鴨着く島

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「子どもに向き合う」ことの大切さ

2021-04-06 13:23:27 | 母性
昨日の南日本新聞の「論点」で、南さつま子どもの家園長の上園(かみぞの)氏が「新学期、子どもに向き合って」に書いていた内容には諸手を挙げて賛成なのだが、中で「2019年度の文科省発表による不登校の児童生徒の数が18万余人いて、この7年間はずっと増え続けている」というのには驚くほかなかった。

児童生徒というのは小中学生のことで、各学年120万人平均とすると9倍して1080万人。このうち18万が不登校なのでその率は6パーセント。100人いれば6人が不登校ということになる。おおむね1学級に2人である。

上園氏が27年にわたって不登校相談をして来て、不登校への取り組みについては次のような結論を出している。

(1)できれば不登校の問題は、家族の関わりの中で解決して欲しい。
(2)不登校は学校での出来事が引き金となっているが、実は家族の中でコミュニケーションがうまく学べていないために、他者との関係構築が困難となって起こることが多い。
(3)相談にはご両親での参加をお願いしている。

要するに子供は家族関係の中で成長して行くものであり、その過程で不具合が生じた場合、親子間のコミュニケーションが最も大事だということだろう。全くその通りである。

子どもが不登校を含む不具合に陥った場合、両親が(片親の場合でも)立ち止まって子どもに寄り添い、耳を傾けるという行動が要求されるということで、まずは「寄り添う」のが先決だということである。


実は私の弟も不登校だった。と言っても、もう56年も前のことで、当時は「不登校」という用語もなければ、その前によく使われていた「登校拒否」という用語もなく、良くて「長欠」、悪くすると「ズル休み」などと言われた時代である。

弟は中学2年生だった。まだ1学期が始まってそう経たない頃だったと記憶するが、学校へ行けなくなった。ある朝から「便所」に籠るようになったのである。

勤めに出ようとする母がいくら「ほら、早く出て来なさい」と呼びかけても出て来ない。その内に高校生だった私も、父も母も、兄、姉もそれぞれ家を出て行く。残るのは弟と「お手伝いさん」のみ。

1学期にどのくらい通学したのかよく覚えてはいないが、休み休み学校には行っていたはずで、3年生を終えると一応都立高校には入学しているので、全休ではなかった。その間、精神科の医者にかかるようになっていたので、安定剤は飲んでいたように思う。

一家は6人。両親は教員(母は小学校、父は中学校)で、姉、兄、私、弟という家族構成だった。それと「お手伝いさん」と呼んでいた住み込みの家政婦がいたので、7人が同居していた。

弟が生まれた時、私は1歳3か月、兄は4歳8か月、姉はほぼ10歳であり、姉はもう自分のことは自分でできたので母も手がかからず楽になり始めていたが、兄弟3人はそういうわけにはいかなかった。

それでも母は毎日勤めに出ていたから、家政婦は手のかかる3兄弟を抱えて相当大変だったろう。

弟は4月生まれということもあって、同学年では体格もよく成績もよかったから俗に言う「親のひいき目」にあずかっていたが、私は遅生まれで体格も小さく、成績もオール3で、時おり2つばかり4が加わる程度だったから、教員の子としては落第生だった。

だが、成績のことより何よりも兄弟を(姉も)悩ましたのが、家を出る時と帰って来たときに、母親の「行ってらっしゃい」「お帰り」の無いことだった。授業参観にもPTAの会合にも来ないのだ。

それどころか極めつけは、入学式にも卒業式にも来ていないのである。今なら副担任という制度があり、学級担任でも自分の子どもが入学だ卒業だという時には休める制度があるが、当時は無かったのである。

「母親不在」というのは言い過ぎだが、「母親に寄り添われなかった」のは確かで、母親が帰宅する5時半ごろになるまで外遊びをし、夕飯の時間が母親とのコミュニケーションタイムなのだが、大抵は姉が密着しており、こちらに振り向けられる時間は少なかった。

教員は夏休みをはじめ冬休み、春休みがあるじゃないか、と言われそうだが、確かに夏休みは40日と長い。しかしエアコンの無い時代の家屋の中は蒸し風呂に近く、そうそう母親に密着するわけにはいかなかった。

私が小学校4年生の時に近所に「そろばん塾」ができ、それまで習い事もスポーツも何もしていなかったので行き始めたのだが、これが私の脳内のシナプス結合を密にしたらしく、集中力もついて、学校の成績が上向き始めた。

すると何を思ったのか、父が学習塾へ行くように段取りし、そろばん塾は止めさせられてしまった。自分としては面白かったのでそのまま続けたかったのだが、父の思惑に負けたのである。

父は、成績をさらに上げて有名大学の経済学部を出て、金融機関に入れという。当時の(今でも)銀行・証券会社の年収の高さに魅せられたのが父だった(金縛り=睡眠中になるのは「かなしばり」だが、父の陥ったのは「かねしばり」だったろう)。

中学校は上位の成績で卒業し、学区内トップの高校に入学できたのだが、弟はその頃からやや下がり気味の成績に自分の家庭内の存在感が低下して行くように思ったのだろうか、「引け目を感じる」という言葉を私に漏らすようになった。

そして冒頭の不登校が始まったのである。

しかしその伏線は先に触れたように「母親に寄り添われなかった」幼少年時代にあった。これは「伏線」というには余りにも明らかな事態なのだが、当時の教員は男女平等賃金と言われており、女性の職種としては給料がよかったのか、なかなか辞めようとしなかった。ただその代わり、仕事の環境は男女そう変わらなかったはず(女性教員には宿直が無かったことくらいだろうか)。

だから母は母親というよりかは父親と同格であり、言うならば「父親ときどき母親」レベルの家庭環境を現出していたとも言える。私たちの住んでいた東京の北区赤羽西界隈はベッドタウンで、ほとんどの家では主人が都心に勤務し、母親は専業主婦で家にいるのが普通だった。

母が「母親に還る」のは冬休みだけと言ってよかった。というのは冬休みに入ると母は着物に割烹着を着け、正月準備のために掃除や買い物、台所仕事と、やっと近所の家々の主婦と同じ格好をし、働きをするのである。これは嬉しかった。正月の来るのも嬉しいことだが、それよりこっちの方が嬉しかった。

弟が中学2年で「不登校」を始めた時、母親が教員を辞め、このような普通の家庭の主婦になって寄り添っていたら、不登校は収まり、意気揚々と学業を続けていたのではないか――と思うと返す返すも残念である。

両親が揃って警察官なのに、子どもが「万引き」を繰り返して警察沙汰になったら、たいていどちらかの親が警官を辞めるだろうに・・・。

母は結局その後も、父が中学校を退職後3年目に胃がんで亡くなるその年まで教員を続けたが、その時弟は19歳、精神科に通うようになってすでに5年。時おり妄想や一人おしゃべりをするようになっていた。

油絵の世界へ行きたいという希望もあったのだが、心の不具合を克服し切れずに32歳の若さでこの世を去ってしまった。


上園氏が言うように、子どもの不具合が見えた時、すぐに立ち止まり、寄り添い、「子どもの目線(肩の線)で向き合うと、子どもはバランス良く立ち上がって行く」のは間違いない。その時、不具合もよい経験だったとして心の財産になるはずだ。

とにかく、子どもの声に耳を傾け、(特に母親は)寄り添うこと。親子の関係はこれに尽きる。