6月20日に「史話の会」6月例会を開いた。
今回は「辰韓と弁韓」の続きである。
先月の例会では、辰韓は辰王の治める国で、今日の慶尚道がその領域だとしたが、洛東江沿いに倭人の航海民たちが蝟集し、そこに国々を築いた――ことを説明した。
なぜそこに倭人が蝟集したかは、辰韓で産出された鉄資源(「国、鉄を出す。韓・濊・倭、みなこれを取るに従う」とある)をもとめる倭人、わけても九州島を基盤とする「安曇族」「宗像族」(以上は北部九州)「鴨族」(南九州)が船舶による交易の拠点にしたからであろう。
【弁韓・辰韓の風俗】
弁韓と辰韓は雑居しており、お互いに自由に行き来できたようである。風俗として特徴的なのは、①歌舞と飲食を好む ②生まれた子の頭に石を挟んで「褊頭(へんとう)」にする ③文身している などであるが、この中で②は解釈に苦しむところで、赤ん坊の頭に石を挟んだというのだ。不可解千万の風習であった。
①では「瑟(しつ)」という「筑(ちく)」に似た弦楽器が演奏されていた。のちの「琴」である。弁韓の後身の伽耶には「伽耶琴」があったが、おそらくそれは「瑟(しつ)」そのものだろう。(※馬韓人も歌舞飲食を好んだが、踊りには「鐸(たく)」(鈴の一種)を鳴らすだけである。)
さて、この「琴」だが、日本書紀によると仲哀天皇と允恭天皇の二人の天皇がみずから演奏していた、とある。4世紀代には日本列島にも伝えられていたようである。
群馬県の古墳からは「琴を弾く男」の埴輪が出土しており、5世紀の日本本土に琴が普及していたといって差し支えないだろう。
③の「文身」だが、これは「身を文(あや)す」で入れ墨のことである。航海系の民が入れ墨を全身に施すのは、海中で大魚に出会うのを避けるための工夫であった。
しかしもとより航海及び海運を知らないはずの辰韓人までが「文身」を施していた、史の背景には伽耶鉄山の盛況があり、この資源をもとめて海人倭人の活躍があった。やはり当時でも活躍顕著な(トレンディな)人間の真似をしたがったわけで、ファッション化したに違いない。
後回しになったが、②の「褊頭(へんとう)」である。「褊(ヘン)」は狭いという意味であるから、頭に石を挟んで頭を狭くする(扁平にする)訳で、問題はいったい何のためにそうするのかなのだが、韓伝のこの部分には書かれていない。
そうなれば推測するしかない。そこで取り上げたいのが馬韓の条の次の部分である(現代文化してある)。
〈 その俗、衣幘(イサク)を好む。下戸でも帯方郡に朝謁する際には、みな衣幘を身に着けている。〉
「衣幘(イサク)」とは上着と頭巾のことだが、「帯方郡に正月の挨拶に訪れる馬韓人は首長層は勿論だが、下っ端でも頭に頭巾を巻いている」というのだ。
後世の「衣冠束帯」のうちの「衣冠」にあたるのが「衣幘」だろう。冠をかぶっている姿ではやはり「細面」、つまり顔の幅の狭い方が似合っている。丸い顔ではたしかに似合わないし、被り物をした時にぐらついてしまう。その点、幅の狭い頭であれば被るにせよ、頭に鉢巻のように巻き付けるにせよ、ずれたりしないだろう。
たかがそれくらいのために「褊頭(へんとう)」にするだろうかと疑問を感じるかもしれないが、日本でも武家の時代に頭を「月代」して、丁髷を結っていたのは、そのたぐいと言っていい。そういう風習は後から顧みておかしなものだが、当時の人間はそう思っていなかったのである。
【弁韓の城郭』
馬韓・辰韓・弁韓の城(守り)については、三者三様で、馬韓は「城郭無し」、辰韓には「城柵在り」、そして弁韓には「城郭」があった。
馬韓は馬韓の条を見る限り農耕社会の趣が強く、強大な権力者はいなかったので城の概念に相当するものがなかった。実に平和そのものの姿である。村々では「天君」という司祭のような人物を据え、「蘇塗(そと)」という一種のサンクチュアリがあった。
辰韓には「城柵」があったのだが、これは砦のレベルの施設で、戦火を交えるような争乱に対処できるものではなかった。逆に言えば、さほどの争乱はなかったと見ることができる。既にこの頃、辰韓の王(辰王)は半島から九州島に移動していたがゆえだろう。
そして不可解なことに弁韓には「城郭」が あったというのだ。城郭とは城を囲む塀のことだが、もちろん本来の意味の「土塁」に違いない。なぜ馬韓や辰韓にはなかった城郭が弁韓にはあったのか。
それを解くカギは弁韓の成り立ちにある。弁韓は韓伝ではほとんど「弁辰」と書かれているが、この意味は「辰韓を弁(わか)つ」であり、弁韓はもともと辰韓が12国を開いていた半島南部の洛東江流域に、鉄資源の交易を目当てに進出して来た九州島の倭人たちが土地を借りるか譲与されて作られた国家群だったのである。
つまり交易国家(商業国家)だったわけで、言うなれば徳川鎖国体制下に置かれた長崎の出島的な国家群だったと思われる。
ただ、出島と違うのは単なる取引の場ではなく、鉄資源の開発と製錬・加工まで行っていた加工貿易だったということである。相当の富が発生しただろうし、当時貴金属に等しい鉄の延べ棒(鉄鋋=テッテイ)を備蓄したりしており、犯罪から守るうえで「城郭」は必要だったはずである。
〈 法俗は特に厳峻であった(規則や規律を犯したら、厳しく処罰した)。〉という記述もうべなるかなで、内部の人間によって不正が行われぬようにという事であろう。(第12回 完)
