸ばして(瓊殖=玉を殖やし)北部九州全体(福岡県の北半)の一大勢力「大倭」の盟主となった王である。

ここで「大倭」というのは、魏志倭人伝に記載の倭人間の交易(市)や交流を監視する支配者のことで、邪馬台女王国の 官制の中で第一等官に挙げられている「伊支馬(いきま)=生目」がこれに相当する。福岡県八女市にあった邪馬台女王国は230年代の当時、北部九州の「大倭」の保護国のようになっていたと考えられる。

(※崇神の皇子・垂仁こと「イクメイリヒコイソサチ(活目入彦g五十狭茅)」は若い頃、この「伊支馬」の役目を持って女王国に赴任していたことがあった可能性がある。この点についてはあとの記紀点描で扱う予定である。)

さて崇神が九州北部糸島に築いた王権は「崇神五十王権」と呼べるものだが、この糸島こそが倭人伝上の「伊都国」だとする研究者がほとんどである。だが、糸島が伊都国では末盧国(唐津)からは東南ではないし、何よりも糸島なら壱岐国から直接船を着けられるのである。何もわざわざ途中で船から降り、危なっかしい海岸通りの隘路を歩く必要はない。

この不合理に注目した者がほとんどいないので、私が本(『邪馬台国真論』2003年刊)まで出して指摘するのだが、いまだに「伊都国=糸島」説がまかり通っている。ここを見逃すと、邪馬台国までの行程(道筋)はめちゃくちゃになり、「南」を「東」に変えたり、「一月」を「一日」にしたりと、自説に都合のいいように改変して怪しまなくなる。

畿内説は論外だが、九州説でも同様の誤謬を抱えたまま説を展開しているから「論者の数ほど邪馬台国がある」と言われるほどの「盛況」である。

末盧国(唐津)から素直に東南に歩けば(東南陸行500里すれば)、松浦川の上流に「厳木町」(伊都国)があり、下れば多久・小城(奴国)、大和町(不彌国)に至り、広大な佐賀平野を抜けて筑後川を渡り、南下して八女に到達する。ここが「(帯方郡から)南へ水行10日、陸行一月」の邪馬台国である。

「南水行10日、陸行一月」というのは帯方郡からの行程である。距離表記ではないことに気付かなければならないのである。そしてこの「水行10日、陸行一月」はまさに、「郡より女王国まで1万2千里」という記載に合致する。水行10日が1万里に、陸行一月は2千里に当たっているではないか。

投馬国も同様に不彌国からの「南水行20日」ではなく、「帯方郡から水行20日」なのであり、唐津までの水行が10日であったから、そこからさらに水行10日で到達する国である。そこは南九州(古日向)である他ない。

しかも倭人伝によると投馬国の王名が「ミミ」であり、女王(副官)の名が「ミミナリ」であるというが、記紀では神武の子に「タギシミミ」「キスミミ」がいるとし、さらに東征後の大和で生まれた皇子たちの名も「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」とミミ名が付けられている。記紀どちらもが、南九州の投馬国が「東征」して大和に橿原王朝を築いたことを認めているわけである。

もちろん「南九州からの「神武東征」は造作に過ぎず、南九州に多い「ミミ」名を採用することで本物らしく見せかけたのだ」という考えもあるのだが、しかし、それなら初めから大和王朝の創始者らしい重々しい名を付ければよさそうなものではないか。そうしなかったということはそうできなかったという事だろう。南九州からの「神武東征」(私見では移住的な王権の移動)は史実としてあったとしなければなるまい。

さて、今回は崇神五十王権(大倭)の「東征」の話であった。

私はこの王権は崇神・垂仁の親子二代にわたる勢力の拡大で北部九州に「倭国連合」を形成したと考え、一言で「大倭」と言われたと考えている。そしてこの大倭が魏志倭人伝に国の概要(王名・戸数・官制)を載せられていないのは、大倭と魏王朝との間に「国交」つまり魏への朝貢も挨拶もなかったからだと思うのである。

