鴨着く島

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沖縄慰霊の日2021

2021-06-24 09:18:25 | 専守防衛力を有する永世中立国
昨日23日は沖縄戦終結の日。あれから76年が経ち、ひめゆり部隊の生き残りの人たちも90歳を超えた。

1945年の4月から始まった米軍を主力とする連合軍が、「鉄の暴風」と呼ばれた圧倒的な戦力により、沖縄県民を巻き添えにした死闘80日間。県民の4人に1人が命を落としたと言われる太平洋戦最大の地上侵攻作戦がようやく終わった日。

何人もの人が海に身を投げた摩文仁の丘には戦没者の墓碑が地区ごとにずらりと並び、平和祈念堂の観世音菩薩の前には敵軍戦死者を含めた全戦没者の位牌が備えられている。

死者に敵味方の区別はないという沖縄の人々の心の広さがそこには感じられる。

新型コロナ感染下の平和祈念式典は、今年も総理大臣がリモートで参加し、挨拶をした。例によって沖縄の基地負担の軽減に言及していたが、普天間がまだ厳然としてそこにある以上、空々しい。

沖縄の施政権がアメリカから返還されて49年。来年は50周年を迎えるが、日米安全保障条約により、「強固な日米同盟」の象徴として米軍の基地が全島あまねく置かれたままの沖縄。また、日米地位協定という「治外法権」に度々泣かされた沖縄。

沖縄における80日間の県民の「粘り」がなく、早々に占領を許していれば、戦火は鹿児島にも押し寄せていた。もちろん九州南部からの特攻爆撃があったからこそ、予想に反して80日間もの間、何とか持ちこたえたのだが、連合軍はついに鹿児島吹上浜上陸作戦(オリンピック作戦)を実行することはなかった。

鹿児島県民は沖縄県民に足を向けては眠られない。

海軍沖縄根拠地司令官であった大田実少将(死後に中将)は、鹿児島県民はもとより日本国民に対して次のメッセージ(遺言)を残している。
(※本土の海軍軍務局宛ての電信で送られた。)

『沖縄県民、かく戦えり。後世、格別の御高配を賜らんことを!』

これは、沖縄県民がいかに捨て身で米軍上陸を阻止しようとしたか、上陸後もいかに日本軍に協力して働いたか――を縷々述べたあとの最後の言葉である。


今年の慰霊の日は新型コロナ対策で参列者は100人程度に絞られたそうだが、型通りの進行の後、いつものように中学生が慰霊の「詩」を読み上げた。

今年は中学2年生の上原美香さんの「みるく世(ゆ)の謳(うた)」というタイトルだった。(※「みるく」とは「弥勒」のことで、弥勒菩薩である。50億年後に誰もが辿り着く絶対平和の世界という。)その一節。

〈 6月を彩る月桃が揺蕩(たゆた)う
  忘れないで、壊すのは簡単だということを
  もろく、危うく、だからこそ守るべきこの暮らしを
  忘れないで、誰もが平和を祈っていたことを
  どうか忘れないで、生きることの喜び
  あなたは生かされているのよと
  いま、摩文仁の丘に立ち
  私は歌いたい
  ・・・・・ 〉

今年、上原さんに姪っ子が生まれ、その命をあやし、見守った体験がこの詩に生かされている。命とは実に脆いものだ。だからこそ、と。

「6月を彩る月桃」という花は、南九州では「さねん」と言われるのがそうだろう。

沖縄の小学校ではこの月桃を詠み込んだ平和への祈りの歌『月桃の花』(海瀬渡豊・作詞作曲)が、この時期によく歌われるという。6番まであって長いので、沖縄戦に絡めた3番から6番までを紹介しておきたい。

〈 3、摩文仁の丘の 祈りの歌に 夏の真昼は青い空
    誓いの言葉 今も新たな ふるさとの夏
  
  4、海はまぶしい 喜屋武の岬に 寄せ来る波は変わらねど
    変わる果て無い 浮世の情 ふるさとの夏

  5、六月二十三日待たず 月桃の花 散りました
    長い長い 煙たなびく ふるさとの夏

  6、香れよ香れ 月桃の花 永久(とわ)に咲く身の花心
    変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏 ふるさとの夏 〉

3番は慰霊の日の平和祈念式典の光景。4番は摩文仁の丘にほど近い喜屋武(きゃん)岬から身を投げた人たちへの想い。5番は沖縄戦終結の日。月桃の花はこの戦いで亡くなった女学生たちを象徴。6番は彼女らの早いの死への哀惜。追憶をうたっている。

この歌に興味のある人は、ユーチューブをご覧あれ。