鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

秦氏と隼人(続き)

2021-04-12 11:19:53 | 古日向の謎
4月9日に書いた「秦氏と隼人」の続き。

前回のブログでは『新撰姓氏録』大和国諸蕃の「秦忌寸」(秦氏)を取り上げて、その内容から 

①応神天皇の14年条に見える半島からの「弓月君」が127県の人民を率いて渡来してきたこと。 
②仁徳天皇の時代になって「波多(はた)」姓を名乗るようになったこと。 
③雄略天皇の時代に、側近のスガルが隼人を使って畿内全域に散り散りになった秦氏の一族を集めさせたこと。 
④そうしたら。18670名もの一族が集合し、その統率者として「秦公酒」という人物が当てられ、養蚕に取り組んだ結果、上納の絹布が朝廷にうずたかく積まれるほどになったので姓を「太秦(うずまさ)」と改名し、酒君の居住地をも太秦となったこと。

と、まとめたのだが、(1)③に見える雄略天皇の側近のスガルと隼人との関係は何か。 (2)同じく③から、隼人がどうして秦氏の探索に駆り出されたのか、すなわち秦氏には隼人との関係があったのか――について考察してみた。

すると、スガルは本姓が「小子部連」であり、古事記の「神武記」にこの小子部連が神武天皇の即位後に生まれた3皇子のうち二男のカムヤイミミの子孫であったと見えることから、隼人とは同じ南九州を本貫に持つゆえ、スガルが指揮して何ら不思議ではない。

さらに秦氏と隼人の関係としては、隼人は南九州(古日向)を出自に持っており、元来は水運に長けた「鴨族」(古日向=鴨着く島)であり、半島との往来も活発であった。①の応神天皇の時代に半島へ対高句麗戦の輸送船団を司ったこともあるゆえ、弓月君の率いる127県の人民渡来にも関わった。そのため言わば「顔見知り」の関係を築いていたのではないか、と考えた。

前回のブログ「秦氏と隼人」ではそう結論付けたのであるが、これに加えて別の史料を提示して補強しておきたい。

その史料とは『山城国風土記(逸文)』と『群書類従』に収録された惟宗直公編著の「本朝月例」である。

(一)『山城国風土記(逸文)』

風土記は和銅6(713)年に、諸国に対してそれぞれの国の「地誌」(郡郷名や地理・産物)を編纂収録して朝廷に選上するように発せられた勅命である。

現在完本としては「出雲国風土記」、多少の簒略はあるが「常陸国風土記」と「播磨国風土記」、そしてかなり省略されて存在する「豊後国風土記」と「肥前国風土記」、以上の5か国の風土記が風土記としての体裁を何とか保っているだけで、その他の国々のは、色々な文献で引用された形で残されているに過ぎない。後者を「逸文」と言うが、山城国(現在の京都府)のもその逸文の類である。

さてこの山城国風土記逸文の中で最も詳しく掲載されているのが、「賀茂社」の項である。ここで引用するには余りに長いので概略を記しておく。(※現代文の意訳である)

【 賀茂(原文では賀茂ではなく可茂。以下同様)というのは、古日向の曽の峰に天降ったカモタケツヌミ(賀茂建角身)命は神武天皇の東征に先立って大和の葛城山に移り、そこから次に山代国(京都南部木津川流域)の岡田に行き、さらに木津川を下って桂川と鴨川の合流点から鴨川の上流に向かい、最終的に現在の下鴨神社を含む「久我」の地に到って定住した。
 このカモタケツヌミは丹波のイカコヤヒメを娶り、タマヨリヒコとタマヨリヒメとを生んだ。娘のタマヨリヒメが鴨川で水遊びをしている時、上流から「丹塗矢」が流れて来たので取り上げて床の近くに置いてみたら子を孕み、男の子が生まれた。
 その子が大きくなった時、祖父のカモタケツヌミが種々の神招ぎをして「父は誰か」と問うと、その子は天井を突き抜けて天に昇って行った。男の子の生まれた物実の丹塗矢は京都南部の乙訓郡にある「火雷神社」の祭神であった。そこで祖父の「賀茂」を採って「賀茂別雷(カモワケイカヅチ)」命と名付けられた。
 カモタケツヌミと妻のカムイカコヤヒメそして娘のタマヨリヒメの三神を祭ったのが「三井社」である。】

以上が山城国風土記「賀茂社」の項の概要だが、実はここには秦氏は登場しない。登場するのは神武東征に先立って曽の国(古日向)から大和葛城へ移住したカモタケツヌミだけである。

