鴨着く島

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神武と崇神の「外来性」(記紀点描④)

2021-06-12 09:37:52 | 記紀点描
「記紀点描」の①から③にわたって、いわゆる「神武東征」なるものが、実は2回あり、最初のは南九州(古日向)投馬国からの「災害からの避難的な移動」であり、二回目のは北部九州の「五十王国」から発展した倭人連合すなわち「大倭」による「武力討伐的な移動」であったということを書いて来た。

そして、最初の大和王権である投馬国王タギシミミの橿原王朝が、約100年後にやって来た崇神王権によって取って代わられたその一つの証拠が「武埴安彦と吾田媛の叛逆」として描かれた(崇神紀10年)とも述べた。

だがもう一つ崇神王権による「投馬国王統追い落とし」の事件があった。

同じ崇神10年の記事に、「大彦命を以て北陸に遣わし、武渟川命を以て東海に遣わし、吉備津彦を以て西道に遣わし、丹波道主命を以て丹波に遣わす」といういわゆる「四道将軍派遣」の記事があるのだが、初めの3つまでは「北陸道」「東海道」「西海道」というように広範囲を鎮定する役目なのだが、最後の「丹波」についてはどうもしっくりこないのである。

丹波というのは今日でもさほど広い土地柄ではなく、こじんまりとした内陸の盆地に過ぎない。ここにわざわざ将軍クラスの丹波道主命を派遣する意味があるのかと誰しも考えるに違いない。

そこで古事記を参照すると次のようである。

<またこの御世に、オオビコ命を高志道に遣わし、その子のタケヌナカワワケ命を東方の十二道に遣わして、そのまつろわぬ人どもを和平せしめ給いき。また、日子坐(ヒコイマス)王をば丹波国に遣わして「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)」を殺さしめ給いき。>

古事記には西海道に派遣されたはずの吉備津彦の登場は無いのだが、丹波についてはより詳しく書かれている。
(※丹波国に派遣されたのが崇神紀では「丹波道主命」、古事記ではその父とされる「日子坐王」という違いがあるが、今ここでは詮索しないことにする。)

丹波国には「玖賀耳之御笠(クガミミノミカサ)」という征伐の対象者がいたので殺害した、と古事記は書く。この「クガミミノミカサ」という人物とはいったい誰で、なぜ殺されなければならなかったのか、その理由は付されていない。

ところが「投馬国の王=ミミ」という観点からすれば、この人物も、南九州由来の橿原王朝の一族ではないかと見当がつくのだ。「クガミミノミカサ」とは

玖賀=京都北部「久我」(地名)
耳=投馬国王
御笠=王の名「ミカサ」

と分析される。要するに「京都北部の久我地方を支配する投馬国王統の一人である御笠」なる人物ということで、橿原王朝の一族が京都(山城)の北方を支配していたのである。

当然この人物もあとから大和に入って来た崇神王権の討伐の対象になったわけで、この人物は討伐の前に丹波方面に逃げ隠れていたのだろう。逃避先が山奥の丹波というのは、実は京都から丹波へは桂川(保津川)を溯れば到達する場所なのである。

もっとも京都から逃れるとすれば丹波もだが、丹後や若狭への道もある。どちらかと言えば大原を通過して行く若狭への道の方が逃げおおせるには確実だと思うのだが、丹波への道を選んだのには、次の理由があったものと思われる。

その理由は『山城国風土記逸文』に見えている。「賀茂社」という項目だが、全文は長いので要点だけを記しておくと、

1,賀茂社は、日向の曽の峰に天下り、神武東征に先立って大和の葛城に移り住み、その後山代から鴨川に分け入り、「久我の国の北の山基」に定住したカモタケツヌミ(賀茂建角身)を祭っている。
2,カモタケツヌミは丹波の神野のカムイカコヤヒメを娶ってタマヨリヒコとタマヨリヒメを産んだ。
3,タマヨリヒメが川で遊んでいる時に丹塗り矢が流れて来たので床辺に置くと、妊娠して男子を産んだ。その子はカモワケイカヅチといい、上賀茂社に祭られている。
4,カモタケツヌミ・カムイカコヤヒメ・タマヨリヒメの三柱は蓼倉の三井社の祭神である。

日向(古日向)から「神武東征」に先立って葛城に移り、それから北上してついに京都(山城)の鴨川上流の地(当時は久我といった)に定住した人物カモタケツヌミがいたという。そしてカモタケツヌミは「丹波のカムイカコヤヒメ」を娶ったのであった。

つまり、京都北方「久我の国」の南九州投馬国由来の王統(クガミミ)の始祖の母方が丹波出身だったということで、これだとクガミミノミカサが丹波に逃れた理由が了解される。母方の里を目指して逃れたわけである。

しかし丹波も安全な場所ではなかった。崇神側も母方の里という安全弁の隠れた反撃能力を警戒し、ついに崇神の弟のヒコイマス王をわざわざ派遣して追い詰め、殺害したようだ。


さて、このようにして最初の大和王権である南九州由来の投馬国(神武=タギシミミ)王権は、後発の崇神五十王権「大倭」に取って代わられたのだが、いずれにせよ、どちらも畿内大和にとってみれば「外来の王権」だったわけである。

不思議とどちらの漢風諡号にも「神」が付くが、もう一人の「応神天皇」さらには「神功皇后」まで含めて、すべて外来性の王権だった可能性があり、奈良時代にこれら諡号を考え出した淡海三船はそのあたりのことを知っていたのかもしれない。