そもそも崇神及び崇神の先祖が半島から南を目指したのは、大陸に魏王朝が成立して15年後の238年、魏は半島で自立していた公孫氏を滅ぼし、帯方郡を支配下に置いたことによる魏の圧力を避けるためだった。

半島から糸島へ王権を移してからは由緒ある王権として勢力を拡大するとともに、九州北部にあった大勢力との戦いや、邪馬台国との紛争が避けられなかった。しかしそれでも260年代までには九州内ではもう大倭に匹敵する勢力はほぼいなくなった。

だが、大陸で魏が晋王朝に取って代わられた266年頃を境に、再び半島情勢が逼迫した。この晋王朝を開いた司馬炎の祖父の司馬懿・大将軍の勇猛は半島内ではいまだに畏れられるほどで、孫の代になったとはいえ、いつまた半島への攻撃が行われるか危ぶまれ、もしかしたら朝鮮海峡を渡って九州島にまで矛先を向けるかもしれない。

そんな危機感の下で計画されたのが、列島の中央への「東征」だった。

これを「崇神東征」と私は呼ぶのだが、その時期は270年代と考えてよいだろう。古事記の「神武東征」の期間は畿内河内に着くまでに16年という長年月を要したとするが、これは東征とは呼べず「移住」に近いのではないかとした。それに対して日本書紀の「神武東征」の期間はわずか3年である。

同じ東征期間なのに一方は16年、もう一方は3年という大きな違いは、東征は二度あり、古事記の16年は南九州からの投馬国の東征(移住)期間であり、日本書紀の3年というのは北部九州からの崇神東征(大倭東征)だったと考えると整合を得るのだ。

この崇神東征(大倭東征)の時期は上で見たように270年代だと考えられ、その時に滅ぼされた南九州由来の橿原王朝の主こそ、崇神紀の10年に登場する「武埴安彦(タケハニヤスヒコ)」と「吾田媛(アタヒメ)」だろう。

武埴安彦の「武」は「武日(古事記では建日)」で南九州(クマソ国)の出自を物語るし、吾田媛に至っては「吾田=阿多」で、鹿児島県薩摩半島部の古名そのものである。

この王と王妃の組み合わせは、まさに南九州古日向の投馬国の「ミミ(王)・ミミナリ(女王)」体制の継承者であることを示している。

さらにこの武埴安彦・吾田媛のコンビが南九州由来の橿原王朝の後継者であることを明示するのが、次の記事である(文字の改変あり)。

<吾(崇神)聞く、武埴安彦の妻アタヒメ、ひそかに来たりて、倭(やまと)の香久山の土を採りて、頭の領巾に包みて祈り「これ、倭国の物実」と申すして、すなわち帰りぬ。これを以て、事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。>(崇神10年)

アタヒメが天の香久山の土を採取して、「これは大和の物実(ものざね)」といって持ち帰ったのは、反逆のしるしだとしてすみやかに応戦の準備をするようにーーと崇神が危惧しているシーンだが、これとほぼ同じシーンが神武紀にあるのだ。次の記事である(改変あり)。

<天皇、前年の秋9月を以て、ひそかに天香山の埴土を採りて、八十の瓮(ひらか)をつくり、自ら斎戒して諸神を祭り給ひ、ついに区宇(天下)を安定せしむ。かれ、埴土を採りし所を埴安といふ。>(神武即位前紀)

アタヒメも神武(タギシミミ)もどちらも全く同じように天の香久山に登って埴土を採取しているのである。神武は大和平定の戦いに勝利するように埴土で八十の瓮を作り、そこに供餞して神々を祈ったのだが、アタヒメも同じようにしたはずである。

この行為は崇神にしてみれば反逆者の反抗的な行為であり、許せないものであったのだが、アタヒメ側にしてみれば我が王朝を簒奪しようとする崇神側への対抗策であった。

神々への祈りも空しく、南九州から「東征」して初めての王朝を築いた投馬国王権は滅亡に向かう。タケハニヤス・アタヒメはその5代目くらいの王と女王であった。西暦280年代のことと思われる。