論証は省くが、私はこのカモタケツヌミの本来の名称は「カモタケツミミ」だったとしており、カモタケツヌミが南九州投馬国の王(ミミ)の一人であったと考えている。

いずれにしても南九州から大和へ、さらに北を目指して木津川のほとりから京都北部の久我地方にまで移住した一群があったことを示しているのがこの山城国風土記の「賀茂社」の語るところである。

(※ただし、カモタケツヌミ一代で葛城から京都北部まで移動したと考えるのは性急にすぎる。それでは葛城地方にある鴨系の大社群(鴨都波神社・高鴨阿治須岐高日子根神社・高鴨神社)の存在の説明がつかない。)

(二)「秦氏本系帳」(『本朝月例』の内)

さて、この南九州から移住したカモタケツヌミを祭る「賀茂社」の「丹塗矢伝説」を巧みに取り入れて我が祖先の由来にしたのが、秦氏なのである。これは群書類従に収録されている『本朝月例』という惟宗直公が編纂した「行事集」の中に記載されている。

編著者の惟宗氏は秦氏の後裔であるからまさに打って付けの書き手でもある。

「秦氏本系帳」の前半では、ほぼ山城国風土記「賀茂社」を丸写しした伝承が記されている。そこはもちろん省き、そのあとの秦氏との関わりについて記した部分のみを現代文の意訳で書いておきたい。

【 秦氏の一女子が鴨川に行って衣装の洗濯をしていた。するとそこに一本の矢が、上流から流れて来た。女子はそれを家に持ち帰って入口の戸の上に刺しておいた。すると女子は夫無くして子を孕み、男子を生んだ。父母が娘を何度も詰問するが、娘が「父は分からない」の一点張りだった。
 ついに我が家との付き合いのある村人を集めて宴会を催し、その子に自分の父と思う人に盃をあげなさいと言った。そうしたら 男の子は入口に刺しておいた矢を指さし、雷となって天に昇って行ってしまった。それで上賀茂社の祭神を「別雷(わけいかづち)神」と言った。そして下鴨社の祭神を「御祖神(みおやのかみ)」と言った。
 戸の上に刺してあった矢は「松尾大明神」であった。
 秦氏はこれら三つの社(上賀茂神社・下鴨神社・松尾神社)を奉斎することになった。
 そして鴨氏から婿を取り、その婿のために鴨祭(葵祭)を執り行うようにした。今、鴨氏が禰宜となって葵祭を行うのはここに由緒がある。】

「秦氏の一女子」は「カモタケツヌミの娘・タマヨリヒメ」に、「流れて来た一本の矢」は「流れて来た丹塗矢」に該当するのは言うまでもない。

違うのが、「戸の上に刺した矢」と「床の近くに置いた丹塗りの矢」と、「神招ぎした後の宴会」と「村人を集めた宴会」と、「矢は松尾社の祭神」と「丹塗矢は火雷社の祭神」であるが、前の二者は修辞上の違いくらいで本質的な違いではないが、後者はだいぶ違う。

同じ男子の物実になった矢が、一方は京都右京区に鎮座する松尾大社の祭神で、もう一方は京都府乙訓郡に鎮座する火雷神社の祭神だという。つまり神社が全く違うのである。

時系列から言えば、カモタケツヌミの時代には「丹塗矢=火雷神社」だったのだろうが、秦氏が鴨川の西を流れる葛野川(桂川)流域に定住して開拓し、氏神として祭った松尾大明神が建立された時代になってからは、こちらが娘を孕ませた矢の出所となったのであろう。

この説話の最後の方で「鴨氏から婿を取り」とあるように、カモタケツヌミの子孫の鴨氏(鴨県主)から婿を迎えるほど、両者は親縁の間柄になった。

したがって隼人と同じ南九州(古日向)を故地に持つカモタケツヌミであれば、そのカモタケツヌミの後裔である鴨氏も隼人とは遠戚の関係にあり、秦氏が鴨氏を介して隼人に親近感を懐くのもむべなるかなという結論に達する。


以上、隼人(南九州鴨族の後裔)は秦氏(弓月君)の半島時代にも水運を通じて関係があり、畿内に渡来した後もかれこれの繋がりがあった。

特に秦氏が京都の桂川流域を開拓し、定住するにあたって隼人と同じ古日向出身の豪族で京都北部の久我の地を治めていたカモタケツヌミの後裔一族とは「婿取り」という形で婚姻関係を築いていたのである。

勿論この時代にはまだ「隼人」という呼称はなく、アタ人、アヒラ人、ソツマ人、カモ人などと自称し、他称されていたはずだが、いずれにしても南九州古日向人(倭人伝時代の古称は「投馬国人」)と秦氏との関係は秦氏の渡来時代からの古いものであったとみてよいだろう。

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