今回は「辰韓と弁韓」の続きである。
先月の例会では、辰韓は辰王の治める国で、今日の慶尚道がその領域だとしたが、洛東江沿いに倭人の航海民たちが蝟集し、そこに国々を築いた――ことを説明した。
なぜそこに倭人が蝟集したかは、辰韓で産出された鉄資源(「国、鉄を出す。韓・濊・倭、みなこれを取るに従う」とある)をもとめる倭人、わけても九州島を基盤とする「安曇族」「宗像族」(以上は北部九州)「鴨族」(南九州)が船舶による交易の拠点にしたからであろう。
【弁韓・辰韓の風俗】
弁韓と辰韓は雑居しており、お互いに自由に行き来できたようである。風俗として特徴的なのは、①歌舞と飲食を好む ②生まれた子の頭に石を挟んで「褊頭(へんとう)」にする ③文身している などであるが、この中で②は解釈に苦しむところで、赤ん坊の頭に石を挟んだというのだ。不可解千万の風習であった。
①では「瑟(しつ)」という「筑(ちく)」に似た弦楽器が演奏されていた。のちの「琴」である。弁韓の後身の伽耶には「伽耶琴」があったが、おそらくそれは「瑟(しつ)」そのものだろう。(※馬韓人も歌舞飲食を好んだが、踊りには「鐸(たく)」(鈴の一種)を鳴らすだけである。)
さて、この「琴」だが、日本書紀によると仲哀天皇と允恭天皇の二人の天皇がみずから演奏していた、とある。4世紀代には日本列島にも伝えられていたようである。
群馬県の古墳からは「琴を弾く男」の埴輪が出土しており、5世紀の日本本土に琴が普及していたといって差し支えないだろう。
③の「文身」だが、これは「身を文(あや)す」で入れ墨のことである。航海系の民が入れ墨を全身に施すのは、海中で大魚に出会うのを避けるための工夫であった。
しかしもとより航海及び海運を知らないはずの辰韓人までが「文身」を施していた、史の背景には伽耶鉄山の盛況があり、この資源をもとめて海人倭人の活躍があった。やはり当時でも活躍顕著な(トレンディな)人間の真似をしたがったわけで、ファッション化したに違いない。
後回しになったが、②の「褊頭(へんとう)」である。「褊(ヘン)」は狭いという意味であるから、頭に石を挟んで頭を狭くする(扁平にする)訳で、問題はいったい何のためにそうするのかなのだが、韓伝のこの部分には書かれていない。
そうなれば推測するしかない。そこで取り上げたいのが馬韓の条の次の部分である(現代文化してある)。
〈 その俗、衣幘(イサク)を好む。下戸でも帯方郡に朝謁する際には、みな衣幘を身に着けている。〉
「衣幘(イサク)」とは上着と頭巾のことだが、「帯方郡に正月の挨拶に訪れる馬韓人は首長層は勿論だが、下っ端でも頭に頭巾を巻いている」というのだ。
後世の「衣冠束帯」のうちの「衣冠」にあたるのが「衣幘」だろう。冠をかぶっている姿ではやはり「細面」、つまり顔の幅の狭い方が似合っている。丸い顔ではたしかに似合わないし、被り物をした時にぐらついてしまう。その点、幅の狭い頭であれば被るにせよ、頭に鉢巻のように巻き付けるにせよ、ずれたりしないだろう。
たかがそれくらいのために「褊頭(へんとう)」にするだろうかと疑問を感じるかもしれないが、日本でも武家の時代に頭を「月代」して、丁髷を結っていたのは、そのたぐいと言っていい。そういう風習は後から顧みておかしなものだが、当時の人間はそう思っていなかったのである。
【弁韓の城郭』
馬韓・辰韓・弁韓の城(守り)については、三者三様で、馬韓は「城郭無し」、辰韓には「城柵在り」、そして弁韓には「城郭」があった。
馬韓は馬韓の条を見る限り農耕社会の趣が強く、強大な権力者はいなかったので城の概念に相当するものがなかった。実に平和そのものの姿である。村々では「天君」という司祭のような人物を据え、「蘇塗(そと)」という一種のサンクチュアリがあった。
辰韓には「城柵」があったのだが、これは砦のレベルの施設で、戦火を交えるような争乱に対処できるものではなかった。逆に言えば、さほどの争乱はなかったと見ることができる。既にこの頃、辰韓の王(辰王)は半島から九州島に移動していたがゆえだろう。
そして不可解なことに弁韓には「城郭」が あったというのだ。城郭とは城を囲む塀のことだが、もちろん本来の意味の「土塁」に違いない。なぜ馬韓や辰韓にはなかった城郭が弁韓にはあったのか。
それを解くカギは弁韓の成り立ちにある。弁韓は韓伝ではほとんど「弁辰」と書かれているが、この意味は「辰韓を弁(わか)つ」であり、弁韓はもともと辰韓が12国を開いていた半島南部の洛東江流域に、鉄資源の交易を目当てに進出して来た九州島の倭人たちが土地を借りるか譲与されて作られた国家群だったのである。
つまり交易国家(商業国家)だったわけで、言うなれば徳川鎖国体制下に置かれた長崎の出島的な国家群だったと思われる。
ただ、出島と違うのは単なる取引の場ではなく、鉄資源の開発と製錬・加工まで行っていた加工貿易だったということである。相当の富が発生しただろうし、当時貴金属に等しい鉄の延べ棒(鉄鋋=テッテイ)を備蓄したりしており、犯罪から守るうえで「城郭」は必要だったはずである。
〈 法俗は特に厳峻であった(規則や規律を犯したら、厳しく処罰した)。〉という記述もうべなるかなで、内部の人間によって不正が行われぬようにという事であろう。(第12回 完)